部屋の照明を落としてオレンジ色のデスクライトだけにする。
『拝啓』そう書いて、私はペンを握ったまま四角い窓の向こうに目を向けた。
視線の先に鮮やかな夜空が広がっている。月や星がとても綺麗だ。空気が澄んでいるからだろう。
書きかけの手紙をそのままにして、しばし、痛々しいまでに美しい風景を堪能する――と、目の端に、通りを肩をすぼめながら行く人の姿が映る。
「寒そう……」
あの人が誰かは知らない。でも、児童養護施設育ちの私より、きっと幸せな人生を歩んできたと思う。なのに、今この瞬間は、温々とした部屋にいる私の方がずっと幸せに思える。
だから私は冬が好きなのだ。自然の下では誰もが平等。そう思えるから。
○◇○
〝あしながおじさん〟は、アメリカの作家が書いた著名な児童文学作品だ。それを初めて読んだのは、確か……小学四年生だったと思う。
手紙形式で書かれた内容に、『これが小説?』と違和感を持った。
きっと、自由という言葉を知らなかったからだろう。
『物語はこうあるべき!』
『食事はこうあるべき!』
『人間はこうあるべき!』
そんな風に、私は型にはまったものが唯一無二の存在だと思っていた――といっても、施設が子供たちを規則で雁字搦めにしていたわけではない。私が、見えない何かに縛られている、そう感じていただけだ。
それから月日は流れ、再びそれを手にしたのは中学一年生の時だった。
きっかけは何だったか忘れたが、そのときの私は〝あしながおじさん〟って、もしかしたら恋愛小説なの? そんな風に思った。
しかし、その頃の私もまだ何かに囚われていた。
エンディングまで読んで、こんな風に環境の違う二人が幸せになるはずがない、と文句を言ったのを覚えている。
そして……現在の私は純粋にこの物語が好きだ。何冊かある愛読書の一冊でもある。こう思えるようになったのは、今が幸せだからだろう。
しかし、だからといって、主人公に自分を重ね、宛名の主を〝足長おじさん〟と呼んでいるわけではない。そう呼んで欲しいと言われたからだ。
足長おじさんとの付き合いは、遡ること六年前、中学二年生の晩夏からだ。
きっかけは……。
おそらく夏休みに入る前、第一回の進路調査で第一希望の欄に『就職』と書いたからだと思う。
児童養護施設は最長十八歳までいられる。ここ〝ヒマワリ〟も例外ではない。
だが私は、中学を卒業したらここを出る、と決めていた。囚われていると思っていた〝何か〟から逃げたかったのだ。
しかし、学校の先生も施設の先生方も、それを良しとしなかった。
たぶん成績が良かったからだろう。
「十代半ばで社会に出ても苦労するだけだ。君の成績なら奨学金が貰える。悪いことは言わない。進学しなさい」
今ならその言葉の意味が十分すぎるほど良く分かる。だが当時の私は……やはり、まだ子供だった。
「なら、どうして進路調査なんてするんですか? さっさと高等学校を義務教育化すればいいじゃないですか。そうしたら、私だって従います」
生意気にもそんな風に反発した。
すると、それまで黙って聞いていた施設長が、「将来、ソラは何になりたいの?」と尋ねた。
私は用意しておいた答えを言った。「漠然とですが、調理師になろうと思っています」と。
これなら、生涯、食べるには困らないだろう。そう思ったのだ。
それに、資格試験の条件は、中学校卒業と実務経験二年以上。それさえあれば受けられるからだ。
「そうね、貴女は食べることが好きだったわね」
施設長はふっと笑みを浮かべて、「それが将来、誰かのための食事になるといいわね」と言っただけで、反対はしなかった。
しかし、学校の先生は苦虫を噛み潰したような顔で、「夏休み明けに再度提出して頂く。それまでにしっかり相談しておいて下さい」と調査用紙を突き返した。
施設の先輩がその話を聞き、「今はね、中卒者の就職を探す方が、進学させるよりも大変なんだよ」と教えてくれた。
だから先生は是が非でも進学させたかったみたいだ。
こんな風に少々波風を立てた私の進路だが、突如、夏休み終盤に決定した。
降って湧いたように養女の申し出があったのだ。
驚いたことに、それは赤井梅施設長からだった。青天の霹靂とはこのことだと思った。
――で、この事がなぜ進路に関係するかというと、養女になるために、三つの条件を提示されたからだ。
一つ、高校、及び、調理師専門学校を卒業すること
二つ、卒業後は施設で働くこと
三つ、理事の一人である、とある方に毎日手紙を書くこと
そんな馬鹿げた条件を。
「手紙の宛先である理事のことは『足長おじさん』と呼んで下さい。今回の提案はその方が申されたことです」
梅さんの言葉に至極当たり前の疑問が浮かんだ。
「なのにどうして施設長が私を養女にするんですか? 普通なら、言い出しっぺの足長おじさんとやらが養女にすべきじゃないですか?」
「確かにそうですね」と肯定はしたものの、結局、梅さんは理由を言わなかった。
「それに、私は物じゃありません。条件付きで養女になるなんてナンセンスです」
だから、きっぱりと断ろうと思ったのだが――。
「ソラの意見は何もかも道理です」
「だったら……」
「ですが、道理だけで生きていけるほど世の中は甘くないのです」
梅さんの言葉に首を傾げた。
『常に正しくあれ。正しい道を行け。幸福はその先にある』
