ピンポンパンポーン。
〈お呼び出し致します。調理スタッフの赤井ソラさん、橋田事務長がお呼びです。至急、事務室までお越し下さい〉
ようやくお昼の忙しさが終わったと思ったらこれだ。
「いってきます」と他のスタッフに声を掛けて、呼び出しに応じ赴くと、恵比寿顔で事務長が待っていた。
「ああ、ソラ君、昼休みに悪いね」
事務長は人の良さそうな顔をしているが、実のところ狸だ。
「門前幸人君、知ってるよね? 今日の午後、ようやく退院できるんだ。その足でこちらに来るから、夕食から一人分増やしてね」
思ったとおり、新規に入所する子の話だった。
――が、門前……幸人君。誰、それ?
梅さんの代からここにいる事務長は、梅さんを心から崇拝している。その梅さんが、愛して止まない施設を事務長が大切に思わないわけがない。
彼は、施設のためなら喩え火の中水の中。相手が誰であろうと、少々強引な手を使ってでも、施設側の要求を通してしまう――という我の強いところがある。
その性格、嫌いではない。
だが、合理的かつ迅速をモットーとする事務長は、頭がいいからなのか、『脳ミソは一度言えば記憶する』という良く分からない持論から、絶対に同じ話を二度しない。時間が無駄だからだそうだ。
しかし、日々の出来事というものは、よほど強烈な記憶でない限り、脳細胞の奥底に追いやられ沈んでしまう。
それを掘り起こす身にもなって欲しい。
「門前……」
うーんと考え、微かに浮上してきた情報を口にする。
「確か、母親の再婚相手から虐待されて重傷を負ったという?」
彼のことを聞いたのはふた月少し前だったろうか? それをあたかも、つい最近話したかのように言うのはやめてもらいたい。
「そうそう」
だが、正解だったようだ。
「引き取り手を探しているとおっしゃっていましたが、やはりなかったのですね?」
記憶というものは、きっかけさえあればスルスル蘇る。
「そう。残念なことに親戚とは疎遠だったらしく、ダメだった」
母親は事件に関与していなかったようだが、ショックのあまり精神が不安定となり、入院してしまったらしい。
「それで、お母さんの容態は?」
『体調さえ回復すれば、また一緒に暮らせるだろう』そう聞いていたのだが……。
「かなり悪いらしい」
事務長は皆まで言わなかったが、曇った顔から退院できないほど症状が重いのだと窺えた。
「幸人君は高校生だが、まだ十六歳。子供だ。心身共に痛めつけられたうえに、あの歳で施設暮らしとなると、相当メンタル面でのケアが必要だろう。ぜひ、美味しい食事で癒やしてあげて欲しい」
そんな狸親父だが、傷付いた子供には本当に優しい。
「了解しました」
そう返事をして私は事務室を出た。と同時に出る溜息。
――本当に食事で癒やされるのだろうか?
私はドアに背を預けると目を瞑った。
施設の生活しか知らない私は、家庭の味というものを知らない。だから比べようがないのだが、新しい子が入所するたびに、何となく考えてしまう。
――思うだけ虚しいのに……。
目を開けると、一つ大きく息を吐き出し、歩き出す。
ここは昔、小学校だった。といっても、小さな、分校のような小学校だ。
少子化の煽りを受け、いの一番に廃校となったらしい。その建物を梅さんの恩人とかいう人が買い取り、児童養護施設にしたと聞く。
リノベーションしたようだが、そこかしこに当時の面影が残っている。
真っ直ぐに伸びた長い廊下も、それに沿って並ぶ腰高の四角い窓も、見る人が見れば懐かしく思うだろう。
しかし、私を含め、ここに預けられた子たちにそんな感慨は皆無だ。
児童養護施設というところは、姥捨山ならぬ子捨て施設だからだ。少なくとも私はそう思っている。
ふるふると頭を振り、視線を窓の向こうにやる。
「――秋だなぁ」
そこに施設が所有する裏山が見える。
見過ごしていたが、深緑の葉の間に赤や黄色の葉が交ざり始めていた。急激に気温が低くなったからだろう。
「栗拾い……」と口に出し、まだ早いかと思い直して、あっ、「渋皮のマロングラッセ!」と約束を思い出す。
秋と言えば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋といろいろ有るが、やはり味覚の秋が一番だ。
