『執事のシャルール』へ、ようこそ。

ところどころ小さな声で話をしている客もいるが、ほとんどの客はいつものように黙ったままだ。
それでも皆、幸せそうに口角をあげ目を細めて、スクリーンに目を向けている。

客同士が話をしたりしているのだろうかと想像して、その輪の中に入れるのだろうかと心配していたけれど、そんな心配は全くなかったということになる。

さすが大好きな『執事のシャルール』。
ますます好きになったと胸をキュンキュンさせながら、羽菜子もみんなと同じようにチャップリンを見つめた。

間もなく、ひとりずつワンプレートに盛り付けられた食事が、全てのカウンターとテーブル席に並べられた。

鶏もも肉のグリルをメインに、厚みのあるキッシュからはほうれん草やハムが顔を覗かせている。
たっぷりと掛けられたチーズがほんの少し焦げていて食欲をそそるのは、ココットに入ったグラタン、マリネにピクルスにローストビーフ。
本当に無料でいいのかと申し訳なくなる。

そうこうするうち、店内の照明が落とされた。

フットライトもあるし、料理の奥にはそれぞれガラスの中で揺れているろうそくの灯りがあるので、暗くなっても食事を続けるのに支障はない。

スクリーンにはチャップリンに代わって、別の映像が映し出される。

映画は外国の古い映画だった。

好きあう二人がすれ違い、大人になって再会するけれど……。
クリスマスとは関係ない、切なくて恋しい気持ちが胸に広がるラブストーリー。

最後は涙ボロボロになった。
客の半数以上を占める女性は皆、結構本気で泣いてしまっていたものだから、照明が明るくなると慌てて顔を隠し、恥ずかしそうに笑い合った。

マスターは「すみません、選択を誤りましたね」と恐縮しながら、それぞれに手土産のケーキをくれた。


解散したのは九時。

マフラーを目元付近まで持ち上げてみたけれど、冷たい空気が目に沁みた。

まっすぐ家に帰るのが惜しいような気がして、途中立ち止まり、大きなクリスマスツリーを見上げた。

どんなに恋しくても、タイミングが合わなければどうしようもないんだなぁ……。

映画の余韻が心に残り、そんなことを思いながら、
また切なさが込み上げた。


――マスター、本当に選択ミスだよ。切なさが止まらないじゃないか。


「ハナコ?」

――あっ。

振り返った先には、寒そうに背中を丸め、自転車を押している笹木がいた。

「もしかして、いま帰りなの?」

「そう、イブだから」

「なにそれ」
真顔で答える笹木がおもしろくて、思わずアハハと笑う。

「なんだ、お前デートじゃなかったのか」
「デート? 違うよ。ちょっとした映写会」

「映写会? ふぅん。なんだか今日はめかし込んでるから、まさかデートかと思って焦ったぞ」

「めかしこんでる?」

確かに今日はおろしたての薄いピンクのブラウスをスーツの中に着ている。
今夜のための、細やかなおめかしではあるけれど、ささやか過ぎて気づく人はいないと思っていた。

「ああ、しっかりな。ピンクなんか着てるし。めかしこんでるついでに、なぁ、飯付き合えよ。イブにひとり残業が気の毒だって思わないのか?」

「え? でも、もう九時だし、遅くなっちゃう」

「俺んちすぐそこだし、泊まって行けよ」
まるで、同性の友人にでも言うように、笹木はさらりと言った。


――え?



ふと、さっきの映画が頭を過った。

ここで会ったのは偶然だけれど、その偶然に、必然の意味を持たせることは出来る。

もう二度とこんなことはないだろうから――。


「お土産にもらったケーキがあるの」

羽菜子はポツリとそう言った。


「――これ。一緒に食べる?」



一生に一度くらい、こんな冒険をしてもいいよね?




4.少しだけの真実



アラサーだからって二十代の頃より神経が図太くなるわけじゃない。
悪意の固まりを正面から受けないように、心のガードが上手になるだけだ。

飛んできそうな予感を敏感に感じ取り、見ざる言わざる聞かざるを貫けば、たいした被害に遭うこともなく無事にやり過ごせることは多い。

それでもやはり、逃げそびれてしまうことがある。
イブの二日後。羽菜子はそういう状態にいた。

羽菜子にとっての女子トイレは危険がいっぱいの場所である。
うっかり自分の悪口を聞いてしまったことがあって、それからは庶務課の女の子たちが席にいるのを確認してから来るようにしていた。

でも避けられない時もある。

たとえばこんな時。
女子トイレの洗面で手を洗っていると、廊下を歩いてくる女子たちの話し声が聞こえてきた。

あとから彼女たちが来る場合はどうしようもない。


耳に届く声の中に、今一番羽菜子が恐れている女の子の声が混じっていた。

最近になってどういうわけだか強烈な悪意を向けてくる彼女の名前は、見崎史佳(けんさき ふみか)

昨日も偶然、『私、田中さんに嫌われるみたいで……』庶務課の先輩に彼女がそう告げ口をしているのを聞いてしまったばかりだ。

史佳が出してきた請求書に不備があり、注意して本人に返したのは本当だが、それは誰に対しても同じことだし、これまで彼女にもそうしてきた。それを好き嫌いで言われても困るが、事の本質はそこじゃない。

羽菜子は、それが自分に向けられた悪意だと気づいた。

猫なで声で周りの同情を誘う。自分が被害者のふりをして相手を追い詰めていく。
そういうことが上手な女の子が時々いる。
彼女たちに目を付けられると厄介だ。何をしてもこちらが悪者にされてしまう。