ここの子供たちはそう教えられ育つ。
「施設の教えは間違っているということですか?」
「いいえ、間違いはありません」
梅さんは悲しげな瞳でふるふると頭を振った。
「ですが……厳しい社会で生き抜くには、純粋で真っ直ぐすぎてもダメなのです」
何が言いたいのか、当時の私はさっぱり分からなかった。
「実は私も施設で育ちました」
そんな私に梅さんは告白した。妹さんと一緒に預けられていたらしい。
「ですから分かるのです。純粋に正しい道を行こうとしても、社会がそれを阻み、陥れるということを。悲しいかな、世間の人が常に弱者の味方でいてくれるとは限らないということです」
「だったら、『ずる賢く生きろ』と、どうして教えないのですか?」
「まずは正しい在り方、道徳を子供に教えることが大人の務めだからです」
「矛盾している……」
知らず知らず口から漏れ出た言葉だ。
「そうです。世の中は矛盾だらけです。それが世の中なのです。そんな中で、自分の良心に従い『正しい』を取捨選択できるようになるには、ある程度、社会というものを知らなくてはいけません」
「そんなの、働きながらでも学べるじゃないですか」
「できればそうさせてあげたい。でも……貴女は自分のことをお利口さんだと思っているでしょう? しかし、しょせんは井の中の蛙。飛び出した途端、ペシャンコに潰されるのがオチです。それよりも――」
射貫くような眼で梅さんがニヤリと嗤った。
この人は誰? そう思ったほど、普段の柔和な顔からほど違い悪い顔だった。
「図太く生きなさい。特に貴女は、親兄弟はもちろん親類縁者に至るまで頼る人がいないのだから」
確かにそのとおりだ。頼れるのは自分だけだった。
「差し伸べられた手を掴むのです。タイミングを逃し、後悔しても後の祭りです。よく言うでしょう? 幸運の女神には後ろ髪が無い……と」
どの言葉も正論だと分かっているのに、プライドだけ高くて子供だった私は、さらに反論した。
「先生はいつも甘い話には注意しなさいとおっしゃっています。それだと、私にだけメリットが有って、先生には何のメリットも無いのでは?」
「確かにそうですね。でも、青田買い? 将来に向けての投資だと思ったら――大きなメリットです。私は施設をとても愛しています。貴女はとても優秀です。投資するに値する人物だと思います。施設にとってもプラスになるでしょう」
その言葉が本心から出たものか否かは別にして、恐ろしいほど打算的な意見に、ある意味私は感心した。オブラートに包まず子供扱いしなかったのも気に入った。
だが、提案を呑めば、施設から逃れたいと思っていたのに、私は施設に一生縛られて生きることになる。
やるせないと思った――なのに私は、「分かりました」と承諾していた。
自棄を起こしたわけではない。必要とされている……何となくそう思ったからだ。
承諾と共に、私は足長おじさんとやらに手紙を書き始めた。
そして、梅さんは、私が中学を卒業すると同時に施設長の座を甥の柳瀬学氏に譲り、理事の一人となり、本当に私を養女にしてしまった。
拝啓
足長おじさん、昨日ぶりですが、お元気ですか?
誕生日プレゼント、届きました。ありがとうございます。
でも、いくら私が読書好きだとしても、十万円分の図書カードはやり過ぎです。
以前から何か届くたびに思っていたのですが……今回は言わせて頂きます。
金銭感覚を養って下さい! 栄枯盛衰。栄華あれば必ず憔悴ありです。
――とは言うものの、ヒマワリの子たちにたくさん本を買えたので、今回は感謝です。
それから、ついでなので言っておきます。
私も二十歳を超えたレディ。贈るなら図書カードよりも深紅のバラ。そう思いませんか?
――むむむ。二十一歳一日目なのに……今日は愚痴が止まりません。
梅さんに、『食育という観点から、管理栄養士の資格を取らない?』と打診されました。
勧めたのは、おじさんじゃないですか?
私のモットーは『食事は美味しく楽しく』です。
足長おじさん邸ではどうか知りませんが、個人宅でカロリー計算をしながら毎日食事を作っている、なんて話は聞いたことがありません。
私は子供たちに家庭的な食事を与えたいのです。それではダメなのでしょうか?
梅さんは、『すぐに、というわけではないのよ。まぁ、考えておいてちょうだい』と言っていますが、きっと取得させるつもりでしょう?
もしそのとおりなら、納得する理由を一生懸命述べ、私を説得して下さい。
では、楽しみに待っています。
敬具
追伸
納得できなかったら、誰が何と言おうと取りません。悪しからず。
足長おじさんへ 赤井ソラより
ピンポンパンポーン。
〈お呼び出し致します。調理スタッフの赤井ソラさん、橋田事務長がお呼びです。至急、事務室までお越し下さい〉
ようやくお昼の忙しさが終わったと思ったらこれだ。
「いってきます」と他のスタッフに声を掛けて、呼び出しに応じ赴くと、恵比寿顔で事務長が待っていた。
「ああ、ソラ君、昼休みに悪いね」
事務長は人の良さそうな顔をしているが、実のところ狸だ。
「門前幸人君、知ってるよね? 今日の午後、ようやく退院できるんだ。その足でこちらに来るから、夕食から一人分増やしてね」
思ったとおり、新規に入所する子の話だった。
――が、門前……幸人君。誰、それ?
