幸人君がヒマワリに来て丸二日が経った。
彼はあの日、夕食を食べないまま『気分が悪い』と言ってベッドに入り、それからずっと布団の中に籠もっている。
そういう子は今までも大勢いた。
環境の変化に戸惑い、思考がついていかないのだと思う。
それでも、子供のお腹は正直だ。空腹を感じ、食べ物を前にすると、途端に手が出てたちまちトレーを空にする。
幸人君もそうなると思っていたのに……。
彼がここに来て口に入れたのはミネラルウォーターとチョコレート五粒だけ。まるで絶食でもしているかのように、食事に全く手を付けようとしない。
「このままなら、また病院に逆戻りだわ」
彼の健康を危惧して、私と良美さんは事務室に乗り込んだ。
少し様子を見ましょう。そう言っていた柳瀬施設長と橋田事務長も、流石にこれはまずいと思ったのか、すぐさま、彼が入院していた私立冴木病院に電話をしてくれた。
〈了解しました。午前の診察が終わりしだい往診に伺います〉
スピーカーホン越しに聞こえたのは、幸人君の担当医師で、施設の嘱託医でもある冴木修司先生の声だった。
彼は施設理事の一人であるその病院の院長、冴木昭夫氏の三男で、非常に優秀な医者だが……三十歳なのに八つも上の柳瀬施設長よりも落ち着いていて、感情の無いサイボーグみたいな人だった。
○◇○
「冴木先生、幸人君の健康状態はいかがでしたか?」
「退院したばかりなので身体に問題はありません」
診察を終えると冴木医師は施設長にそう報告した。
「だったら、どうして何も食べないんですか?」
だが、隣で聞いていた良美さんは納得がいかないようだ。
「精神的なものでしょう」
「でも、入院中は三食きちんと食べていたんですよね?」
心配のあまり良美さんの語気がどんどん強くなる。
「食事記録にはそうありました」
しかし、冴木医師は顔色一つ変えない。
「学校は、もうしばらく休ませた方がいいですかね?」
事務長の言葉に冴木医師は頷く。
「現状況からすれば、その方がいいでしょう。それから、彼がああなったきっかけがあるはずです。心当たりは?」
「それは、私たちが彼に何かしたということですか?」
途端に良美さんの機嫌が悪くなる。
「そういう意味ではありません。食べていたのに食べられなくなった。ということは原因があるはずだと申し上げているのです」
だが、冴木医師はあくまでも冷静だ。
「といっても……夕食の載ったトレーを落としたことぐらいでしょうか?」
場を収めるように事務長が答えると、施設長も頷いた。
――もう黙っておけない。
「あの……」と小さく挙手して、心に秘めておこうと思っていたことを話す。
「見間違いだと思ったのですが、あの時、彼、わざとトレーを落としたみたいなんです」
その場の視線が私に集中する。
「どうしてそんなことをするの?」
驚いたように良美さんが尋ねる。
「当日のメニューは何だったかな?」
事務長が首を傾げる。
「それ、本当?」
施設長が確認する。
矢継ぎ早に質問を浴びせられ、私は戸惑いながらも答える。
「ええ、確かです」
幸人君の視線がトレーに向いた瞬間、彼は驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、苦悶に満ちた顔になり、トレーから手を離した。あれはどう見てもわざとだった。
「その日のメニューはカレーと野菜サラダ。それにデザートの干し柿ヨーグルトでした」
干し柿は毎年冷凍保存して、少しずつ使っていた。去年の物は先日のが最後だった。
「でも……何を見てそうなったかは分かりません」
いや、それは嘘だ。何となく思い当たることはあった。
「あっ、カレーの山頂にピンクのブタもいたわ!」
良美さんの言葉に心臓が嫌な音を立てる。
「あっ、まさか……あれが原因じゃないわよね?」
良美さんが慌てて尋ねる。
「ちょっとやり過ぎたと思ったけど……」
試行錯誤の末、彼女はキリリとしたピンクのブタに、野菜で作った登山用の帽子を被せ、登山ストックを持たせたのだ。
「嫌だ! あの子、登山に何かトラウマでもあったのかしら?」
両手で口を押さえ、「だったら、どうしよう!」と震え始めた。
実は、私もそう思ったのだ。
「水谷さん、落ち着いて下さい。それが原因とは限りません」
施設長の言うとおりだ。だから黙っていたのだ。
私は良美さんの肩にそっと手を置いた。
「ということは、何が原因かはっきりしないということですね?」
「そういうことになります」
冴木医師の言葉に施設長が答える。
「今日は点滴で栄養補給しておきましたが、このまま食べないとなると……カウンセリングの日数を増やさなくてはいけないでしょう」
カウンセリングはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を憂慮して行われるそうだ。現時点では、半月に一回受ければいい、と聞く。
「入院は?」
施設長の質問に冴木医師は「今のところは大丈夫です」と首を横に振った。
「やっと退院できたのに……」
理由は何であれ、どうして被害者となった子がいつまでも苦しめられなくてはいけないのだろう?
