偽薬《プラセボ》だって、言葉と優しい微笑みがあれば本物になる。
でも、今の私は幼い頃と少し気持ちが違うから、そこに意味が欲しい。
どうして偽物を本物にしてくれるのか、その答えに自分の期待を沢山混ぜて。
《ルカの愛情は、どんな“愛”なの?》
……どうか、私と同じであって欲しい。
私がいつも同じことを繰り返すのは、ルカの気持ちが見えないからだった。
なぜ、彼はこうするのだろう……。
陶器の足を大事に、毎晩手入れしてくれる。
車椅子も丁寧に部屋の隅に片づけてくれる。
そして、安定剤代わりのお茶を淹れてくれる。
私はどこにも行かないよ?
ルカのそばにいたいから。
ルカが居てくれればそれでいいの。
だから、いいのに。そこまでしなくても。
ルカはどうして……?
立つこともままならない、壊れやすい陶器の足は、ルカしか扱えない。
ベッドに入ると、自分では決して届かない場所に置かれる車椅子。
深い眠りに連れて行く、本物の薬の入ったお茶。
ルカの本当の気持ちが知りたくて。
私は毎晩同じことを繰り返す。
分からないから、いつまでも繰り返される。
月が笑うのも無理はない。
今日の月はチェシャ猫みたいに。
「まだ分からないのかい?」って、
私を嘲笑《わら》ってる……。
透明度の高い肌質、宝石の瞳、今にも喋りだしそうなリアルな表情。滑らかに、しなやかに動く球体関節。
アッシュベリー工房の高級ドールは、噂では家一軒建つと言われるほど高価で、希少価値も高い。
一年に数体造られるかどうか……そもそも、受注も人形師の気分次第。依頼すれば素晴らしいドールが手に入るわけではないのだ。
いつしか、金持ちの間では、アッシュベリーのドールを迎えることが富豪の証と言われるようになった。ゆえに、彼らはこぞって人形師を訪れ、願う。
……が、森の深くに隠れるように建つ屋敷まで足を運んでも、人形師に会えるのはほんのひと握りの人間。もちろん、面会が叶っても願いを受け入れてもらえるとは限らない。
――ドールの瞳は、金を積めば開くものではない。
――ドールの唇は、純粋な想いによって開かれる。
これは、先々代……フェリルの祖父の言葉だ。
アッシュベリー家は、代々続く人形工房。
人形といっても、ただの人形ではない、等身大ビスクドール。
このドールを創造するには、大変特殊な技術と能力を必要とする。
たとえ後継者であったとしても、才能に恵まれた者とそうでない者の差は激しい。創造主になれるか、修理師で終わるか。一族の英才教育を受けても、持って生まれた才能が、最後はものをいう。
フェリルの祖父は、一族の中で最も優れた才能を持つ人形師だった。生み出したドールの数も歴代最高。
逆に父は創造の才に恵まれず、また、修理工としてもあまり腕が伸びず。苦悩の中で家を守り続けた人だった。
そして、フェリル。フェリル・アッシュベリー。
幼くして父を失い、アッシュベリー家当主になった彼女は、祖父をも超える才能を持っている。本人はまだ自覚もなにも感じていないが――。
「お嬢様、Mr.ウェンズから修理の依頼が入っております。いかがなさいますか」
朝食後のお茶を淹れながらルカが言うと、フェリルは首をちょこんと傾げた。
「ミスター、ウェンディ?」
「違います」
はぁ……と、ため息をつき、ルカは「No.633です」と返す。
フェリルは視線を斜め左に向け、しばらく考えたあと「ああ!」と笑った。
「あのドレス店のブロンド乙女ね!」
「そろそろ、ドールのナンバーではなく、オーナーの名前で覚えては……」
「ルカが覚えているし大丈夫」
「まぁ、そうですが……それを言われると元も子もないというか……。先代も先々代もキチンと把握されていましたよ?」
「ルカは、お祖父様が生きていた時はこの屋敷にいなかったじゃない。なんで分かるの? それに、お父様もよく依頼主を間違えていたわ」
「……」
もう一度深くため息をついたルカが、両手を軽く上げ小さく笑った。
「分かりました。私の負けです」
「ふふっ」