施設では栗拾いの他にも、秋は芋掘りや干し柿作りなど、美味しい行事が目白押しで、子供たちも心待ちにしている。
去年は収穫した栗の半分で甘露煮を作り、それでパイやパフェを作った。
甘露煮は手間がかかるので、毎年は作らないが、応用が利くので有ると重宝する、と手紙に書いたら、『食べたい』という返事がきた。
しかし、生憎全て消費した後だったので、『来年、マロングラッセを送ります』と書いたのだ。
――思い出して良かった。
安堵の息を吐くと共に、行事には付きもののハプニングも思い出す。
去年のワーストワンは、芋掘りをしていたのに、いつの間にか泥遊びになってしまい、全員ドロドロ星人になってしまったことだ。
あの後、調理スタッフまで洗濯に駆り出されて大変だった。
こんな風に子供たちの行動は予測不可能だ。大人が思ってもいないことを突然やり始める。
ハラハラすることもあるが、それも子供たちには〝学び〟と、命を脅かすようなことや他人を傷付けるようなこと以外、許容範囲内で見守っている。
――が、野外活動中の子供たちは、普段以上に肝を冷やす行動を取ることが多い。
「今年は何をしでかすやら?」
ふふふ、と笑みを浮かべながら、また幸人君のことを思う。
施設に来る子は決して喜んで来るわけではない。事情も様々だ。
親はいるけど虐待された子供……。
親に捨てられ本名や誕生日さえ知らない子供……。
幸人君は前者で私は後者だ。
「どっちがマシなんだろう?」
究極の選択かもしれない。だが、幸人君のような子供が現われるたびに、自分に問いかけてしまう。
「悩ましげな顔。何を考えてるの?」
廊下を歩きながら思考の森を彷徨っていると、背中の方から声が聞こえた。
「あっ、良美さん」
同僚の調理スタッフ水谷良美さんだった。
彼女は私より五つ上で、三歳の息子を一人で育てているシングルマザー。何のことだか良く分からないが、本人曰く、『黒歴史を葬ったミステリアスな女』らしい。
「いえ、別に……」
「そう? 恋の悩みなら聞かせて。良いアドバイスはできないけど、私の潤いになるから」
「ずいぶん自分勝手なお願いですね」
私は彼女と交わす、歯に衣着せぬ会話が好きだ。
「何? バツイチにアドバイスを求めたいの?」
「いいえ、けっこうです」
彼女と話をしていると、ぐたぐたと考えていることがバカらしくなるからだ。
「それより、夕食から一人増えます」
そんな良美さんだが、橋田事務長は苦手だそうだ。
『一度で脳ミソが覚えるわけ無いでしょう』
そう言って調理部門の責任者を押し付けたのは彼女だ。
「門前幸人君でしょう? 施設長から聞いたわ」
「また、おむすびですか?」
施設長はごくたまに、業務の都合から施設長室で食事を取ることがある。
「そう。今日は忙しくて食事をする暇が無いんですって。子供たちには、三食ちゃんと取りなさいって言うのにね」
良美さんがブツブツ文句を言いながら、「でも、デスク仕事が多いから、あの体型を保つには、おむすびで十分かもね」と悔しそうに舌打ちする。
――というのも、子供を生んでからお腹周りが気になるそうだ。だから、年中『ダイエットをするぞ!』と言っている。
スリムなのに……と思い、ふと、管理栄養士云々の件を思い出す。が、未だ取得する気はない。
「でも、幸人君も気の毒よね。お母さんが再婚を考えなかったら、あんなことにはならなかったのに……」
常々彼女は、『生活がどんなに困窮しようと、再婚しようと思わない』と言っている。息子の翼君を思ってだ。
何度も幸人君のようなケースと出会うからだろう。そういう思いに駆られてもしかたがないと思う。
「まぁ、一人増えようが二人増えようが、今日はカレーとシチューの日だからノープロブレムだけどね」
八重歯を見せ笑い、「あっ、でも」と思い出したように言う。
「明日の夕食はトンカツじゃなかった? お肉屋さんに連絡しておかなくちゃ」
「よろしくお願いします。私は今からお昼休みをたっぷり頂きます」
調理スタッフはフルで働いている私と良美さん、それに、パートさんが四人。その六人がローテーションを組んで、朝昼晩の食事作りを行っている。
私は独り身なので、皆の都合に合わせてフレキシブルタイム制にしてもらっているが、良美さんは翼君がいるから、お昼休みを除いた八時半から十七時半の固定時間制で働いている。