うっかりぶつかったら、ほらね、と言われるのがオチなので、とにかく近づかないことに限る。いま廊下に出て、顔を合わせることすら怖かった。

とにかく嫌な予感がして、羽菜子は咄嗟に掃除用具用の個室に隠れた。

間もなく始まった噂話。

予感は当たった。

「あたし見ちゃったんだよねー。田中さんってさ、真面目そうだけど実は結構遊んでるよ」

そう言ったのは見崎史佳。
冷や水をかけられたように凍りついた羽菜子は、間違ってもここにいることがバレないよう、息をひそめた。

「どういうこと?」
「一昨日月曜日クリスマスイブじゃん。営業のミキが彼のところに泊まったんだって。それで昨日の朝帰ったらしいんだけど、見ちゃったんだって、朝帰りの田中さん。月曜日と同じ服装だったらしいわ」

「まじ? まじ?」
「それにさ、私、知ってるんだよねー。彼女路地裏のバーにひとりで通ってるんだよ。時々見かけるんだ。いつもひとりでカウンターにいるの。あれ、もしかして男に誘われるの待ってるのかもね。だっておかしいじゃん、ひとりでバーに通うなんて」

「あやしー、パパ括でもしてたりして」
「それだ! 彼氏いるわけないしさ。フケツー!」


どれくらい、そこにいただろうか。
誰もいなくなった女子トイレで気持ちを持ち直し、経理に戻った時、隣の席の加住先輩にそっと声をかけられた。

「大丈夫? 具合でも悪い?」
「あ、いえいえ。なんかちょっと眩暈がしたので休んでました。すみません。でももう大丈夫です」

「無理しちゃだめよ」
「はい。ありがとうございます」

加住先輩は小さく微笑む。
普段は口数が少ないが、ここぞというところは優しい先輩の声に、冷えた心が少し温められた。


――まさか、会社の人に朝帰りを見られていたとは。

本当のことが混じっているだけに辛かった。
それにシャルールのことも。

『執事のシャルール』は外から中が見える。だからこそ入りやすいのだが、そこで男漁りをしていると言われるとは、夢にも思わなかった。

でもそれだけならどんなに言われても構わない。
実際通ってはいるけれど、そんなことはしていないのだから。

問題は、イブのほうだ。笹木が係わってくる。
結局あの日、コンビニで色々買って笹木の部屋に向かったあと、泊まって朝帰りした。

『ハナコ、俺、まじで今日ショックだったんだぞ。お前に男ができたのかと思って』

『やだー、自慢じゃないけど、そんな夢のような話あるわけないよ。笹木くんこそ、彼女がいるんじゃないの?』

『いねぇーよ。いたらお前を呼んだりしない』

一生に一度の冒険のつもりだった。

『笹木くん、笹木くんを信用してお願いがあるの。私ね。そいうことしたことないの。多分これから先も。でも一生そのまま終わるのはちょっと寂しい。だから……』

ふり絞った勇気。
これから先、笹木に恋人ができてしまったら、もう二度と口が裂けても言えなくなる。

『一度だけでいいの』

そう言って頼んだのは自分なのだ。絶対に彼を巻き添えにはできなかった。

パパカツの意味はわからないけれど、たとえそれがなんだろうが、なんと言われようと甘んじようと思った。どうせあと二日の我慢だ。年末年始の休みに入れば、噂も一旦切れる。

――私は大丈夫……。

そう言い聞かせながら残った勤務時間の間、夢中で仕事に没頭した。
というよりも没頭しようとした。

でも、ぐさりと深く心に刺さった傷はそう簡単に治ってはくれない。

――嫌いなら、ただほっといてくれたらいいのに……。
どうして関心を持つの?

沈んだ心を抱えたまま暗い部屋に帰る気にはなれなかった。

吸い寄せられるようにふらふらと向かったのは、やっぱり『執事のシャルール』。

「いらっしゃいませ」
いつもと変わらないマスターの微笑みと声を聞いて、ホッとした途端ちょっと泣きたくなった。

「一昨日はありがとうございました」
「いいえ、楽しんでいただけましたか?」

「もちろん。お土産に頂いたケーキも、とても美味しかったです。ありがとうございました」

「そうですか、それはよかった。昨日は飲みに来るお客様たちを招いたんですが、皆さん映画そっちのけで」
「あらら」

ほんの少し会話をしたあと、少しばかりのお礼をこめて先にソフトドリンクを頼んだ。

――あ。
いま、とっても自然に会話ができた。

羽菜子はそんな自分に少し驚いた。

この店には五年通っているとはいえ、マスターと会話らしい会話をしたことがない。なのにいま緊張することもなく、するすると滑るように喉からちゃんと言葉が出てきた。

いま、強烈に人恋しいということもあるだろう。
でも考えてみると、こんな風に話ができる人は会社にも何人かいた。

まず経理課の人たちはみんなそうだ。
仕事のこと以外話す機会はそもそも少ないが、隣に座っている加住先輩も、岡部課長他ふたりの男性社員ともなぜだか緊張せずに話ができる。
笹木は別としても、他の課にも、何人かそういう人がいた。

彼らに共通していることは? と、考えてみた。

――みんな自然で圧を感じがない。
淡々としていて、一見冷たそうにみえても、どこか優しい……。

そうだ。みんな優しいのだ。

そんなことを考えながら、いつものように深紅の薔薇を見つめた。