梅さんの代からここにいる事務長は、梅さんを心から崇拝している。その梅さんが、愛して止まない施設を事務長が大切に思わないわけがない。
彼は、施設のためなら喩え火の中水の中。相手が誰であろうと、少々強引な手を使ってでも、施設側の要求を通してしまう――という我の強いところがある。
その性格、嫌いではない。
だが、合理的かつ迅速をモットーとする事務長は、頭がいいからなのか、『脳ミソは一度言えば記憶する』という良く分からない持論から、絶対に同じ話を二度しない。時間が無駄だからだそうだ。
しかし、日々の出来事というものは、よほど強烈な記憶でない限り、脳細胞の奥底に追いやられ沈んでしまう。
それを掘り起こす身にもなって欲しい。
「門前……」
うーんと考え、微かに浮上してきた情報を口にする。
「確か、母親の再婚相手から虐待されて重傷を負ったという?」
彼のことを聞いたのはふた月少し前だったろうか? それをあたかも、つい最近話したかのように言うのはやめてもらいたい。
「そうそう」
だが、正解だったようだ。
「引き取り手を探しているとおっしゃっていましたが、やはりなかったのですね?」
記憶というものは、きっかけさえあればスルスル蘇る。
「そう。残念なことに親戚とは疎遠だったらしく、ダメだった」
母親は事件に関与していなかったようだが、ショックのあまり精神が不安定となり、入院してしまったらしい。
「それで、お母さんの容態は?」
『体調さえ回復すれば、また一緒に暮らせるだろう』そう聞いていたのだが……。
「かなり悪いらしい」
事務長は皆まで言わなかったが、曇った顔から退院できないほど症状が重いのだと窺えた。
「幸人君は高校生だが、まだ十六歳。子供だ。心身共に痛めつけられたうえに、あの歳で施設暮らしとなると、相当メンタル面でのケアが必要だろう。ぜひ、美味しい食事で癒やしてあげて欲しい」
そんな狸親父だが、傷付いた子供には本当に優しい。
「了解しました」
そう返事をして私は事務室を出た。と同時に出る溜息。
――本当に食事で癒やされるのだろうか?
私はドアに背を預けると目を瞑った。
施設の生活しか知らない私は、家庭の味というものを知らない。だから比べようがないのだが、新しい子が入所するたびに、何となく考えてしまう。
――思うだけ虚しいのに……。
目を開けると、一つ大きく息を吐き出し、歩き出す。
ここは昔、小学校だった。といっても、小さな、分校のような小学校だ。
少子化の煽りを受け、いの一番に廃校となったらしい。その建物を梅さんの恩人とかいう人が買い取り、児童養護施設にしたと聞く。
リノベーションしたようだが、そこかしこに当時の面影が残っている。
真っ直ぐに伸びた長い廊下も、それに沿って並ぶ腰高の四角い窓も、見る人が見れば懐かしく思うだろう。
しかし、私を含め、ここに預けられた子たちにそんな感慨は皆無だ。
児童養護施設というところは、姥捨山ならぬ子捨て施設だからだ。少なくとも私はそう思っている。
ふるふると頭を振り、視線を窓の向こうにやる。
「――秋だなぁ」
そこに施設が所有する裏山が見える。
見過ごしていたが、深緑の葉の間に赤や黄色の葉が交ざり始めていた。急激に気温が低くなったからだろう。
「栗拾い……」と口に出し、まだ早いかと思い直して、あっ、「渋皮のマロングラッセ!」と約束を思い出す。
秋と言えば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋といろいろ有るが、やはり味覚の秋が一番だ。
施設では栗拾いの他にも、秋は芋掘りや干し柿作りなど、美味しい行事が目白押しで、子供たちも心待ちにしている。
去年は収穫した栗の半分で甘露煮を作り、それでパイやパフェを作った。
甘露煮は手間がかかるので、毎年は作らないが、応用が利くので有ると重宝する、と手紙に書いたら、『食べたい』という返事がきた。
しかし、生憎全て消費した後だったので、『来年、マロングラッセを送ります』と書いたのだ。
――思い出して良かった。
安堵の息を吐くと共に、行事には付きもののハプニングも思い出す。
去年のワーストワンは、芋掘りをしていたのに、いつの間にか泥遊びになってしまい、全員ドロドロ星人になってしまったことだ。
あの後、調理スタッフまで洗濯に駆り出されて大変だった。
こんな風に子供たちの行動は予測不可能だ。大人が思ってもいないことを突然やり始める。
ハラハラすることもあるが、それも子供たちには〝学び〟と、命を脅かすようなことや他人を傷付けるようなこと以外、許容範囲内で見守っている。
――が、野外活動中の子供たちは、普段以上に肝を冷やす行動を取ることが多い。
「今年は何をしでかすやら?」
ふふふ、と笑みを浮かべながら、また幸人君のことを思う。
施設に来る子は決して喜んで来るわけではない。事情も様々だ。
親はいるけど虐待された子供……。
親に捨てられ本名や誕生日さえ知らない子供……。
幸人君は前者で私は後者だ。
「どっちがマシなんだろう?」
究極の選択かもしれない。だが、幸人君のような子供が現われるたびに、自分に問いかけてしまう。
「悩ましげな顔。何を考えてるの?」
廊下を歩きながら思考の森を彷徨っていると、背中の方から声が聞こえた。
「あっ、良美さん」
同僚の調理スタッフ水谷良美さんだった。
彼女は私より五つ上で、三歳の息子を一人で育てているシングルマザー。何のことだか良く分からないが、本人曰く、『黒歴史を葬ったミステリアスな女』らしい。
「いえ、別に……」
「そう? 恋の悩みなら聞かせて。良いアドバイスはできないけど、私の潤いになるから」
「ずいぶん自分勝手なお願いですね」
私は彼女と交わす、歯に衣着せぬ会話が好きだ。
「何? バツイチにアドバイスを求めたいの?」
「いいえ、けっこうです」
彼女と話をしていると、ぐたぐたと考えていることがバカらしくなるからだ。
「それより、夕食から一人増えます」
そんな良美さんだが、橋田事務長は苦手だそうだ。
『一度で脳ミソが覚えるわけ無いでしょう』
そう言って調理部門の責任者を押し付けたのは彼女だ。
「門前幸人君でしょう? 施設長から聞いたわ」
「また、おむすびですか?」
施設長はごくたまに、業務の都合から施設長室で食事を取ることがある。
「そう。今日は忙しくて食事をする暇が無いんですって。子供たちには、三食ちゃんと取りなさいって言うのにね」