「了解。ところで、幸人君の年齢でピンクのブタって喜ぶと思う?」
ピンクのブタとは、ウズラの卵をゆかりで染め、それをブタに見えるように細工したものだ。
「さぁ、どうでしょう?」
それを、新規にやって来た子の、最初の夕食に付けるのがヒマワリの習わしだった。
『ピンクは〝愛〟を表現する色で、ブタは〝幸運のシンボル〟と云われているの』
それをヒントに、『私たちはあなたを心から歓迎します』そんな思いを込めたのだと、これを始めた梅さんが説明してくれた。だが――。
「年齢は関係ないと思いますが、大きな子はここに預けられた理由が分かるから……」
ピンクのブタで歓迎されても、別段、嬉しくないだろう。
「そうよねぇ。同じ歳でもマミちゃんは喜んだけど、舜君は喜ばなかったもの」
良美さんは新規入所者に気を遣いすぎるほど気を遣う。
「キリリとしたピンクのブタにして、カレーの山頂に立たせてみようかしら?」
それは良美さんが子を持つ親だからだろう。どの子も、我が子とダブって見えるのだと思う。
「じゃあ、ピンクのブタは私に任せてゆっくり休んでね」
ぴらぴらと手を振り、良美さんは仕事に戻った。
彼女のような奇特な大人がいる反面――施設の定員は二十五名。常時満員だ――子供をそんな状態にする鬼畜な親も大勢いる。
だったら子供なんて作らなければいいのに……毎度思うことだ。
あー、やだやだ!
こういう嫌な気分のときは、眠りを貪るに限る。睡眠に勝る良薬は無し!
私にとって眠りは、〝自然〟と同じで、神が平等に与え賜ふものだ。
ふぁぁと欠伸を一つ零して、施設の隣に建つ、今は我が家である赤井邸に向かった。
○◇○
「幸人君ってすごくイケメンだし、頭も良いんだって」
良美さんはイケメン君が大好きだ。それが唯一自分の欠点だと言う。
「でも、そのお陰で翼というイケメンの息子を授かったから……結果オーライだよね?」
そう自分をフォローするが、翼君がイケメンなのは本当のことだ。
ちなみに、良美さんがヒマワリで働き始めたのは、私が高校三年生の頃だ。
当時は、『渋メンの事務長に甘メンの施設長。なんてイケメン偏差値が高い施設なの』と二人への評価はすこぶる良かった。
しかし、今は、事務長のことを〝脳ミソ親父〟と呼び、施設長のことを〝人タラシ〟と言っている。あまりにも的を射ているので反論の余地がない。
「さて、そろそろカウントダウンを始めますか」
夕食開始時間は十七時半。残業になるのに良美さんが残っているのは、幸人君と会いたいからだそうだ。でも、本心は彼のことを心配してだと思う。
「……三・二・一」
ピンポンパンポーン。
〈夕飯の時間です。手を洗って食堂に行きましょう〉
放送と同時に、どどどどど、と地響きのような足音が近付いてくる。子供たちの登場だ。
「わーい、いちばーん!」
いつものように、まず飛び込んできたのは健人君だった。小学三年生のやんちゃな子だが、ヒマワリのムードメーカー的な子だ。
彼の後に続いて次々に子供たちが姿を現し、列を作る。
職員も手助けするが、基本、食事はセルフで、小さな子の世話は大きな子がする。
「おっ、茜もカレーか?」
茜ちゃんは小学二年生だが、小柄なのでよく一年生と間違えられる。それを気にしてか、ちょっと内気な子だ。
「食べられるようになったのか?」
カレーの日はシチューの日。それは刺激物が食べられない子や小さな子のためだ。
「うん。茜、お姉さんになったから」
健人君の質問に、茜ちゃんの瞳がきらきら輝く。
「そう言えばお前、お世話係りになったんだったな」
茜ちゃんがお世話をしているのは、先週入所した巴ちゃんという四歳の女の子だ。
「うん!」
どんなに幼くても、誰かの役に立てると思うと張り切ってしまうのかもしれない。いつもは小声でしか喋らない茜ちゃんが、大きな声で返事をする。
「茜ちゃんはお世話がとても上手なのよ」
にっこり微笑んだのは、茜ちゃんをお世話している優美ちゃんだ。
「おいらだってできるのに……」
「健人が女の子はイヤって言ったんだろ?」
健人君をお世話している正樹君が笑う。
話題の巴ちゃんは、茜ちゃんの上着をぎゅっと握って後ろにぴったりくっ付いている。
