かくりよ物語~陰陽師の末裔ですが、この度、神様の許嫁になりました~



「それはまた別問題です。……正直、まだあなたの事もちょっと疑ってるし……」

「……ぐさりとくるからやめてくれ」


 ほら、またそうやって迷子の子犬のような顔をする。


「まあどんな理由であれ、真澄がその気になってくれて嬉しいぞ。今後のことも焦って決める必要はないから、ゆっくりしていくといい。あくまで真澄のペースで」

「はい」

「ああ、ちなみにかくりよでもスマホは使えるから安心してくれ。もちろんうちはWiFi完備だし、向こうに着いたら荻野夫妻にはしばらく旅行でいないとでも伝えておけ」

「お、おばさんたちのことまで知ってるの?」


 さすがに驚いて敬語が抜けた。祖母のことだけでなく、まさか家庭環境までがっしりと把握されているのだろうか。それはいささか、受け入れがたい。

 やっぱり行くのやめようか、と踵を返しかけると、焦ったらしい翡翠さまに呼び止められる。完全に墓穴をほったというバツの悪そうな顔で「誤解だ」と首を横に振る。


「べ、別に、四六時中見守っていたわけじゃないぞ。だがおまえのことは弥生に頼まれていたから、その、たまにこっそりと様子をうかがっていただけで……まあたまに加護をつけたりはしたが、その程度のものだ」

「加護……」

「気にするな。大したことじゃない」


 そう言われると余計に気になるのが人のさがだ。


「それより真澄、俺に対してはもっと楽に接しろ。そうだな、とりあえず敬語はいらない。それから気軽に翡翠と呼んでくれ。おまえにはあまり敬われたくない」

「どういうことですか、それ。なんかすごく失礼な気がするんですけど」

「悪い意味ではなくてだな……。ほら、神とて元は人に創られたものだろう。神が偉いという概念も然りだ。ゆえに人は我らを敬い奉るわけだが、そもそも俺はおまえの……」

「おまえの?」


 はたと口をつぐんだ翡翠さまに怪訝な目を向ける。何かを言いかけて直前で思いとどまった、というような、いかにも『しくじった』と書いてある顔だ。


「……いや。さすがに天照大神あたりになればタメ口はきけないかもしれんが、少なくとも俺に対して気を遣う必要はない。単純に俺の心の問題だから。な、お願いだと思って」


 しどろもどろに目を泳がせながら眉尻を下げる様子は、とても神さまとは思えない。願いを受けとる側のはずの神さまから、まさか『お願い』されるなんて。

 なるほど。どうやらこの神さま、相当わかりやすい性格らしい。

 なんだかおかしくなってきて「ふふっ」と笑みが零れた。こんな神さまを相手にしていたら警戒心も薄れるというものだ。疑うのもばかばかしくなってしまう。

 くすくすと笑う私を見て、彼は面食らったように片眉を上げて目を瞬かせる。


「おい、なぜ笑う」

「う、ううん、だってなんか可愛くて」

「かわっ……おい真澄、俺は神だが、その前に『男』だ。可愛いという言葉は適切じゃない」

「うん、ごめん──翡翠」


 一瞬硬直した翡翠は、その直後、大げさなほど嬉しそうに微笑んだ。しかしすぐに恥ずかしくなったのか、わざとらしく咳払いすると気を取り直すように御霊石へ向き直る。


「さて、と、そうと決まればさっそく渡界だ。日が暮れる前に渡りたいからな」


 安房響神社の御霊石は盗難防止のために囲い柵がしてあるが、翡翠は気にもしていない。どのようにかくりよへ行くのかはわからないが、きっと柵の有無は関係ないんだろう。

 いよいよ高鳴る鼓動を抑えきれずにいると、淡く輝き出した翡翠がこちらを振り返った。


「準備は良いか。真澄」

「だ、大丈夫」

「よし。だがその前に……万が一、離れるとまずいからな」


 そう言いつつ、どこか気恥ずかしげに差し出された手。

 繋げという意味だと捉えるのに数秒かかる。


「あ、えっと、はい」


 普通に繋いだ方が良いと言ってくれれば良いのに、なんなのだろう。そのウブな男子高生のような照れ隠しは。なんだかこっちまで気恥ずかしさが移ってしまいながら、私は火照る顔をうつむけておずおずと手を重ねた。ひんやりと冷たい手。とても綺麗な指だ。