良美さんがブツブツ文句を言いながら、「でも、デスク仕事が多いから、あの体型を保つには、おむすびで十分かもね」と悔しそうに舌打ちする。
――というのも、子供を生んでからお腹周りが気になるそうだ。だから、年中『ダイエットをするぞ!』と言っている。
スリムなのに……と思い、ふと、管理栄養士云々の件を思い出す。が、未だ取得する気はない。
「でも、幸人君も気の毒よね。お母さんが再婚を考えなかったら、あんなことにはならなかったのに……」
常々彼女は、『生活がどんなに困窮しようと、再婚しようと思わない』と言っている。息子の翼君を思ってだ。
何度も幸人君のようなケースと出会うからだろう。そういう思いに駆られてもしかたがないと思う。
「まぁ、一人増えようが二人増えようが、今日はカレーとシチューの日だからノープロブレムだけどね」
八重歯を見せ笑い、「あっ、でも」と思い出したように言う。
「明日の夕食はトンカツじゃなかった? お肉屋さんに連絡しておかなくちゃ」
「よろしくお願いします。私は今からお昼休みをたっぷり頂きます」
調理スタッフはフルで働いている私と良美さん、それに、パートさんが四人。その六人がローテーションを組んで、朝昼晩の食事作りを行っている。
私は独り身なので、皆の都合に合わせてフレキシブルタイム制にしてもらっているが、良美さんは翼君がいるから、お昼休みを除いた八時半から十七時半の固定時間制で働いている。
「了解。ところで、幸人君の年齢でピンクのブタって喜ぶと思う?」
ピンクのブタとは、ウズラの卵をゆかりで染め、それをブタに見えるように細工したものだ。
「さぁ、どうでしょう?」
それを、新規にやって来た子の、最初の夕食に付けるのがヒマワリの習わしだった。
『ピンクは〝愛〟を表現する色で、ブタは〝幸運のシンボル〟と云われているの』
それをヒントに、『私たちはあなたを心から歓迎します』そんな思いを込めたのだと、これを始めた梅さんが説明してくれた。だが――。
「年齢は関係ないと思いますが、大きな子はここに預けられた理由が分かるから……」
ピンクのブタで歓迎されても、別段、嬉しくないだろう。
「そうよねぇ。同じ歳でもマミちゃんは喜んだけど、舜君は喜ばなかったもの」
良美さんは新規入所者に気を遣いすぎるほど気を遣う。
「キリリとしたピンクのブタにして、カレーの山頂に立たせてみようかしら?」
それは良美さんが子を持つ親だからだろう。どの子も、我が子とダブって見えるのだと思う。
「じゃあ、ピンクのブタは私に任せてゆっくり休んでね」
ぴらぴらと手を振り、良美さんは仕事に戻った。
彼女のような奇特な大人がいる反面――施設の定員は二十五名。常時満員だ――子供をそんな状態にする鬼畜な親も大勢いる。
だったら子供なんて作らなければいいのに……毎度思うことだ。
あー、やだやだ!
こういう嫌な気分のときは、眠りを貪るに限る。睡眠に勝る良薬は無し!
私にとって眠りは、〝自然〟と同じで、神が平等に与え賜ふものだ。
ふぁぁと欠伸を一つ零して、施設の隣に建つ、今は我が家である赤井邸に向かった。
○◇○
「幸人君ってすごくイケメンだし、頭も良いんだって」
良美さんはイケメン君が大好きだ。それが唯一自分の欠点だと言う。
「でも、そのお陰で翼というイケメンの息子を授かったから……結果オーライだよね?」
そう自分をフォローするが、翼君がイケメンなのは本当のことだ。
ちなみに、良美さんがヒマワリで働き始めたのは、私が高校三年生の頃だ。
当時は、『渋メンの事務長に甘メンの施設長。なんてイケメン偏差値が高い施設なの』と二人への評価はすこぶる良かった。
しかし、今は、事務長のことを〝脳ミソ親父〟と呼び、施設長のことを〝人タラシ〟と言っている。あまりにも的を射ているので反論の余地がない。
「さて、そろそろカウントダウンを始めますか」
夕食開始時間は十七時半。残業になるのに良美さんが残っているのは、幸人君と会いたいからだそうだ。でも、本心は彼のことを心配してだと思う。
「……三・二・一」
ピンポンパンポーン。
〈夕飯の時間です。手を洗って食堂に行きましょう〉
放送と同時に、どどどどど、と地響きのような足音が近付いてくる。子供たちの登場だ。
「わーい、いちばーん!」
いつものように、まず飛び込んできたのは健人君だった。小学三年生のやんちゃな子だが、ヒマワリのムードメーカー的な子だ。
彼の後に続いて次々に子供たちが姿を現し、列を作る。
職員も手助けするが、基本、食事はセルフで、小さな子の世話は大きな子がする。
「おっ、茜もカレーか?」
茜ちゃんは小学二年生だが、小柄なのでよく一年生と間違えられる。それを気にしてか、ちょっと内気な子だ。
「食べられるようになったのか?」
カレーの日はシチューの日。それは刺激物が食べられない子や小さな子のためだ。
「うん。茜、お姉さんになったから」
健人君の質問に、茜ちゃんの瞳がきらきら輝く。
「そう言えばお前、お世話係りになったんだったな」
茜ちゃんがお世話をしているのは、先週入所した巴ちゃんという四歳の女の子だ。
「うん!」
どんなに幼くても、誰かの役に立てると思うと張り切ってしまうのかもしれない。いつもは小声でしか喋らない茜ちゃんが、大きな声で返事をする。
「茜ちゃんはお世話がとても上手なのよ」
にっこり微笑んだのは、茜ちゃんをお世話している優美ちゃんだ。
「おいらだってできるのに……」
「健人が女の子はイヤって言ったんだろ?」
健人君をお世話している正樹君が笑う。
話題の巴ちゃんは、茜ちゃんの上着をぎゅっと握って後ろにぴったりくっ付いている。
微笑ましい二人の姿に、私も良美さんも笑みが零れる。
「お代わりもあるから、しっかり食べるのよ」
だから、良美さんはそう声を掛けたのだが、それに反応したのは健人君だった。
「おいら、三回お代わりする」
途端に良美さんが眉を寄せる。
「それは却下。この前、食べ過ぎてお腹が痛くなったの忘れたの?」
「――分かった。二杯にしとく。でも、大盛りにして」
「健人、あんたもこりない子だね」
良美さんが、あははと笑うと、つられて皆も笑い始めた。
「おやおや、楽しそうだね」
「あっ、柳瀬先生だぁ!」
梅さんも子供たちから慕われていたが、柳瀬施設長も同様で人気がある。さらに、パートさんや出入りの業者さんまで魅了してしまうフェロモンを持つ。これが〝人タラシ〟たる所以だ。
「全員揃っているかな?」