微笑ましい二人の姿に、私も良美さんも笑みが零れる。
「お代わりもあるから、しっかり食べるのよ」
だから、良美さんはそう声を掛けたのだが、それに反応したのは健人君だった。
「おいら、三回お代わりする」
途端に良美さんが眉を寄せる。
「それは却下。この前、食べ過ぎてお腹が痛くなったの忘れたの?」
「――分かった。二杯にしとく。でも、大盛りにして」
「健人、あんたもこりない子だね」
良美さんが、あははと笑うと、つられて皆も笑い始めた。
「おやおや、楽しそうだね」
「あっ、柳瀬先生だぁ!」
梅さんも子供たちから慕われていたが、柳瀬施設長も同様で人気がある。さらに、パートさんや出入りの業者さんまで魅了してしまうフェロモンを持つ。これが〝人タラシ〟たる所以だ。
「全員揃っているかな?」
施設長と一緒にやって来た橋田事務長が辺りを見回しながら尋ねると、「うん、そろってるよ」と健人君が大きな声で答える。
「じゃあ、皆が席に着いたら、今日から一緒に暮らす、門前幸人君を紹介します」
施設長と事務長の後ろに、すらりとした男の子が立っていた。
子供たちは「はーい」と声を揃えて返事をすると、手に手にトレーを持って席に着く。
「噂どおりのイケメン君ね」
良美さんは耳打ちすると、宣言どおりカレーの山頂にピンクのブタを載せ、幸人君のトレーに置いた。
しかし、「歓迎の意味を込めて」と良美さんが言ったところで――。
ガシャーン。
物凄い大きな音がした。
「えっ?」
幸人君が床にトレーを落としたのだ。
〈お呼び出し致します。調理スタッフの赤井ソラさん、橋田事務長がお呼びです。至急、事務室までお越し下さい〉
ようやくお昼の忙しさが終わったと思ったらこれだ。
「いってきます」と他のスタッフに声を掛けて、呼び出しに応じ赴くと、恵比寿顔で事務長が待っていた。
「ああ、ソラ君、昼休みに悪いね」
事務長は人の良さそうな顔をしているが、実のところ狸だ。
「門前幸人君、知ってるよね? 今日の午後、ようやく退院できるんだ。その足でこちらに来るから、夕食から一人分増やしてね」
思ったとおり、新規に入所する子の話だった。
――が、門前……幸人君。誰、それ?
梅さんの代からここにいる事務長は、梅さんを心から崇拝している。その梅さんが、愛して止まない施設を事務長が大切に思わないわけがない。
彼は、施設のためなら喩え火の中水の中。相手が誰であろうと、少々強引な手を使ってでも、施設側の要求を通してしまう――という我の強いところがある。
その性格、嫌いではない。
だが、合理的かつ迅速をモットーとする事務長は、頭がいいからなのか、『脳ミソは一度言えば記憶する』という良く分からない持論から、絶対に同じ話を二度しない。時間が無駄だからだそうだ。
しかし、日々の出来事というものは、よほど強烈な記憶でない限り、脳細胞の奥底に追いやられ沈んでしまう。
それを掘り起こす身にもなって欲しい。
「門前……」
うーんと考え、微かに浮上してきた情報を口にする。
「確か、母親の再婚相手から虐待されて重傷を負ったという?」
彼のことを聞いたのはふた月少し前だったろうか? それをあたかも、つい最近話したかのように言うのはやめてもらいたい。
「そうそう」
だが、正解だったようだ。
「引き取り手を探しているとおっしゃっていましたが、やはりなかったのですね?」
記憶というものは、きっかけさえあればスルスル蘇る。
「そう。残念なことに親戚とは疎遠だったらしく、ダメだった」
母親は事件に関与していなかったようだが、ショックのあまり精神が不安定となり、入院してしまったらしい。
「それで、お母さんの容態は?」
『体調さえ回復すれば、また一緒に暮らせるだろう』そう聞いていたのだが……。
「かなり悪いらしい」
事務長は皆まで言わなかったが、曇った顔から退院できないほど症状が重いのだと窺えた。
「幸人君は高校生だが、まだ十六歳。子供だ。心身共に痛めつけられたうえに、あの歳で施設暮らしとなると、相当メンタル面でのケアが必要だろう。ぜひ、美味しい食事で癒やしてあげて欲しい」
そんな狸親父だが、傷付いた子供には本当に優しい。
「了解しました」
そう返事をして私は事務室を出た。と同時に出る溜息。
――本当に食事で癒やされるのだろうか?
