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" Memories 回顧録9 "
== 長山都眞子 ==
幸せ全開のカップルの片割れが病気であっけなく
亡くなってしまった。
姉の病気が判った時にはすでに手遅れで、診断されてから3か月足らずで
姉は私たちの手の届かない世界へと旅立っていってしまった。
愛しの夫と息子を残して。
大が3才を目前にしていた時のことだった。
今は下着や寝間着など病院でレンタルという形で借りられ為
病人の下着や寝間着等々衣服の洗濯に追われることもない。
それでも母は、体力の持つ限り病院に日参して姉の側に付いていた。
命の限られている病人と家族との間に残された僅かな時間・・
両親と義兄との話し合いで姉は個室に入った。
仕事もある私は、会社が休みの日に両親と一緒に見舞った。
大抵義兄と大も来ていたので、私は1時間も居ればその後は
退散した。正直に言うと、仲良くもなかった姉とは間が持たなかったからだ。
仲の良い姉妹であったならば、語りつくせぬこともたくさんあっただろうに
と思う。残された時間は限られていて、私なんかと過ごすよりも大や義兄と
過ごしたほうが姉は幸せだもの。姉にとって私の存在などあつてもなくても
どちらでもという、薄いものだから。
薄情かもしれないけれど、後悔は無い。
葬式の日は私たちの悲しみを表すかのようにシトシトと雨が
薄暗い雲で覆われた空から降っていた。
義兄はとても悲しそうで私は見ていられなかった。
母親の姿を探す大も可哀想で・・。
悲し気な大は、義兄の胸にしがみ付いていた。
葬式の翌日から、しばらくの間大は私や私の両親と一緒にひとつの部屋で
寝た。
寝る前には大の気持ちが沈みこまないようにと配慮し、毎晩トランプや
カードゲームで気持ちを盛り上げ、最後は私か母が読む絵本を聞きながら
大は眠りについた。
義兄は大もいない独りの部屋で、一層悲しみに暮れていたかもしれない。
だけど、義兄をなぐさめられる人間はいないのだから、しようがなかった。
大を私たちみんなで育てた、それはそれは慈しんで。
日中は母が見て、仕事から帰ると私と父が。
そして年齢的にも重責のともなう仕事を任され毎日のように
帰宅の遅い義兄が迎えに来て、親子ふたりが自分たちの住む家へと
帰って行く。車で10分、自転車で15~6分という何とも中途半端な距離。
義兄が時間的、肉体的に迎えに来られない日などは
大抵残業をせず早めに私が帰宅、そして大を連れて行き
義兄の家でお風呂に入れたり遊ばせたりしながら私と大とで
義兄の帰りを待った。
私の代わりに父親が車を出すこともあったし、母親が自転車で
連れて行ったりしたこともあった。
ほんとにみんなで協力し合い、大の子育てはまわっていった。
ただ母親の体力的なもの、そして大が私を母親のように慕っていくように
なったことで、いつしか子育ての見守りのメインは私になっていった。
大は、都眞ちゃんは僕のおかあしゃんよ、ね?
なんてよく言うようになってて。
うれしいんだけど、何か微妙?・・みたいな感覚が私にはあった。
こんなに懐いてくれる甥がいて、それでその父親もわたしにとっても
懐いて好いてくれたら問題は容易かった・・が。
けれど現実はそう上手くいかない。
少し時が流れ、かなり悶々とするようになった頃、両親からさもありなんと
思うような話をされたのだった。
はっ? もしかして私の気持ちバレてたのか? まさかねっ!