施設長と一緒にやって来た橋田事務長が辺りを見回しながら尋ねると、「うん、そろってるよ」と健人君が大きな声で答える。
「じゃあ、皆が席に着いたら、今日から一緒に暮らす、門前幸人君を紹介します」
施設長と事務長の後ろに、すらりとした男の子が立っていた。
子供たちは「はーい」と声を揃えて返事をすると、手に手にトレーを持って席に着く。
「噂どおりのイケメン君ね」
良美さんは耳打ちすると、宣言どおりカレーの山頂にピンクのブタを載せ、幸人君のトレーに置いた。
しかし、「歓迎の意味を込めて」と良美さんが言ったところで――。
ガシャーン。
物凄い大きな音がした。
「えっ?」
幸人君が床にトレーを落としたのだ。
拝啓
足長おじさん、突然ですが、今日は手紙を書く気が起こりません。
脳細胞が宇宙に家出してしまったような感じなのです。
――でも、お約束なので一応書きます。
以前、梅さんに「良心に従い『正しい』と取捨選択できるようになるには、ある程度、社会というものを知らなくてはいけません」と言われたことがあります。
しかし、いくら社会を知り、良心が『正しい』と言っても、それに従うことが困難な場合もあるのだと学びました。
何となく哲学的? そんな感じで分かり難い説明しかできないのは文才がないからです。ごめんなさい。
とにかく、今日はもう寝ます。おやすみなさい。
敬具
追伸
一晩寝たらきっと元気になります。
足長おじさんへ 赤井ソラより
幸人君がヒマワリに来て丸二日が経った。
彼はあの日、夕食を食べないまま『気分が悪い』と言ってベッドに入り、それからずっと布団の中に籠もっている。
そういう子は今までも大勢いた。
環境の変化に戸惑い、思考がついていかないのだと思う。
それでも、子供のお腹は正直だ。空腹を感じ、食べ物を前にすると、途端に手が出てたちまちトレーを空にする。
幸人君もそうなると思っていたのに……。
彼がここに来て口に入れたのはミネラルウォーターとチョコレート五粒だけ。まるで絶食でもしているかのように、食事に全く手を付けようとしない。
「このままなら、また病院に逆戻りだわ」
彼の健康を危惧して、私と良美さんは事務室に乗り込んだ。
少し様子を見ましょう。そう言っていた柳瀬施設長と橋田事務長も、流石にこれはまずいと思ったのか、すぐさま、彼が入院していた私立冴木病院に電話をしてくれた。
〈了解しました。午前の診察が終わりしだい往診に伺います〉
スピーカーホン越しに聞こえたのは、幸人君の担当医師で、施設の嘱託医でもある冴木修司先生の声だった。
彼は施設理事の一人であるその病院の院長、冴木昭夫氏の三男で、非常に優秀な医者だが……三十歳なのに八つも上の柳瀬施設長よりも落ち着いていて、感情の無いサイボーグみたいな人だった。
○◇○
「冴木先生、幸人君の健康状態はいかがでしたか?」
「退院したばかりなので身体に問題はありません」
診察を終えると冴木医師は施設長にそう報告した。
「だったら、どうして何も食べないんですか?」
だが、隣で聞いていた良美さんは納得がいかないようだ。
「精神的なものでしょう」
「でも、入院中は三食きちんと食べていたんですよね?」
心配のあまり良美さんの語気がどんどん強くなる。
「食事記録にはそうありました」
しかし、冴木医師は顔色一つ変えない。
「学校は、もうしばらく休ませた方がいいですかね?」
事務長の言葉に冴木医師は頷く。
「現状況からすれば、その方がいいでしょう。それから、彼がああなったきっかけがあるはずです。心当たりは?」
「それは、私たちが彼に何かしたということですか?」
途端に良美さんの機嫌が悪くなる。
「そういう意味ではありません。食べていたのに食べられなくなった。ということは原因があるはずだと申し上げているのです」
だが、冴木医師はあくまでも冷静だ。
「といっても……夕食の載ったトレーを落としたことぐらいでしょうか?」
場を収めるように事務長が答えると、施設長も頷いた。
――もう黙っておけない。
「あの……」と小さく挙手して、心に秘めておこうと思っていたことを話す。
「見間違いだと思ったのですが、あの時、彼、わざとトレーを落としたみたいなんです」
その場の視線が私に集中する。
「どうしてそんなことをするの?」
驚いたように良美さんが尋ねる。
「当日のメニューは何だったかな?」
事務長が首を傾げる。
「それ、本当?」
施設長が確認する。
矢継ぎ早に質問を浴びせられ、私は戸惑いながらも答える。
「ええ、確かです」
幸人君の視線がトレーに向いた瞬間、彼は驚いたように目を見開いた。そして、次の瞬間、苦悶に満ちた顔になり、トレーから手を離した。あれはどう見てもわざとだった。
「その日のメニューはカレーと野菜サラダ。それにデザートの干し柿ヨーグルトでした」
干し柿は毎年冷凍保存して、少しずつ使っていた。去年の物は先日のが最後だった。
「でも……何を見てそうなったかは分かりません」
いや、それは嘘だ。何となく思い当たることはあった。
「あっ、カレーの山頂にピンクのブタもいたわ!」
良美さんの言葉に心臓が嫌な音を立てる。
「あっ、まさか……あれが原因じゃないわよね?」
良美さんが慌てて尋ねる。
「ちょっとやり過ぎたと思ったけど……」
試行錯誤の末、彼女はキリリとしたピンクのブタに、野菜で作った登山用の帽子を被せ、登山ストックを持たせたのだ。
「嫌だ! あの子、登山に何かトラウマでもあったのかしら?」
両手で口を押さえ、「だったら、どうしよう!」と震え始めた。
実は、私もそう思ったのだ。
「水谷さん、落ち着いて下さい。それが原因とは限りません」
施設長の言うとおりだ。だから黙っていたのだ。
私は良美さんの肩にそっと手を置いた。
「ということは、何が原因かはっきりしないということですね?」
「そういうことになります」
冴木医師の言葉に施設長が答える。
「今日は点滴で栄養補給しておきましたが、このまま食べないとなると……カウンセリングの日数を増やさなくてはいけないでしょう」
カウンセリングはPTSD(心的外傷後ストレス障害)を憂慮して行われるそうだ。現時点では、半月に一回受ければいい、と聞く。
「入院は?」
施設長の質問に冴木医師は「今のところは大丈夫です」と首を横に振った。
「やっと退院できたのに……」
理由は何であれ、どうして被害者となった子がいつまでも苦しめられなくてはいけないのだろう?