「ですが、お嬢様。先々代が、依頼主とドールのことを全て把握されていたのは事実です。先々代に一日も早く追いつきたいのであれば、その辺りもお勉強なさった方がよろしいかと」
「……」
抑揚がないルカの口調は説教じみていて、妙な迫力もあり少し怖い。負けたと言ったくせに全然負けを認めていないじゃないのよ。
フェリルは頬を膨らませ紅茶を飲んだ。
「それで? 依頼の内容は?」
朝日に輝くアイスブルーの瞳は、No.633のブロンド乙女とよく似ていた。名前云々はともかく、ドール本体の子細は頭に入っている。そう、全てのアッシュベリードールのカルテがフェリルの頭の中にはあるのだ。
「両頬に薄い縦ひびが出現したそうです」
「両頬に……縦のひび」
“彼女”が住んでいるのはドレス専門店――沢山の女性がパーティードレスをオーダーしに集まる場所。新作のドレスが発表されると必ず、それを着て店に立つ。
――最高のモデルに最先端のドレス。これ以上の宣伝効果はない。No.633は、マネキン人形として店にいる。
「《Birthday》かしら……」
「どうでしょう。泣いているように見えるので困っている、とは仰ってましたが……」
「新しいドレスを着て泣くなんて。ウェディングドレスなら嬉し泣きかな? って分かるけど」
「……」
フェリルは人差し指を唇にあて、じっと考えた。
《Birthday》とは――人形に命が宿ること。
童話ピノッキオは、木の人形が女神から命を与えられ、良心をもち試練を乗り越えたことで、意思を持つ人形から本当の人間になれたという話。
アッシュベリー家最高の人形師・フェリルの祖父は、この童話に出てくる女神に似た能力をもっていた。
精巧に造られたドールにかりそめの魂。
だがそれは、祖父自らの意思で与えられる訳ではなかった。また、全てのドールが命を手にするとも限らない。どのように意思が生まれるのか、童話のようにやがて本物の人間に成り得るのか。
まだ誰にも解らない。
ゆえに、彼は決めた。
そんなドールを世に置いておけない。何か起こってからでは遅い。
壊してしまえば、宿ったものも消えるはずだ。回収しなければ――と。
「実際お店で会ってみたい。修理で済むか“回収”か……。あの子はお祖父様の後期の作品……。もし《Birthday》なら、これまでのドールに比べて、生まれるタイミングが早すぎる。初めてのケースだもの」
「それですが」
ルカは小さく咳払いをしてから言った。
「お嬢様が行く必要は無いかと」
「えっ、なんで⁉」
「件のミスターは、最近あのドレスショップを継いだ二代目です。No.633にもさほど詳しくないはず」
「うん? それの何がダメなの?」
「彼は、適当な嘘をついて人形師を呼び出し――つまり、お嬢様にお会いしたいだけだと思います」
何を言い出すのかと思えば……。
見上げれば、ルカの厳しい表情。フェリルは、ため息をつき苦笑した。
「依頼でしょ」
「はい。お嬢様はそれだけでしょうね。しかし、世の人間……特に男性は違うのですよ。滅多に姿を現さない、アッシュベリーの若く美しい人形師《レディードール》。なんとか機会をつくり、お嬢様に近づきたいのです」
「私の足は見世物じゃないのに」
「お嬢様の足は美術館で展示してもいいくらい美しいです。……いや、そういう意味じゃなくてですね」
ルカはフェリルから視線を外し、またコホンと咳を。
分からないならばそれで結構です、と呟く。
「とにかく。今回は私がまず様子を見てきますから」
「えぇ〜……街に行くついでにショッピングが出来ると思ったのに」
フェリルが屋敷の外へ出ることは、ほとんどない。出る必要も特にないからだ。なにもかも、ルカとメイドのアリアがいれば十分だし、外の空気が吸いたければ庭を散歩すればいいだけ。フェリルはそれで満足している。
とはいえ、たまに街を見て回りたい時はあるわけで。特に今頃は――。
「では、来週末に時間を作りましょう。クリスマスマーケットも回れますし」
