かくりよ物語~陰陽師の末裔ですが、この度、神様の許嫁になりました~





 かくりよへ戻り、永遠桜の力をかりて真っ直ぐに弥生通りへと戻ると、ちょうど時雨さんと六花が店じまいをしているところだった。

 柳翠堂の看板の前には、今朝から外せない用事とやらで出かけていた翡翠の姿もある。どこかそわそわしているように見えるのは気のせいだろうか。

 ふとこちらに気づいた時雨さんが微笑み、遅れて私の姿を捉えたりっちゃんが、嬉しそうにぱっと顔を輝かせた。


「真澄ちゃま、おかーりっ!」

「おかえりなさい、皆さん」


 思いっきり抱きついてきたりっちゃんを受け止める。小さな体。温かい手。まるで花のような笑顔。思わず喉の奥が熱くなるのを感じて、私は頬を緩めた。


「ただいま」


 ──こうして、私の帰りを待ちわびてくれている人がいる。

 『おかえり』と迎えて『ただいま』の声を待ってくれる人がいる。

 この数日でそのことに気づいてしまったから、なおのことかくりよから離れられなくなっているのかもしれない。引き取ってくれたおじさんたちも幾度となく言ってくれた言葉のはずなのに、どうしてこんなにも泣きたくなるのか、わからないけれど。

 ツンと鼻の奥が痛んで、私は誤魔化すようにりっちゃんを抱きしめる。


「おかえり、真澄」

「……翡翠」

「どうした、そんな顔をして」


 慈しむようにそっと頬に触れた翡翠の手に、つい胸がトクンと音を立てる。

 ああほら、こうやって、まるで当たり前みたいに私の心配をするから。


「ずるいよ、もう」


 つー、と涙が頬を伝ってしまった。その場にいたみんなが驚いて、大袈裟なほどしどろもどろになるのを見ながら、私は泣き笑いを浮かべる。

 最近、どうにも涙腺が緩い。ここにきてからいつも胸が熱を持っていて、ほんの些細なことなのにすぐ泣きたくなってしまう。もう大人なのにどうしてくれようか。

 ひとり、そんな私の心をすべてわかっているかのような顔をした翡翠が、ふっと優しげに目を細め、ぽんと私の頭を撫でてくる。ここで焦らないあたり、本当に、厄介だ。

 変な神さまのくせに。最新機器使いこなしちゃう、現代っ子神さまのくせに。


「泣きたいときは泣けばいいさ。それが人の子の、最も愛するところだろう」

「なに、それ。どういう意味?」

「なに、深い意味などないさ。真澄は泣いていても可愛いなと思っただけで」

「っ、またそういうことを平気な顔で……」


 つい照れて突っかかりそうになるけれど、翡翠のいつになく柔らかな眼差しからは目を逸らせない。出会った時から私をこうして離れられなくしてくるのは、もしかして縁結びの神さまの力なのだろうか。


「……しかし騒がしいな。おちおち真澄を慰めてやることも出来ん」 


 幸せ、とか。温もり、とか。

 そういうものを触れた指先から私の中に直接流し込んでくるから、本当に困る。


「ったく、お嬢に泣かれるとかどんだけ嫌われてんだよ、坊主。許嫁とか絶対ウソっぱちだな? やっぱ攫ってきたんだろ。間違いねえな」

「まあまあ、浅葱さん。色々あるんですよ、翡翠にも」

「パパちゃま⁉ 真澄ちゃまをいじめたら、六花が許さないんだからね!」

「あらあら、ふふっ微笑ましいこと」

「真澄さまに気安く触れるなど……式神であるボクをさしおいて……」


 どんちゃか、どんちゃか。個性豊かすぎるメンバーに囲まれていたら、なんだかどんどん涙が溢れて、取り返しがつかなくなってきた。年甲斐もなくわんわん泣いていたら、周りのお店の人たちも何事かと顔を出し始める。


「ああもう、うるさい。散れ! 俺と真澄の時間を邪魔するな!」


 さすがにブチッとキレたらしい翡翠が、私を懐に引き寄せながら声を荒らげるが、いつものことながら誰も気にしない。茶化す声も冷やかしも止まらない。けれどその中に、確かに翡翠に対する愛情を感じるのはきっと気のせいじゃないだろう。