「PTSDはちょっとやそっとでは癒えません。フラッシュバックも何が原因で起こるか分かりません。備えあれば憂いなしです」
その言葉どおりなら、喩え今回は元気になったとしても、原因となった何かがトレーに載るたびに、幸人君は苦しむということだ。
「時に、傷付けた者が刑務所に入っている時間よりも、傷付いた者が苦しむ時間の方が長い場合があります」
「理不尽ですね……」
「そうです。世の中は理不尽なことばかりです。ですが、周りにいる人間がそれを怨じても時間の無駄なだけです」
確かに、冴木医師の言うとおりだ。
「優先すべきは彼に食事をさせることです」
「そうね……そうよね。〝たら〟〝れば〟で憂いていてもしかたがないわよね」
良美さんは落ち込むのも早いが、立ち直るのも早い。
「ソラ、作戦会議よ!」
私の手首を握り、「じゃあ、そういうことなので、失礼します」と言って引っ張り、部屋を飛び出す。
「水谷さん! ちょっと」
まだ話があったのか、施設長の呼び止めにも全く耳を貸さない。
無言でずんずん足を進める良美さんの背中が使命に燃えている。彼女はああ言ったが、原因の一端が自分にあるとまだ思っている。
そして、私も……ピンクのブタが発端ではなかったと打ち消せないでいた。
「良美さん、幸人君に食べてもらえるように、美味しい食事をたくさん考えましょう!」
何にせよ、あのトレーにあった何かが幸人君を深く傷付けたのは確かだ。だが、今はそれを追究するよりも、彼に食べてもらえる何かを見つけ方が先だ。
拝啓
足長おじさん、昨日は失礼しました。
実は、ある事から調理師という仕事が怖くなってしまったのです。
〝食〟というものを、今まで簡単に考えていたからです。
この職業を選んだ理由も、これなら生涯、食べるには困らないだろうという単純なものでした。
昔、梅さんが、『将来、誰かのための食事になるといいわね』と言った意味が、ここにきてようやく少し分かった気がします。
『管理栄養士の資格を取得しないか?』と打診された意味も……。
でも、それに関しては、まだ思案中です。
とにかく、これからは〝食べる〟は〝生きる〟に連結していると肝に命じ、より精進したいと思います。
何だか決意表明みたいですね。(笑)
では、おやすみなさい。
敬具
追伸
一生懸命〝生きること〟は〝大変なこと〟ですね。
今までいかにいい加減に生きてきたか……反省サル君のように、痛感し、項垂れています。
でも……明日も頑張るぞー!
足長おじさんへ 赤井ソラより
幸人君が施設に来て三日目。
「フレンチトーストを焼いたの、食べない?」
甘い香りを漂わせるそれを、布団に潜り込んでいる彼に差し出すが、無視。
「えーっ、食べないなら、おいらにちょうだい」
それを見ていた同室の健人君が幸人君のベッドに上がり込む。
幸人君には不幸なことかもしれないが、職員には幸いなことに、部屋は個室では無く四人部屋。だから完全に引き籠もることができない。
「朝ご飯を食べたばかりでしょう? 早く学校に行きなさい」
しっしっ、と追い立てるが、健太君は「食べたい!」と連呼する。
「ダメと言ったらダメ!」
ここで育った私は子供たちに舐められている節がある。特に健太君は、四年近く一緒に育った仲なので、職員と思えないようだ。
「ソラのけち!」
「呼び方が違う! ソラ先生! いつも言ってるでしょう」
「ソラはソラだ。先生なんて呼ぶもんか」
べーっ、と舌を出し、「お前の母さんデベソ」と叫んで、ランドセルを背負うと飛び出していった。
「まったく! お前の母さんって誰のことよ?」
母親を知らない私に言う台詞じゃないわよね、とブツブツ言いながら苦笑いを浮かべていると、布団の隙間から少し目を出した幸人君が尋ねる。
「それどういう意味?」
こんな風に彼から何かアクションがあったのは初めてだった。はやる気持ち抑えて私は平然とした様子で「私、孤児だったの」と答える。
「それに、梅さん、あっ、養女にしてくれた人は前施設長で御年六十三歳なの。だから、健太君が梅さんを『母さん』とは言わないと思うの。そう思わない?」
幸人君が「うーん」と唸る。それから、「僕の母さんは三十六歳だよ」と微かに笑んだ。
「へー、若いね」と言った後、少し考え、えーっ、と叫んでしまう。
「私の歳でお母さんだったということ?」
本気で驚いた。
「だから、とっても苦労したんだ」
そう言ったきり、幸人君はまた貝のように口を噤んでしまった。
「フレンチトースト、良かったら食べて」
小山になった布団を眺めながら、しかたがないと諦め、それだけ言うと部屋を出た。
○◇○
「食べなかったのね……」
フレンチトーストは、そのままの状態でサイドテーブルにあった。それを引き上げ、代わりに鍋焼きうどんを置く。
「この麺ね、昨日、良美さんと打ったんだ。毎年年末にね、みんなでそば打ちをして年越しそばを食べるの。だから、麺打ちは得意なんだ」
幸人君が興味を示すか分からないが、私は施設で開催される行事のことを話し始めた。
「秋は特に美味しい行事が多いんだよ。明日は三連休の初日でしょう。裏山に作った畑で芋掘りをするの、参加しない?」
