レディードールへ呪いと愛を



「よし」


ステッキを床につく。片手で車椅子を掴み、ゆっくりと、バランスを崩さないように。慎重に立ち上がる。

チャンスを逃さないために、コッソリ練習をしてきた。その場で立つだけ、短い時間なら大丈夫。

――足を気にしながら、フェリルは腕を伸ばした。だけど、箱まで数センチ……届かない。

いや、ここまできて諦めるわけには……。ステッキに体を預けて、腕に力をこめる。危うい体勢と分かっていても、後戻り出来なかった。

すると、必死のフェリルを気の毒に思ったのか、指先に触れた箱がそーっと頭を出してくれて。


「届いた!」


手に箱の重みを感じた瞬間の達成感。しかし、それが同時にフェリルの感覚を鈍らせる。

かくん、とずれる義足の関節。絶妙に保たれていたバランスが一気に崩れた。


「わっ……!」


このまま倒れれば、自分も義足も壊れるだろう――フェリルは目を瞑って覚悟しつつ……でも頭のすみで箱の行方も気にする。

次に来るのは衝撃か。頭を打ったら痛いだろうな。箱、壊れなきゃいいんだけど。


「箱なんかより自分の体を心配してください」

「ルカ⁉」


低音の声と吐息。腰に絡みつく腕。――彼の香り。

一瞬で体中を巡る甘美なものは、怪我の衝撃よりも強い。

 

ルカの安堵のため息が、耳朶を食んだように感じた。これは――妄想?


「お嬢様はお部屋にいらっしゃらないし、アリアはどこかへ逃げているのか呼んでも出てこないし、まさかと思って来てみれば……。少々いたずらが過ぎるのでは? お嬢様」

「ルカ……。は、早かったのね」


アイスブルーの瞳が静かにフェリルを見下ろす。


「ええ。ドールとご主人への挨拶“だけ”でしたから」

「そうだったんだ……」


それはつまり、朝ルカが予想していた通りだったということだ。

《Birthday》ではなかった。そうか……違ったのか――。


「それより、これはどういうことです? 手の届かない場所にあるものは駄目だと、あれほど言いましたよね」


器用なルカは、フェリルと一緒に箱も受け止めていた。

 

ただの箱だと思っていたが、よく見れば革張りの立派な装飾箱。ということは、中身も相当な品に違いない。


「お嬢様。聞いていますか? 一歩間違えば大事故だったんですよ?」

「壊れなくて良かった……お父様の大事なものだもの」

「あなたのことです!」


ピシャリと小さな雷がフェリルの頭に落ちた。ルカは小言は多くても、声を荒らげることはほとんどない。

さすがに今回はやりすぎたか……と、フェリルは項垂れた。


「ごめんなさい……。それずっと気になってて……。ルカは絶対に駄目だって言うの分かってたから、それで……」

「そうですね。特にこの箱はよろしくありません。旦那様が一番、誰にも知られたくないと仰っていたものです。鍵のかかる棚にいかにもと仕舞っておくのではなく、本棚に紛れ込ませ隠していたのも、そのお気持ちから。木は森に隠せと言いますしね」

「そんなに? ルカは中身を知っているの?」


フェリルの足の様子を何度も確認するルカの手が、質問に止まる。「はい」と彼は答え、箱を大事そうに抱えた。

輝きを失った金色の金具をカチャカチャといじり、それが鍵であることを無言でフェリルに教える。鍵は自分が持っている――ルカの目はそう言った。


「仮面です」

「仮面? ピエロとかの?」

「いいえ」


――陽が傾いてきた。屋敷のどこよりも早く夜がくる書斎。ルカはランプに火を灯す。


「呪いの仮面ですよ」


青い目が火を捉え、オレンジ色に一瞬染まった。

 

美しい色。あたたかい炎の色。

だが、“呪い”という恐ろしい言葉のせいで、地獄を焼く業火を思い出してしまい、フェリルは身震いする。

怯え顔のフェリルに気付いたルカは、穏やかに微笑んだ。


「デスマスクはご存知でしょう。中には、それが」


――デスマスクとは、死者の顔を石膏などで型に取ったもの。故人を偲ぶため、また、芸術性など様々なものが背景となり作られていたりする。十七世紀には、告別式に飾ったりと、ごく一般的に広まっていた。著名人のそれは博物館に展示されていることも。


「お父様は、誰かの死に顔を大事にしまっていた……の?」

「資料目的では? 旦那様は、研究熱心なお方でしたから、他にも色々集めていたようです」

「資料……。そっか……眠った表情のドールを作ろうとして……」

「ですが、お嬢様。デスマスクは死人の仮面。亡者の想いが宿っている可能性も、無きにしも非ず。それに、遠く東の国では、歌舞劇で使うためにわざわざ男の怨霊の仮面が作られるそうで。もしかしたら、巡り巡ってこの屋敷にもそういった類のものがあるかもしれない。悪霊に取り憑かれてしまったら困るでしょう?」


ルカは人差し指を立て唇にそっとあてた。

「だから……――ね?」と笑う顔が、庭で一緒に遊んでいた頃の少年と重なる。

フェリルの胸はそれだけで高鳴った。

庭の東屋でこっそりと“結婚式ごっこ”をした時と同じ。誰にも内緒。二人だけの秘密――シロツメクサの花冠と、誓いのキス。

ルカはもう忘れてしまった思い出かも。でもフェリルは、ずっと覚えている……。

仮面はとても興味深いけれど、脳内に甘く溶ける記憶には勝てなかった。

そっと頭を撫でるルカの手に酔うフェリル。

ルカは箱を本棚に戻した。

――フェリルでは決して届かない、一番上の段へ。

 