「PTSDはちょっとやそっとでは癒えません。フラッシュバックも何が原因で起こるか分かりません。備えあれば憂いなしです」
その言葉どおりなら、喩え今回は元気になったとしても、原因となった何かがトレーに載るたびに、幸人君は苦しむということだ。
「時に、傷付けた者が刑務所に入っている時間よりも、傷付いた者が苦しむ時間の方が長い場合があります」
「理不尽ですね……」
「そうです。世の中は理不尽なことばかりです。ですが、周りにいる人間がそれを怨じても時間の無駄なだけです」
確かに、冴木医師の言うとおりだ。
「優先すべきは彼に食事をさせることです」
「そうね……そうよね。〝たら〟〝れば〟で憂いていてもしかたがないわよね」
良美さんは落ち込むのも早いが、立ち直るのも早い。
「ソラ、作戦会議よ!」
私の手首を握り、「じゃあ、そういうことなので、失礼します」と言って引っ張り、部屋を飛び出す。
「水谷さん! ちょっと」
まだ話があったのか、施設長の呼び止めにも全く耳を貸さない。
無言でずんずん足を進める良美さんの背中が使命に燃えている。彼女はああ言ったが、原因の一端が自分にあるとまだ思っている。
そして、私も……ピンクのブタが発端ではなかったと打ち消せないでいた。
「良美さん、幸人君に食べてもらえるように、美味しい食事をたくさん考えましょう!」
何にせよ、あのトレーにあった何かが幸人君を深く傷付けたのは確かだ。だが、今はそれを追究するよりも、彼に食べてもらえる何かを見つけ方が先だ。
彼はあの日、夕食を食べないまま『気分が悪い』と言ってベッドに入り、それからずっと布団の中に籠もっている。
そういう子は今までも大勢いた。
環境の変化に戸惑い、思考がついていかないのだと思う。
それでも、子供のお腹は正直だ。空腹を感じ、食べ物を前にすると、途端に手が出てたちまちトレーを空にする。
幸人君もそうなると思っていたのに……。
彼がここに来て口に入れたのはミネラルウォーターとチョコレート五粒だけ。まるで絶食でもしているかのように、食事に全く手を付けようとしない。
「このままなら、また病院に逆戻りだわ」
彼の健康を危惧して、私と良美さんは事務室に乗り込んだ。
少し様子を見ましょう。そう言っていた柳瀬施設長と橋田事務長も、流石にこれはまずいと思ったのか、すぐさま、彼が入院していた私立冴木病院に電話をしてくれた。
〈了解しました。午前の診察が終わりしだい往診に伺います〉
スピーカーホン越しに聞こえたのは、幸人君の担当医師で、施設の嘱託医でもある冴木修司先生の声だった。
彼は施設理事の一人であるその病院の院長、冴木昭夫氏の三男で、非常に優秀な医者だが……三十歳なのに八つも上の柳瀬施設長よりも落ち着いていて、感情の無いサイボーグみたいな人だった。
○◇○
「冴木先生、幸人君の健康状態はいかがでしたか?」
「退院したばかりなので身体に問題はありません」
診察を終えると冴木医師は施設長にそう報告した。
「だったら、どうして何も食べないんですか?」
だが、隣で聞いていた良美さんは納得がいかないようだ。
「精神的なものでしょう」
「でも、入院中は三食きちんと食べていたんですよね?」
心配のあまり良美さんの語気がどんどん強くなる。
「食事記録にはそうありました」
しかし、冴木医師は顔色一つ変えない。
「学校は、もうしばらく休ませた方がいいですかね?」
事務長の言葉に冴木医師は頷く。
「現状況からすれば、その方がいいでしょう。それから、彼がああなったきっかけがあるはずです。心当たりは?」
「それは、私たちが彼に何かしたということですか?」
途端に良美さんの機嫌が悪くなる。
「そういう意味ではありません。食べていたのに食べられなくなった。ということは原因があるはずだと申し上げているのです」
だが、冴木医師はあくまでも冷静だ。
「といっても……夕食の載ったトレーを落としたことぐらいでしょうか?」
場を収めるように事務長が答えると、施設長も頷いた。
――もう黙っておけない。
