ひとしきり眺めたところで、羽菜子は店内に目を向けた。
店の一番奥のテーブル席には女性客。他にカウンターの中央付近には男性。
どちらもひとり客だ。
女性は多分おまかせディナーだろう。
男性はスマートホンを見ながら、ウイスキーかなにか、琥珀色のお酒を飲んでいる。
マスターもバーテンもどの客も誰一人会話を交わすことはない。
ただ音楽が流れるだけ。
同じ静寂な空間でも経理課のそれは違う。
緊張感のないこの居心地のいい沈黙が、彼女はなによりも好きだった。
全ての我慢はここに来るため。
そう思うだけで、十分幸せになれた。
「お待たせしました。サルスエラでございます」
「うわぁ、美味しそう」と、思わず声が漏れた。
若いバーテンがにっこりと目を細めるが、羽菜子はそんなことにも気づかず、湯気の立つ魚介の煮込み料理に魅入った。
ムール貝、アサリ、海老、イカ、あとはなんだろう?
トマトとニンニクとサフラン、他にナッツをペースト状にしてオリーブオイルと混ぜて煮込んだ具材と絡めてまた少し煮込むスペイン料理、サルスエラ。
自分でも作ったことはあるが、使った材料は冷凍のシーフードミックス。
食材が全然違うことを差し引いても、なにもかもが全くの別物だった。
今夜は金曜日だし、今週は忙しくて来れなかったし、残業続きのご褒美にワインをおかわりしてチーズも頼もう。
羽菜子は、そう決めた。