 その時、不意に靴に白いものがペタッとくっついているのが目に入った。思わず小さく悲鳴をあげたが、すぐにその正体に気づく。


「ってなんだ、白ヤモリちゃんか」

「ヤモリ?」

「どうしてこんなところに……」


 また私に付いてきてしまったのだろうか。

 仕方なく少し屈んで白ヤモリちゃんを手のひらに乗せると、翡翠が怪訝そうにこちらを見下ろした。白ヤモリちゃんを捉えると、翡翠は違和感に気づいたようにすっと目を細め、それから興味深そうに「ほう」と小さな声を落とす。


「……そいつは……」

「この子、昔から私についてまわってて。あ、特に危害はないんだけど……でも、かくりよにはさすがに連れて行けないよね」


 ただの旅行ではない。行き先はこの世界の裏側にある異界だ。それも人ならざるモノたちの住む場所。私はともかく、白ヤモリちゃんまで連れていくのはきっと難しいだろう。


「真澄は連れていきたいのか?」

「え、大丈夫なの?」

「ああ。たしかに異例ではあるが、その白ヤモリなら恐らく問題はない」


 人ではない白ヤモリちゃんまでかくりよへ……?

 まさか許可が降りるなんて思わず、私はしどろもどろに手の上に乗る白ヤモリちゃんを見下ろした。やけに力の籠った琥珀色の瞳が、こちらを一心に見つめてくる。


「だって。……どうする? ついてくる?」

 恐る恐る尋ねてみると、白ヤモリは私の袖を伝って肩までのぼり始めた。

 てっぺんに辿りついてからも少しの間もぞもぞと動いていたが、安定する位置を見つけたのか、今度はピタリと動かなくなる。どうやら肯定を示しているらしい。


「えっと、じゃあ一緒に行きます」


 耳の下あたりでぺたんと私の肩に張り付いている白ヤモリちゃんに翡翠は同情するような目を向けた。まるで気の毒だな、とでも言いたげに。


「そんな不遇にも関わらず、これほど律儀に……。やはり意思持ちか。となると、なるべく早めに処理した方が良いな。ふむ、どうするべきか」

「不遇? …………イシモチ?」

「いや、なんでもない。今はまだな。改めて考えるさ」


 どうやら翡翠にはなにかしら引っかかることがあるらしい。
そんな微妙な形で隠されているのも気になるけれど、神さまの考えなんて私にわかるはずもないので、はなから追及はやめておく。こういう引き際は大事だ。


「まあ無駄話もここまでにして……今度こそ行くぞ、真澄」


 ──かくりよへ。

 私と手を繋ぎ直した翡翠が、御霊石に向かって小声でなにか呟いた。

 その刹那、周囲の木々がザワッと騒がしくなる。けれどそれはすぐにぴたりと静まり、気づけば昨日と同じように時間が止まっていた。ひゅっと息を呑んで硬直した私を安心させるように、翡翠がよりしっかりと手を繋ぎなおしてくれる。


「──隠り世への門よ、今こそ開き給へ。
我、縁を司る神「翡翠」の名において、ここに開門を願い奉る──」


 次の瞬間、まるで翡翠の声が空中を泳ぐかのように一筋の黄金の光が私たちを大きく包み込んだ。直後、瞬きほどの一瞬の間に突如神々しい光をまといながら目の前に黄金の大門が現れる。

 思わず地面にひれ伏してしまいそうになるほどの圧。そのあまりの迫力に気圧されて、私は口をあんぐり開けたまま呆然と扉を見上げるしかない。

 そんな私の手を、先へ促すように翡翠が優しく引いた。


「行くぞ、真澄」

「う、うん……」


 〝人ならざるモノ〟が見えるという特殊な体質。

 いや、先祖から伝わる『賀茂家』の特殊な力を持って生まれてから、かれこれ二十数年。

 そんな私にとっても『かくりよ』という世界は未知に溢れた世界だ。

 この先どうなるかわからない。

 このまま進んで、本当に戻ってくることが出来るのかもわからない。

 けれど、不思議とひとつだけ確信があった。

 ──この先には、きっと私の探していたものがある。

 予感ともまた違う……そう、これはあの夢の続きだ。長いこと抜け落ちていた、ずっと探し続けていたパズルのピースが埋まるとき。それがきっと今なのだ。

 全身の気がめまぐるしく廻る。激しく訴えかけてくる。


『──抗え』


 私は竦みそうになる自分を鼓舞して、ようやく小さな一歩を踏み出した。


◇弐巻◇ 神さまは契約よりも恋をする






 私たちを包み込んでいた桜の花びらたちが散り視界が晴れた時、真っ先に目に飛び込んできたのは深い黄昏に暮れる空だった。淡いオレンジの中には大小いくつもの惑星が浮いている。私の知っている月らしきものもあるが、うつしよの月とは比べ物にならないくらいの大きさである。