「あの……」と小さく挙手して、心に秘めておこうと思っていたことを話す。
「見間違いだと思ったのですが、あの時、彼、わざとトレーを落としたみたいなんです」
その場の視線が私に集中する。
「どうしてそんなことをするの?」
驚いたように良美さんが尋ねる。
「当日のメニューは何だったかな?」
事務長が首を傾げる。
「それ、本当?」
施設長が確認する。
矢継ぎ早に質問を浴びせられ、私は戸惑いながらも答える。
「ええ、確かです」
幸人君の視線がトレーに向いた瞬間、彼は驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、苦悶に満ちた顔になり、トレーから手を離した。あれはどう見てもわざとだった。
「その日のメニューはカレーと野菜サラダ。それにデザートの干し柿ヨーグルトでした」
干し柿は毎年冷凍保存して、少しずつ使っていた。去年の物は先日のが最後だった。
「でも……何を見てそうなったかは分かりません」
いや、それは嘘だ。何となく思い当たることはあった。
「あっ、カレーの山頂にピンクのブタもいたわ!」
良美さんの言葉に心臓が嫌な音を立てる。
「あっ、まさか……あれが原因じゃないわよね?」
良美さんが慌てて尋ねる。
「ちょっとやり過ぎたと思ったけど……」
試行錯誤の末、彼女はキリリとしたピンクのブタに、野菜で作った登山用の帽子を被せ、登山ストックを持たせたのだ。
「嫌だ! あの子、登山に何かトラウマでもあったのかしら?」
両手で口を押さえ、「だったら、どうしよう!」と震え始めた。
実は、私もそう思ったのだ。
「水谷さん、落ち着いて下さい。それが原因とは限りません」
施設長の言うとおりだ。だから黙っていたのだ。
私は良美さんの肩にそっと手を置いた。
「ということは、何が原因かはっきりしないということですね?」
「そういうことになります」
冴木医師の言葉に施設長が答える。
「今日は点滴で栄養補給しておきましたが、このまま食べないとなると……カウンセリングの日数を増やさなくてはいけないでしょう」
カウンセリングはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を憂慮して行われるそうだ。現時点では、半月に一回受ければいい、と聞く。
「入院は?」
施設長の質問に冴木医師は「今のところは大丈夫です」と首を横に振った。
「やっと退院できたのに……」
理由は何であれ、どうして被害者となった子がいつまでも苦しめられなくてはいけないのだろう?
「PTSDはちょっとやそっとでは癒えません。フラッシュバックも何が原因で起こるか分かりません。備えあれば憂いなしです」
その言葉どおりなら、喩え今回は元気になったとしても、原因となった何かがトレーに載るたびに、幸人君は苦しむということだ。
「時に、傷付けた者が刑務所に入っている時間よりも、傷付いた者が苦しむ時間の方が長い場合があります」
「理不尽ですね……」
「そうです。世の中は理不尽なことばかりです。ですが、周りにいる人間がそれを怨じても時間の無駄なだけです」
確かに、冴木医師の言うとおりだ。
「優先すべきは彼に食事をさせることです」
「そうね……そうよね。〝たら〟〝れば〟で憂いていてもしかたがないわよね」
良美さんは落ち込むのも早いが、立ち直るのも早い。
「ソラ、作戦会議よ!」
私の手首を握り、「じゃあ、そういうことなので、失礼します」と言って引っ張り、部屋を飛び出す。
「水谷さん! ちょっと」
まだ話があったのか、施設長の呼び止めにも全く耳を貸さない。
無言でずんずん足を進める良美さんの背中が使命に燃えている。彼女はああ言ったが、原因の一端が自分にあるとまだ思っている。
そして、私も……ピンクのブタが発端ではなかったと打ち消せないでいた。
「良美さん、幸人君に食べてもらえるように、美味しい食事をたくさん考えましょう!」
何にせよ、あのトレーにあった何かが幸人君を深く傷付けたのは確かだ。だが、今はそれを追究するよりも、彼に食べてもらえる何かを見つけ方が先だ。