「――芋掘り?」
何も食べていない幸人君を誘うのは体力的にどうかと思ったが、誘ってみると、尋ね返す声が聞こえた。
「そう、やったことある?」
聞けば小学校一年生のとき、課外活動の一環で体験したそうだ。
「でね、当日はそれを焼き芋にして、次の日はそれでおやつを作るの。リクエストが多いのは、大学芋とスイートポテトとさつまいもチップス。何か作って欲しいものある?」
だが、彼は質問には答えず、「僕が掘ったさつま芋、僕にくれる?」と尋ね返された。
「残念だけど……収穫した作物はみんなの物なの。だから全部はあげられないけど、焼き芋がね、三本ずつ貰えるの。それは誰にあげてもいいことになっているわ」
子供たちは日頃お世話になっている商店街の方や、近所に住むお爺さんやお婆さんにそれをプレゼントしていた。
「じゃあ、僕、参加する」
「贈りたい人がいるの?」
「母さんに……」
「そう」と返事をしながら狡いことを考える。
「だったら、この鍋焼きうどん、少しでもいいから食べて。じゃないとお芋が掘れないよ」
大人になるに従い、どんどん駆け引きが上手くなる。梅さんが言ったとおりだ。
「母さんに焼き芋を届けに行ってもいいっていうこと?」
幸人君がおもむろに布団から起き上がった。
「残念だけど、今、それは約束できない。なぜなら、私一人の判断で返事ができないから」
途端に幸人君の顔が曇る。
「幸人君、よく聞いて。私は『約束はできない』と言っただけで、『届けられない』とは言っていないわ。どんなことでもだけど、わずかでも可能性があると思ったら、諦めちゃいけない。分かるわよね?」
彼は賢い子だ。だから、言っている意味を理解したのだろう。コクンと頷いた。
「貴方がお母さんに焼き芋をプレゼントしたがっていると、施設長に伝えておくわ。それでいいわね?」
「うん」
「じゃあ、食べて。今のままじゃ芋掘りどころか、山にも登れないわ」
畑があるのは山の中腹だ。小高い山だが、今の幸人君には厳しい距離だろう。
幸人君はまたコクンと頷くと、サイドテーブルに置いた鍋焼きうどんをトレーごと膝の上に置き、ゆっくり食べ始めた。
――よかった。
その様子にほっと安堵の息を吐く。
○◇○
「幸人のバカヤロー!」
安息の時間もわずか、それは芋掘りを終えた日の夕方に起こった。
「健人君、どうしたの?」
怒鳴り声を聞き、良美さんと部屋に駆け付けると――。
「ちょっと、やめなさい!」
健太君が幸人君の足にしがみつき、その足に歯を立てていた。
急いで二人を引き離すが健人君の興奮は収まらない。
「はなせ! バカヤロー」
腕から抜け出そうと大暴れするのを必死で食い止める。
「おやおや」
「これはこれは」
施設長と事務長が現われ、その様子に苦笑いを浮かべる。
「笑っていないでどうにかして下さい」
日常茶飯事ではないが、喧嘩は時々ある。
「男の子同士だからね。フラストレーションを発散しているんじゃないかな?」
のんびりとした様子で答える施設長に良美さんがキレる。
「幸人君の足、見て!」
ブルージーンズの、腿の辺りに黒い染みのようなものが広がっている。
「まさか、それ血?」
慌てて事務長が駆け寄る。
「そのまさかです」と言って良美さんが掌を見せる。
「おいらは悪くない!」
真っ赤に染まった掌を見た途端、健太君は叫び……気を失った。
ダラリと力の抜けた身体を支え、「救急車」を呼んで下さい、と言おうとしたが、施設長がそれを止める。
健太君が失神したのは、過去のトラウマからだと知っているからだ。
「事務長、私が車を出します、冴木先生に連絡を入れておいて下さい」
「了解しました」
「幸人君、歩ける?」
頷く彼の腕を良美さんは取り、立たせる。
「キーを取ってくる。君たちは駐車場に来てくれ」
施設から病院まで車で十分――その間、健太君は目を覚まさなかった。
○◇○
手当を終えた幸人君を長椅子に座らせ、その横に腰掛ける。
「健太……大丈夫?」
「大丈夫よ。でも、どうしてあんなことになったの?」
高校生と小学生。普段は有り得ない喧嘩だ。
幸人君は項垂れたまま、膝の上に置いた手をぎゅっと握り締め、しばらく身じろぎもせずじっと拳を見つめていた。
「話したくない?」
ううん、とゆっくり頭を振り、それから絞り出すような声で言った。
「干し柿……健太が干し柿を……くれたんだ。でも、僕は……それを……捨てた」
だが、そこまでだった。後は堰を切ったように泣き出し、声にならなかった。
私は無言で彼の背を撫でながら、健太君が嬉しそうな顔で、干し柿を見せびらかしていたのを思い出す。
干し柿の贈り主は駄菓子屋さんのお婆さんだ。毎年、健太君はそのお婆さんに焼き芋をプレゼントする。亡くなった健太君のお祖母さんに似ているかららしい。
お婆さんも健太君のことをとても可愛がっていた。
『本当は今年の物をやりたいんだけどね、時期がもう少し後だから、悪いね』
お婆さんが言うように、干し柿は冷凍した去年の物だった。
でも、私は知っていた。健太君のために、毎年この時期まで残しておいてくれるのを。
――それを捨てた?