「いいのっ⁉」
「ですから、本日はお屋敷で大人しくお過ごしくださいませ」
一瞬で心をクリスマスマーケットに奪われ、目をキラキラ輝かせるフェリルを見て、ルカは唇の端をそっと引き上げた。
***
ルカが出かけた後、フェリルは工房ではなく父の書斎に向かった。
その前に、キッチンで片付けをしているアリアのところへ。理由は――
「アリア。お父様の書斎のスペアキーを貸してほしいの」
「お嬢様」
振り返ったアリアの顔は“無”だった。
「無理です」
無表情は彼女のデフォルトだ。口調も抑揚なく、口数も少ない。
「そんなことをしては、お嬢様も私も、ルカに叱られます」
「ちょっと本を借りたいだけだから。すぐ終わるわ。ね? ちょっとだけ」
「書斎は立入禁止。私はそうルカに言われています。叱られるのは怖いです。“ちょっとだけ”ならば、ルカが戻った後でも問題ないような気もしますが」
「……うっ……」
書斎に許可なく入っていけないのは、父が生きている時からだった。覗くだけでも叱られる。世界中から集めた珍しい材料、貴重な資料が沢山あるからだと教えられた。
ルカはそれらの管理をずっと任されている。
もちろん、マスターキーはルカが所持していて、フェリルが、お願いしてお願いしてお願いして……やっと部屋に入れる状態だった。
「ルカがいると、自由に見られないのよ。その棚はダメ、この引き出しはダメ。ダメダメばっかり! 本のタイトルだってろくに見せてもらえないんだから」
「それが先代のご指示なのでしょう」
「修復の極意とか書いてある本や、お父様のノートが見つかるかもしれない。お父様は研究熱心だったから、絶対お手本になることが書いてあると思うの」
「……やはりルカに頼むのが一番だと思います。お嬢様が、ちょっと潤んだ瞳で頬を染めながらお願いすれば、彼も折れるかもしれません」
「潤んだ瞳……って」
「お嬢様ももう立派な大人の女性です。悩ましげな表情や、小悪魔的な微笑みといった女の武器を使いましょう」
「……」
無表情で言われても、あまり説得力がない――。
でも、アリアはそれで十分だった。彼女の美しい見た目は、フェリルの幼い時からほとんど変わらない。
白い肌に紅い唇、ペリドットみたいなグリーンアイと、腰まであるストレートの銀色の髪。当然スタイルも抜群。ルカより年上らしいけど、実際の歳を聞いたことはなかった。そんなのどうでもいいと思うほど、アリアは美人だった。
「ルカに効くわけないでしょ」
毎回、“恋する乙女のお願い”をアピールしても、あっさりスルーされてしまうのだから。
「そうでしょうか……?」
アリアは首を右に傾げる。そうなのよ、とフェリルが項垂れると、今度は左に傾げた。
「ねぇ、アリア。怒られるのは私が全部引き受けるから。ね? アリアは知らん顔しててくれればいいの」
キーボックスの金具が壊れていたのに気付かなかった――というのはどうかしら?
フェリルの子供っぽい提案に、アリアは珍しく頬を緩めた。
「その顔をすればいいのですよ、お嬢様」
***
分厚いカーテンが陽の光を遮っているせいで、書斎は昼も夜も関係ない。
だけど、天気のいい真昼ならば、わずかな隙間から光が入るおかげで、目が慣れれば薄暗くとも本のタイトルだって読める。
広い書斎とはいえ車椅子で動き回るにはコツがいった。いつもはルカが、フェリルの手となり足となり動く。
棚の上のものは、車椅子に座っていたらどんなに手を伸ばしても届かない。
そしてそれを利用しているかのように、フェリルが気になる本や箱は高い場所に置かれている。当然、見たいと言っても「あれはお見せ出来ません」の一言で終わり。
――ルカがブロンドの乙女に会いに行っている今がチャンス。
前から気になっていたあの箱の中を確認出来るかもしれない。
はじめて見つけた時は、箱ではなく本だと思っていた。ケースに入った辞書のような……。
異国の文字が並ぶ分厚い本に挟まれて、ひっそりと、隠れるように。その箱は“そこにいた”。