 この通りのみんなは、神さまだろうが妖怪だろうが仲が良い。

 そしてみんな、もれなく翡翠が大好きなのだ。

 ──夕暮れ時。空が橙から淡い藍に変わる頃、混じりあった空にはぽつぽつと小さな星が浮かんでいる。もうすぐ、陰の気を好む妖怪たちの時間だ。


「しゃーねえ、みんな今日は店を休んでうちに来い。こういう時は飲まねえとやってらんねえからな。いっちょお嬢の歓迎の宴といこうじゃねえか!」


 いったい何がやってられないのかは分からないけれど、辺りからヒューヒューと歓喜の声があがる。ここに住むあやかしたちの明るさは、それだけで一興、また一興だ。


「弥生通りの新しい仲間だ。みんな、今夜は気が済むまで飲めよ!」


 まだここに住むと決めたわけではないのに、もうやる気満々の浅葱さんの声にみんなはさらに沸き立った。どこからか、愉快な笛の音が響き始める。

 弥生通りのみんなが勢揃いで浅葱さんのお店へ歩きだす。百鬼夜行という言葉があるが、まさにそれに近い光景で、私はぽかんとしながら翡翠を見上げた。

 翡翠もまた、さっきまで怒っていたくせに口元には「やれやれ」と苦笑が浮かんでいる。
その目元は優しげで、またもやドキッと胸が高鳴った。


「真澄」


 私の視線に気づいた翡翠が「来い」と手を伸ばしてくる。

 隣には優雅に微笑む時雨さん。ちゃっかり私と手を繋ぐりっちゃん。そんなりっちゃんに静かなライバル心を向けるコハク。ほうっと浅葱さんに見惚れる姫鏡。

 こんなに騒がしいのに、なぜか翡翠の声は真っ直ぐ私の耳に届く。

 戸惑いながら翡翠の手をとると、突然カッと反応したりっちゃんが「パパちゃまはこっち!」と自分の反対側の手と繋ぎ直させた。気づけば、りっちゃんを挟んで手を繋ぐ形になっていた私と翡翠は、面食らいながら顔を見合わせる。


「あらまあ、三人とも本当の家族みたいね」


 誰かがふとそう笑い、みんなも笑った。

 ひとり満足そうなりっちゃんの横で、翡翠は不満そうにため息をつく。それでも振りほどこうとしないのだから、なんだかんだ翡翠は娘に甘い。

 なんだかおかしくて、私は声をあげて笑った。

 こんなふうに誰かと笑い合うなんて、本当に久しぶりだった。


「さてと、私たちも行こうか」


 ようやく途切れた涙を振り払って、歩き出す。

 夕暮れに伸びる影は多い方が温かいのだと、私は今日はじめて知った。




 ――そして、次の日。乙女の顔ではにかんだ姫鏡から「浅葱さんのところでお世話になることになりましたわ」と報告を受けたのは、言うまでもない。

◇肆巻◇ あと一歩に続く道





 その日、柳翠堂は珍しく朝からごたごたとザワついていた。

「どうにかしてくれよ、柳翠堂さん!」

「そう言われましても……とにかく落ち着いてください」

「落ち着いてなんかいられるか! このままだと村の農作物が全部枯れ果てちまう。それだけじゃない、子どももどんどん体調を崩してんだ。こんな一刻を争う事態だってのに、統隠局はちっとも動いてくれやしねえ。そんなの、もう柳翠堂さんに頼むしかねえだろ⁉ あんたら、『よろず屋』なんだから!」