屋敷内が寝静まる頃。

日光を拒絶する書斎の、重いカーテンが開いた。

今宵は満月。明るく強い月光が、窓枠の十字を絨毯の上にくっきりと描く。

こんなに清々しい満月の夜は、一年の内でもそう無い。月光浴だといわんばかりに、ルカは窓辺で目を閉じた――。

そうして満月夜を楽しんだ後、本棚へ。上段へ移動させておいた箱を取る。

――まさかフェリルが、自分の留守中に忍び込み、中を見ようとするとは……。


「まぁ、取れたとしても、これが無ければ開けられないんですけどね」


クスリと笑い、ルカは燕尾服の内ポケットから細く小さな鍵を取り出し、箱を開けた。

サテン地の薄いクッションに守られている、石膏で作られた仮面――デスマスク。

一般的には穏やかな死に顔というのだろうか。端正な顔立ちの少年のそれ。

 

ルカは手袋を外すと、真白な唇を人差し指でなぞった。次に、フェリルの艷やかな唇を思い出しながら、自分の唇をゆっくりとなぞる。

はあっ……と、ルカからウットリとしたため息が漏れた。


「それは、ルカのものですか?」


唐突にかけられた声に、ルカは視線を向けた。


「覗き見ですか? アリア」

「ドアが少し開いていました。これはルカの不注意です。私は自分から開けていません」

「ああ……」

「それとも、私が柱の影からルカを覗いていたのを知っていて、わざと開けておいたと?」

「なんだ。やっぱり覗いていたんじゃないですか」


肩をすくめて笑うルカを、アリアは無言で見つめる。結局、誘導されたのかどうか分からない。

――フェリルならば問い詰めただろうが、アリアはそこまでするほど興味がないので、ただじっとルカを見る。


「どうぞ。そこにずっと立たれていても困りますので。ドアは閉めてくださいね」


隙間からひょっこりと首だけ出していたアリアは、言葉に頷いた。

 


「これは、ルカのものですか?」


アリアの再びの問いかけに、ルカは「はい」と返した。


「綺麗ですね。――“美しく儚い少年の死顔”」


箱の蓋の裏には銀のプレートがついていた。そこに彫られた文字をアリアは読み上げる。


「美しくなんかない。気持ち悪いでしょう?」

「“自分の死に顔”だからそう思うのですか?」

「やはり気付いていましたか」

「ルカがここに来た時から、私はあなたが《悪霊》だと知っていました」

「ではお互い様ですね。私はアリアが《Birthdayドール》だと気付いていましたから。一緒に仕事をする上では何も不都合は生じませんし、身の上話をする必要もありませんでしたものね」

「この屋敷、まともな人間はフェリルお嬢様だけです」


頷くアリアにルカが苦笑した。


「確かに。私達はもちろん、先代も先々代も……まともな人間とは言えません」

「ルカはどうしてこの屋敷に?」

「悪霊が執事だなんて……と思いますか」

「仮面のまま、ここで寝ていれば楽だったのに」


アリアはいつもどおり無表情だったが、何故か口調が落胆しているように聞こえ、ルカは思わず吹き出した。フェリルのそばに悪霊がいるのが少々納得いかないらしい。

 


「自分で言うのもなんですが、この仮面は“呪いの仮面”だそうで」

「穏やかではありませんね」

「病弱で幸薄く、猟奇殺人の被害者。遺されたのは首だけ……そんな最期だったのに死に顔は穏やか――。売買するための謳い文句にはもってつけだったんじゃないですか? まさか、自分の死に顔がオークションで晒され世界中を旅するとは思いませんでしたよ」

「その恨みから悪霊に?」

「自分を呪って死んだわけでも、誰かを呪うために死んだわけでもありません。だけど、私にそうであれという人間が多かった。その結果、この有り様です」


ルカは仮面の唇をなぞる。何故こうなってしまったのか、本当のところ、自分でもよく分からないままだ。


「先代は嬉々として私を迎え入れました。それはもう大金を叩いて」


「やっと手に入れた」「これでやっと……」と、書斎で狂い笑うフェリルの父親の顔を、ルカは今も忘れていない。

嫉妬や恨みに歪む人間の顔は何度も見てきたが、あそこまで酷い者はいなかった――。

 

あの男は全てを恨んでいた。アッシュベリー家のこと、人形師の才能を持って生まれなかったこと、ドールの回収すら、まともに出来なかったこと。

そして……才能に恵まれた自分の娘のこと。


「もう分かるでしょう? あの方は、お嬢様に呪いをかけたのです。あろうことか、この仮面を眠るお嬢様に被せて」


アリアの瞳が驚きに見開かれた。

自分の娘に呪いをかけた父親。

才能を潰せ。自分よりも苦しませろ。そうだ、いっそのこと殺してしまえばいい。

毎晩毎晩、幼いフェリルに仮面を被せ、あの男は娘と家を呪った。

ルカは“そういうもの”として存在してきた。あの頃のルカに逆らう術はなく、願われるがまま相手を痛めつける。

まずは毎夜の悪夢を。何度も病気で苦しませて。そして、事故で両足を潰した。両足だけでなく、フェリルをかばった従者も奪った。