私はドアに背を預けると目を瞑った。
施設の生活しか知らない私は、家庭の味というものを知らない。だから比べようがないのだが、新しい子が入所するたびに、何となく考えてしまう。
――思うだけ虚しいのに……。
目を開けると、一つ大きく息を吐き出し、歩き出す。
ここは昔、小学校だった。といっても、小さな、分校のような小学校だ。
少子化の煽りを受け、いの一番に廃校となったらしい。その建物を梅さんの恩人とかいう人が買い取り、児童養護施設にしたと聞く。
リノベーションしたようだが、そこかしこに当時の面影が残っている。
真っ直ぐに伸びた長い廊下も、それに沿って並ぶ腰高の四角い窓も、見る人が見れば懐かしく思うだろう。
しかし、私を含め、ここに預けられた子たちにそんな感慨は皆無だ。
児童養護施設というところは、姥捨山ならぬ子捨て施設だからだ。少なくとも私はそう思っている。
ふるふると頭を振り、視線を窓の向こうにやる。
「――秋だなぁ」
そこに施設が所有する裏山が見える。
見過ごしていたが、深緑の葉の間に赤や黄色の葉が交ざり始めていた。急激に気温が低くなったからだろう。
「栗拾い……」と口に出し、まだ早いかと思い直して、あっ、「渋皮のマロングラッセ!」と約束を思い出す。
秋と言えば、食欲の秋、読書の秋、スポーツの秋といろいろ有るが、やはり味覚の秋が一番だ。
施設では栗拾いの他にも、秋は芋掘りや干し柿作りなど、美味しい行事が目白押しで、子供たちも心待ちにしている。
去年は収穫した栗の半分で甘露煮を作り、それでパイやパフェを作った。
甘露煮は手間がかかるので、毎年は作らないが、応用が利くので有ると重宝する、と手紙に書いたら、『食べたい』という返事がきた。
しかし、生憎全て消費した後だったので、『来年、マロングラッセを送ります』と書いたのだ。
――思い出して良かった。
安堵の息を吐くと共に、行事には付きもののハプニングも思い出す。
去年のワーストワンは、芋掘りをしていたのに、いつの間にか泥遊びになってしまい、全員ドロドロ星人になってしまったことだ。
あの後、調理スタッフまで洗濯に駆り出されて大変だった。
こんな風に子供たちの行動は予測不可能だ。大人が思ってもいないことを突然やり始める。
ハラハラすることもあるが、それも子供たちには〝学び〟と、命を脅かすようなことや他人を傷付けるようなこと以外、許容範囲内で見守っている。
――が、野外活動中の子供たちは、普段以上に肝を冷やす行動を取ることが多い。
「今年は何をしでかすやら?」
ふふふ、と笑みを浮かべながら、また幸人君のことを思う。
施設に来る子は決して喜んで来るわけではない。事情も様々だ。
親はいるけど虐待された子供……。
親に捨てられ本名や誕生日さえ知らない子供……。
幸人君は前者で私は後者だ。
「どっちがマシなんだろう?」
究極の選択かもしれない。だが、幸人君のような子供が現われるたびに、自分に問いかけてしまう。
「悩ましげな顔。何を考えてるの?」
廊下を歩きながら思考の森を彷徨っていると、背中の方から声が聞こえた。
「あっ、良美さん」
同僚の調理スタッフ水谷良美さんだった。
彼女は私より五つ上で、三歳の息子を一人で育てているシングルマザー。何のことだか良く分からないが、本人曰く、『黒歴史を葬ったミステリアスな女』らしい。
「いえ、別に……」
「そう? 恋の悩みなら聞かせて。良いアドバイスはできないけど、私の潤いになるから」
「ずいぶん自分勝手なお願いですね」
私は彼女と交わす、歯に衣着せぬ会話が好きだ。