 はたから聞いてれば、時雨さんの「そう言われましても」としか答えようのない案件だ。
いくらよろず屋とて、許容外の依頼は受けられないのだから。


「ったくどいつもこいつも……」


 統隠局というのは、かくりよを統制する機関だと少し前に教えてもらった。

 悪さをしたあやかしを捕らえ罰したり、この世界の秩序を保つためにさまざまな権利を持ったお偉い様方が、日々かくりよを守るために対策を講じているらしい。

 統隠局に所属するお偉い様、もといかくりよを代表する七人の官僚。実質かくりよでは彼らの身分が最高位であり、神であろうが妖怪であろうが官僚には逆らえないのだとか。

 そんな官僚のひとりが翡翠だと聞いたときは、さすがに目が飛び出しそうになった。

 だから前に『それなりの身分』と言っていたのか、と妙に納得したものである。たまにある『外せない用事』とやらも、どうやらこの統隠局絡みの仕事らしい。

 しかしそんな絶対的な統隠局に断られた挙句、その官僚が自ら営む柳翠堂に頼みにくるとは、またずいぶんと勇気がいる行為だよなあ、と思う。

 どうも遠方からの客は、柳翠堂の店主が統隠局の官僚だとは知らない者が多いのだ。

 まあそもそも、そんな権力を持った立場にいるにも関わらず「よろず屋」などという店を経営していること自体、ちょっとおかしな話なのだけれど。


「もういい、あんたじゃ話にならん! 店主を出してくれ! 今すぐだ!」

「ですが……良いのですか?」

「なにがだよ! いいから早く出しやがれ!」


 物腰が柔らかく優しい時雨さんが下手に出ているぶん、強気になった客たちはたいてい店主を出せと言ってくる。いつもの流れだ。

 最近は慣れてきたけれど、最初は私もびっくりしてしまったもので。


「すみません、真澄さん。翡翠を呼んできてもらってもいいですか?」

「それは構いませんけど……良いんですか?」


 店主である翡翠が直接依頼を受けると、客側が恐縮してしまって上手く話を進めることが出来ないために、あえて時雨さんが接客対応をしているのに。

 だいたいこの後の展開が想像出来るがゆえに、時雨さんの後ろで帳簿をめくりながら聞き耳をたてていた私は、小さくため息をつきながら一応確認する。


「お客様がこう仰られている以上、仕方がありません。どちらにしてもこの件は自分の手に負えませんから、あとは店主に任せるとしましょう」


 あんなに理不尽に怒鳴られても、時雨さんはちっともショックを受けた様子はない。
何事も慣れなのだな、と感心しつつ、私は部屋で事務仕事をしているだろう翡翠を呼びに行く。

 相変わらずだだっ広い屋敷なので、とにかく部屋まで遠い。

 ようやくたどり着き、外から声を掛けて部屋の中に入る。げっと足を止めた私に、振り返った翡翠が一瞬だけ気まずそうな顔をした。

 いつものことだけれど、あちこちに書類が積み上げられて散乱している室内。ゴミがあるわけではないので汚部屋とまではいかないものの、なかなかに足の踏み場がない。


「……また面倒な客がきたもんだな」


 私が用件を伝える前に、翡翠はため息混じりに呟いた。


「聞こえてた?」

「嫌味なくらいな」


 苦々しい口調の翡翠に苦笑する。

 確かに、あれだけ大声でまくしたてていたら、ここまで届いていても不思議じゃない。

 この調子だと私の部屋で昼寝中のりっちゃんが起きてしまいそうで、少し心配になる。

 まあ、そばにはコハクが付いてくれているから、なにかあればすぐに知らせてくれるだろうけど……。


「まったくマナーもへったくれもない客など、門前払いも同然なんだがな」


 翡翠はかったるそうに立ち上がると、私の横を通ってスタスタと廊下を歩いていく。

 片付けたいのは山々だが、あまり本人のいない中でいじるわけにもいかない。バランスを崩して倒れそうになっている書類をいくつか整えてから、私も後を追いかけた。

 店に戻ると、すでにお客さんと翡翠の交渉は始まっており、私は後ろで待機していた時雨さんの隣に並んだ。 ありがとうございます、という囁きに頷いて答える。

 ちなみに〝官僚〟が現れた瞬間に態度をころっと変えたらしいお客さんは、翡翠を前にしてさっきの態度はどこへやら、ガチゴチに固まってしまっていた。

 だから言ったのに……と私と時雨さんは顔を見合わせて、二人揃って嘆息してしまう。


「ですから、統隠局の方にもきちんと話は通ってますよ。放置しているわけでもありません。現在対策会議中だとお伝えしたはずですが」


 あまりに整った顔に浮かぶ不自然な営業スマイルが、なおのこと空気をひりつかせる。意図的なのかそうでないかは分からないが、やっぱり翡翠に接客は向かない。


「それはそうなんですけれども……官僚様、早急にどうにかしてくんねえとワシら村の住民みんな滅んじまいます。対策とかの段階じゃねえんですよ」


 その話の内容からはいったいどんな依頼なのか、私にはいまいち想像がつかない。
しかし、とにかくなにかが原因でどこかの村に『滅んでしまう』ほどの重大な被害が出ていることだけはわかった。先ほどの今にも殴りかかってきそうな勢いすらなくなれど、相当に切羽詰まっているのは伝わってくる。


「何度も言うように統隠局が対処するまで待って頂くのが最善だとは思いますが。まあ、一応こちらとしては、お金さえ頂ければご依頼を引き受けることは可能です」

「ほ、ほんとか⁉」

「ええ、この金額を出して頂けるならば」


 翡翠はそう言うと素早く電卓を叩く。その速さはただ者じゃない。この金額が目に入らぬかとばかりに客のもとへ差し出した翡翠は、いかにも面倒そうに欠伸を噛みしめる。

 お客様はと言えば、それを目にするがいなか目を見開いて大きくのけぞった。
今にも失神しそうなくらい真っ青になり、みるみる血の気が引いていく。さすがに気になってそうっと金額を覗き込み、すぐさま見なければ良かったと後悔した。