健太君があんなに怒った理由が分かった。
「どうして捨てたりしたの?」
幸人君が少し落ち着いたのを見計らって尋ねると、「あいつが……」と、ぽつぽつ話し出した。
〝あいつ〟とは、健太君のことではなく、幸人君に暴力を振るった義父のことだった。
「干し柿を憎々しげに見つめ、それを噛み千切るように食べながら、僕を殴るんだ」
義父の父親――義理の祖父いう人は酒乱だったらしい。干し柿を食べながらお酒を飲むのが好きだったそうだ。
「母さんがいないときを見計らって、『俺はこんな風に親から殴られ育ったんだ』そう言って見えないところを……殴った」
――暴力の連鎖。
「その時の記憶が蘇り……捨てたの?」
「うん」
幸人君の苦悶に満ちた顔を思い出す。
「僕は……母さんの幸せを壊したくなかった」
「だから、殴られても我慢していたの? バカね。貴方が死んじゃったら、それこそお母さんの幸せは壊れるのよ」
彼の状態は死を前にするほど酷かったと聞く。
「でも……母さんが病気になったのは、幸せが壊れたからだろう?」
彼は母親の病気が自分のせいだと思っている。
「お母さんがそう言ったの?」
ゆっくり頭を振る。
「じゃあ、自分で尋ねて、確かめてみなさい」
えっ、と幸人君が顔を上げる。
「焼き芋を届けてもいいって、お許しが出たわ」
「母さんに会えるの?」
「そう。でも、その前に健人君に謝ろうか」
幸人君の方が被害は多大だが、彼なら分かってくれる。そう思った。
「――僕は事情を知らない健太を傷付けたんだね。あんなに嬉しそうだったのに……」
彼はやはり賢く心優しい子だった。
「帰ったら、芋粥を作ってあげる。それを持っていってあげて。あの子、あれが好きなの」
「僕も好きだよ。芋掘り体験した夜、母さんが作ってくれたんだ」
「じゃあ、二人で一緒に食べて仲直りしようね。ちゃんと事情を話してあげて。健太君はきっと聞いてくれるはずだから」
拝啓
足長おじさん、朗報です!
ゴタゴタが解決しました。
ここ数日、学びの日々でした――が、疲れました。
ところで、突然ですが、おじさんには思い入れのある、思い出の食べ物ってありますか?
私はありません。
でも、その思い入れのある食べ物が、一方には良い思い出だとしても、もう一方には最悪の思い出、ということも有るということが、今回の件で分かりました。
だからなんだ? そう問われても答えは無いのですが……。
肝に銘じておかなければいけないことだと思ったしだいです。
それと同時に、少しですが、管理栄養士の件、考えてみようという気になりました。
ということで、今日は本当に疲れているので、もう寝ます。おやすみなさい。
敬具
追伸
神様は人間に〝言葉〟というコミュニケーションツールをお与え下さいました。
ですから、文字でのコミュニケーションも良いのですが、今度、テレビ電話を使ってface-to-faceでお話ししませんか?
色よいお返事をお待ちしております。
足長おじさんへ 赤井ソラより
「幸人のバカ!」
「またやってる」
良美さんが呆れ眼で声の方を見る。
「おいらがネギを嫌いなのを知ってて、大盛りで入れるんだろう!」
「健人の健康のためだよ」
あの日以来、二人は本当の兄弟のように仲良しだ。
幸人君の母親はまだ退院できないそうだが、幸人君が面会に行った日から、少しずつ回復しているそうだ。
彼と母親が、あの日、どんな話をしたかは聞いていない。でも、戻ってきたときの幸人君の顔は、憑き物が落ちたようにさっぱりしていた。
ただ、干し柿作りをしたときは、親の敵のような顔で皮を剥いていたから、トラウマが無くなったわけではないと思う。それでも一歩一歩自分なりに乗り越えようとしているようだ。
「あなたたち、いい加減にしなさい!」
キャンキャン言い合いを続ける二人に、とうとう良美さんの雷が落ちた。
しかし、鬼の形相をした良美さんを目の前にしたのは、ちょうど順番がきた茜ちゃんと巴ちゃんだった。
ひっ、と二人は顔を引き攣らせ、次の瞬間、同時に泣き出した。
「うわっ、二人を怒ったわけじゃないのよ」
慌ててご機嫌を取る良美さんの横から、「あーあっ、水谷先生が泣かしたぁ」と健人君が囃し立てる。
「こら、お前が原因だろう」
正樹君が健人君の頭をコツンと小突くと、「暴力反対!」と健人君が地団駄を踏む。
そんな大騒ぎの食堂に、施設長と事務長が入ってきた。その後ろには、新規入所者だろう、女の子がいた。昨日、事務長から連絡を受けた子のようだ。
「みんな揃っているかな?」
「はーい」
「じゃあ、席に着いたら、新しく一緒に暮らす仲間を紹介するよ」
事務長の言葉でみんな慌てて着席する。
「はい、次の人。貴女よ、遠慮しないで」
トレーを持った少女が私の前に立つ。
「貴女が未来ちゃんね」
ニッコリ微笑むと、私は丼の真ん中にピンクのブタを置いた。
それを見た彼女の顔がパッと輝き花が咲く。どうやらお気に召したようだ。
「ようこそ児童養護施設ヒマワリへ。大丈夫、安心して。みんな貴女を歓迎しているわ」
(了)