「何? バツイチにアドバイスを求めたいの?」
「いいえ、けっこうです」
彼女と話をしていると、ぐたぐたと考えていることがバカらしくなるからだ。
「それより、夕食から一人増えます」
そんな良美さんだが、橋田事務長は苦手だそうだ。
『一度で脳ミソが覚えるわけ無いでしょう』
そう言って調理部門の責任者を押し付けたのは彼女だ。
「門前幸人君でしょう? 施設長から聞いたわ」
「また、おむすびですか?」
施設長はごくたまに、業務の都合から施設長室で食事を取ることがある。
「そう。今日は忙しくて食事をする暇が無いんですって。子供たちには、三食ちゃんと取りなさいって言うのにね」
良美さんがブツブツ文句を言いながら、「でも、デスク仕事が多いから、あの体型を保つには、おむすびで十分かもね」と悔しそうに舌打ちする。
――というのも、子供を生んでからお腹周りが気になるそうだ。だから、年中『ダイエットをするぞ!』と言っている。
スリムなのに……と思い、ふと、管理栄養士云々の件を思い出す。が、未だ取得する気はない。
「でも、幸人君も気の毒よね。お母さんが再婚を考えなかったら、あんなことにはならなかったのに……」
常々彼女は、『生活がどんなに困窮しようと、再婚しようと思わない』と言っている。息子の翼君を思ってだ。
何度も幸人君のようなケースと出会うからだろう。そういう思いに駆られてもしかたがないと思う。
「まぁ、一人増えようが二人増えようが、今日はカレーとシチューの日だからノープロブレムだけどね」
八重歯を見せ笑い、「あっ、でも」と思い出したように言う。
「明日の夕食はトンカツじゃなかった? お肉屋さんに連絡しておかなくちゃ」
「よろしくお願いします。私は今からお昼休みをたっぷり頂きます」
調理スタッフはフルで働いている私と良美さん、それに、パートさんが四人。その六人がローテーションを組んで、朝昼晩の食事作りを行っている。
私は独り身なので、皆の都合に合わせてフレキシブルタイム制にしてもらっているが、良美さんは翼君がいるから、お昼休みを除いた八時半から十七時半の固定時間制で働いている。
「了解。ところで、幸人君の年齢でピンクのブタって喜ぶと思う?」
ピンクのブタとは、ウズラの卵をゆかりで染め、それをブタに見えるように細工したものだ。
「さぁ、どうでしょう?」
それを、新規にやって来た子の、最初の夕食に付けるのがヒマワリの習わしだった。
『ピンクは〝愛〟を表現する色で、ブタは〝幸運のシンボル〟と云われているの』
それをヒントに、『私たちはあなたを心から歓迎します』そんな思いを込めたのだと、これを始めた梅さんが説明してくれた。だが――。
「年齢は関係ないと思いますが、大きな子はここに預けられた理由が分かるから……」
ピンクのブタで歓迎されても、別段、嬉しくないだろう。
「そうよねぇ。同じ歳でもマミちゃんは喜んだけど、舜君は喜ばなかったもの」
良美さんは新規入所者に気を遣いすぎるほど気を遣う。
「キリリとしたピンクのブタにして、カレーの山頂に立たせてみようかしら?」
それは良美さんが子を持つ親だからだろう。どの子も、我が子とダブって見えるのだと思う。
「じゃあ、ピンクのブタは私に任せてゆっくり休んでね」
ぴらぴらと手を振り、良美さんは仕事に戻った。
彼女のような奇特な大人がいる反面――施設の定員は二十五名。常時満員だ――子供をそんな状態にする鬼畜な親も大勢いる。
だったら子供なんて作らなければいいのに……毎度思うことだ。
あー、やだやだ!
こういう嫌な気分のときは、眠りを貪るに限る。睡眠に勝る良薬は無し!
