振り返ると知った顔があった。羽菜子より少し年上の保坂という営業部の社員。
彼はいつの間にか羽菜子の隣の席に座って好色な笑みを浮かべ、身を乗り出すように羽菜子のほうに体を向けている。
「保坂さん……?」
「俺でどうよ。で? いくらなの?」
――いくら?
「水臭いなぁ、言ってくれればいつでもつきあうよ?」
更に体を寄せてくる保坂に恐怖して、喉の奥がゴクリと鳴った。
「な、なに言ってるんですか?」
「隠すなって、ここで男探してるんだろ?」
――な、なんてこと。
ショックと怒りと恐怖とで体が震え、声が出ない。
何度か息を飲んで声を振り絞った。
「そ、そんなことしてません」
「大丈夫だよ、誰にも言わないからさ」
全くあきらめようとしない保坂は、ニヤニヤと手を伸ばしてきた。
ああ、どうしようと思いながら保坂の手を避けて立ち上がろうとしたその時、マスターが保坂の前に立った。
「失礼ですが、この方は当店での食事を愉しんでくださる大切なお客さまですので、お止めいただけませんか」
――マスター?
「はぁ?」
「さあどうぞ、お帰りはあちらです」
マスターの声に合わせるように若いバーテンが扉を開けて、保坂に出て行くことを促している。
「な、なんだよ」
毅然としたマスターとバーテンの様子に圧倒されたのか、苦虫を噛み潰したような顔をした保坂は席を立って、舌打ちをして出ていった。
立ち上がろうと腰を浮かせていた羽菜子は、安心したようにへなへなと崩れ落ちるように腰を落とした。
「勝手なことをしましたが、よろしかったですか?」とマスターが言う。
「あ、ありがとうございます。本当に、助かりました。ありがとうございます」
「いいえ。では、どうぞごゆっくり」