 ――ケタおかしくない……⁉

 均等に七つ並ぶ丸が、その非情さを淡々と物語っている。

 そりゃあ、いくら面倒な相手とはいえ、翡翠はお客相手に冗談をかますようなことはしないし、おそらく本当にこのくらいの金額が必要になるのだろうとは思う。

 とはいえ、さすがにこれは……。


「こんな金、あるわけねえ……」


 ──ですよね。


「ぼったぐりだと悪評を広められるのは御免なので補足致しますと、今回の件を解決するためには、まず大前提として、人間の術者に外注するという項目をクリアする必要があります。統隠局がすぐに動けないのもその問題があるからです」

「人間の、術者……?」


 ちらりとこちらへ向けられた視線にドキッとしながら、私はさっと翡翠の後ろへ身を引いた。どうもあやかしは、私が人の子だとすぐにわかってしまうらしい。


「穢れに穢れた瘴気を祓うのは、我々神でも難しい。瘴気というのはそれほど厄介なものなのです。あなただってご存知でしょう」

「そ、それは……」

「今の世では、まともに術が使える人間など数えるほどしかいない。しかもそんな人間が今回の件でかくりよの存在を知り、もしも悪用しようとしたら、村だけじゃなくかくりよ全体の危機になりかねないと統隠局は危惧しているのです。そんなリスクを背負って、ご依頼を受けると考えれば、この金額は妥当どころか安すぎるくらいだと思いませんか?」


 正論を述べているにしろ、ピクリとも崩れない笑顔がじわじわと恐怖を煽ってくる。

 しかし、話の内容は思っていた以上に深刻なものだった。


「でも、このままじゃ未来がねえ……ワシら座敷族が滅んじまう。子どもらが巣立てなくなっちまう」


 ぴくり、と翡翠の耳が動いた。



「──座敷族、だと……?」


 その声はあきらかに先ほどの営業用のものではない。いや、それどころか私がこれまで聞いた中で一番低い声だ。どうしたのかと私は身を乗り出す。


「……ああ、そうか。おまえは座敷村のやつか。てっきり瘴気の元がある枝垂れ村の方だと思っていたが」


 突然、声色と口調を変えた翡翠は、一瞬にしてその場の空気を凍りつかせてしまうくらいに冷気を孕んでいた。ひどく激しい怒りもこもっている。

 お客さんもさすがに驚いたようで「へえ……?」と間の抜けた声を出して、ぽかんと口を開けたまま固まってしまった。

 隣の時雨さんでさえ珍しく目を見張っていたが、凝視していたのは翡翠ではなく何故かお客さんの方だった。意味が分からない。座敷村とはなんなのだろう。


「枝垂れ村に比べれば、それほど被害は出ていないはずだ。それに、子どもだなんだと言ってはいるが、結局は古くからのしきたりに縛られたジジイ共ばかりの村だろう。今残ってる子供なんて、ほんの数人しかいないと報告が入っているが?」

「なっ……」


 あまりの翡翠の豹変ぶりに、私も呆気にとられてしまう。

 明らかに客に対する態度ではない。お客さんもみるみるうちに赤くなり、相手が官僚だということも忘れて声を荒げようとした──その時だった。


「……真澄ちゃまぁ? 六花とあそんでぇ」


 可愛らしい小さな声が、ピキンと凍りついた空間に場違いに響く。

 ぎょっとして振り向けば、奥の部屋でお昼寝をしていたはずのりっちゃんが、寝ぼけ眼のまま上がり框に立っていた。その後ろには、お世話を任せていたコハクの姿もある。申し訳なさそうな顔をして、コハクは肩をすくめた。

 りっちゃんはおぼつかない足で私の元までやってくると、ぎゅうっと腰に抱きついてくる。まだ寝ぼけているのか、寄りかかってくる小さな体を受け止め慌てて膝を折る。目線を合わせれば、今度は私の首に抱きついてきた。


「起きちゃったの?」

「すみません、真澄さま……。引き留めておくのも限界でした」

「ううん。ありがとうね、コハク」


 寝癖のついた小さな頭を撫でながら、そろりと翡翠の様子を窺う。
怒ってるかな、と思ったら、なぜかこれまでに見たことないくらい焦ったような表情を浮かべて、こちらを振り向いている翡翠。

 ──え、なんなの?

 目で何かを促してくるけれど、何を伝えたいのかいまいち汲み取れず眉を顰める。

 困惑する私よりも先に視線の意味に気づいたらしい時雨さんが、りっちゃんを素早く抱き上げ、奥の間に移動しようとした……刹那のことだった。

 数拍早く、お客様が思いがけないことを口にした。