私にとって眠りは、〝自然〟と同じで、神が平等に与え賜ふものだ。
ふぁぁと欠伸を一つ零して、施設の隣に建つ、今は我が家である赤井邸に向かった。
○◇○
「幸人君ってすごくイケメンだし、頭も良いんだって」
良美さんはイケメン君が大好きだ。それが唯一自分の欠点だと言う。
「でも、そのお陰で翼というイケメンの息子を授かったから……結果オーライだよね?」
そう自分をフォローするが、翼君がイケメンなのは本当のことだ。
ちなみに、良美さんがヒマワリで働き始めたのは、私が高校三年生の頃だ。
当時は、『渋メンの事務長に甘メンの施設長。なんてイケメン偏差値が高い施設なの』と二人への評価はすこぶる良かった。
しかし、今は、事務長のことを〝脳ミソ親父〟と呼び、施設長のことを〝人タラシ〟と言っている。あまりにも的を射ているので反論の余地がない。
「さて、そろそろカウントダウンを始めますか」
夕食開始時間は十七時半。残業になるのに良美さんが残っているのは、幸人君と会いたいからだそうだ。でも、本心は彼のことを心配してだと思う。
「……三・二・一」
ピンポンパンポーン。
〈夕飯の時間です。手を洗って食堂に行きましょう〉
放送と同時に、どどどどど、と地響きのような足音が近付いてくる。子供たちの登場だ。
「わーい、いちばーん!」
いつものように、まず飛び込んできたのは健人君だった。小学三年生のやんちゃな子だが、ヒマワリのムードメーカー的な子だ。
彼の後に続いて次々に子供たちが姿を現し、列を作る。
職員も手助けするが、基本、食事はセルフで、小さな子の世話は大きな子がする。
「おっ、茜もカレーか?」
茜ちゃんは小学二年生だが、小柄なのでよく一年生と間違えられる。それを気にしてか、ちょっと内気な子だ。
「食べられるようになったのか?」
カレーの日はシチューの日。それは刺激物が食べられない子や小さな子のためだ。
「うん。茜、お姉さんになったから」
健人君の質問に、茜ちゃんの瞳がきらきら輝く。
「そう言えばお前、お世話係りになったんだったな」
茜ちゃんがお世話をしているのは、先週入所した巴ちゃんという四歳の女の子だ。
「うん!」
どんなに幼くても、誰かの役に立てると思うと張り切ってしまうのかもしれない。いつもは小声でしか喋らない茜ちゃんが、大きな声で返事をする。
「茜ちゃんはお世話がとても上手なのよ」
にっこり微笑んだのは、茜ちゃんをお世話している優美ちゃんだ。
「おいらだってできるのに……」
「健人が女の子はイヤって言ったんだろ?」
健人君をお世話している正樹君が笑う。
話題の巴ちゃんは、茜ちゃんの上着をぎゅっと握って後ろにぴったりくっ付いている。
微笑ましい二人の姿に、私も良美さんも笑みが零れる。
「お代わりもあるから、しっかり食べるのよ」
だから、良美さんはそう声を掛けたのだが、それに反応したのは健人君だった。
「おいら、三回お代わりする」
途端に良美さんが眉を寄せる。
「それは却下。この前、食べ過ぎてお腹が痛くなったの忘れたの?」
「――分かった。二杯にしとく。でも、大盛りにして」
「健人、あんたもこりない子だね」
良美さんが、あははと笑うと、つられて皆も笑い始めた。
「おやおや、楽しそうだね」
「あっ、柳瀬先生だぁ!」
梅さんも子供たちから慕われていたが、柳瀬施設長も同様で人気がある。さらに、パートさんや出入りの業者さんまで魅了してしまうフェロモンを持つ。これが〝人タラシ〟たる所以だ。
「全員揃っているかな?」
施設長と一緒にやって来た橋田事務長が辺りを見回しながら尋ねると、「うん、そろってるよ」と健人君が大きな声で答える。
「じゃあ、皆が席に着いたら、今日から一緒に暮らす、門前幸人君を紹介します」
施設長と事務長の後ろに、すらりとした男の子が立っていた。
子供たちは「はーい」と声を揃えて返事をすると、手に手にトレーを持って席に着く。
「噂どおりのイケメン君ね」
良美さんは耳打ちすると、宣言どおりカレーの山頂にピンクのブタを載せ、幸人君のトレーに置いた。
しかし、「歓迎の意味を込めて」と良美さんが言ったところで――。
ガシャーン。
物凄い大きな音がした。
「えっ?」
幸人君が床にトレーを落としたのだ。