 あまりの衝撃でその場に立ち尽くしていると、頭上で夢で出逢った桜の大樹が爽やかな風に乗ってさわさわと揺れた。数枚の花びらが四方に舞い踊る。

 高台に位置しているのか、桜の背景にはかくりよのすべてが一望出来た。全体的に緑が多く、色鮮やかな花が彩り、ところどころに集落のようなものが見える。ビルなどは一切見当たらない、見渡す限り、そのほとんどが豊かな自然に囲まれた世界。


「す、ごい」


 やっとのことで、ぽろりと、その一言が落ちた。

 桜の木に背中を預け急かすことなく私が再起動するのを待っていた翡翠は、ふっと小さく笑って隣に並んだ。金色の髪をさらさらと風に揺らしながら、空を見上げる。


「美しいところだろう、かくりよは」

「うん、予想してたのと全然違う……。もっとおどろおどろしいところかと思ってた」

「無理もない。人ならざるモノたちの世界といえば、誰だってそんなイメージを持つさ」


 だが、と翡翠は穏やかな声音のまま続ける。


「あやかしは基本的に人工物よりも自然を好むんだ。こういう原始的な美しさだけなら、うつしよとは比べ物にならない。……まあ昔は、うつしよもかくりよと同じくらい緑にあふれていたんだがな」


 どこか自慢げに、けれど少し切なそうに目を細めながら、翡翠はこちらを見下ろしてくる。


「おまえに、いつかこの景色を見せてやりたいと思っていた。向こうではずっと息が詰まっていたようだし、まあ気分転換くらいにはなるだろう?」


 さあ行こうか、と踵を返した翡翠を慌てて追いかける。首をもたげて見上げるほど大きくそびえる朱い鳥居を抜けて、底が見えない石段をとぼとぼと降りていく。


「あの……どこへ向かってるの? この階段、いったいどこまで続いて──」

「怖がらなくてもいい。かくりよとは常にそういうものだ。惑い、惑われ、揺らぎの先に道がある。正解も不正解もないのさ。時にここは、永遠桜の力で目的の場所へと導いてくれる力があるからな。行き着く先は、惑うことなく俺の家だろうが」


 思わず足が止まりそうになる。それはつまりどういうことかと面食らった私に気づき、翡翠ははたと言葉足らずであったことに気づいたらしい。


「いや、なにも取って喰おうとかじゃないぞ」


 誰もそんなことは言っていないのに、翡翠は何を勘違いしたのか慌てて弁解する。


「先も言ったように、俺の本業はよろず屋だ。家も同じ場所にある。俺だけでなく居候もいるし、そいつらはおそらく真澄と相性が良いから心配しなくていい」

「は、はあ……」


 いや、たしかにそういう心配もあったけれど、そういうことではなく。

 私が心配になったのは、あやかしたちの世界で突然どこの馬の骨ともわからない人の子が現れたら驚くのではないかとか、そもそも単純に迷惑なのではないかと思ったからだ。


「今回は予定外の渡界だったから、ろくに説明もせず放り出して来てしまってな。真澄には悪いが、なるべく寄り道せずに帰りたい。案内はまた後日……」

「……え? ちょっと待って。じゃあもしかして昨日、帰ってない、の?」


 思わず遮ると、翡翠はぱちくりと数回瞬きをした後、とたんにバツの悪そうな顔になる。
どうやら墓穴を掘ったらしい。渋柿を食べたような表情で頬を掻きながら苦笑を零す。


「──元よりうつしよでの仕事は数件ほどたまっていた。遠出だし、受注時期はもう少し先だったのだが……どうせならと予定を変更して先に済ませてきただけの話さ」


 つまり私がうんうんと悩んでいた間、翡翠はずっとよろず屋の仕事に勤しんでいたということだろうか。仕事熱心というか、なんというか──。


「まあ気にするな。どちらかと言えば、空が耽ける前にここを出たいという方が強い。真澄も霊力が強いから感じるだろう、ここの濃い気を」

「あ……やっぱり気のせいじゃなかったんだ。どんどん息がしづらくなってるような」


 安房響神社とはまた違った、どこかねっとりと絡みついてくるような重苦しい気だ。


「かくりよは日が落ちると共に陽より陰の気が濃くなっていく特徴がある。陰の気を好む妖怪に対し、神々や人は陽の気に属する生き物だからな。正直、俺もあまり肌に合わない」

「翡翠も? かくりよで暮らすの辛くないの?」


 少しだけ驚いて訊ねると、翡翠はひょいっと肩をすくめて見せた。


「なに、人の子と同じで夜は寝るだけさ。──ま、そうはいっても普通に昼間でも活動している妖怪はいるし、夜な夜な酒を飲み歩いている神もいる。結局は好みの問題なんだろう」

「そうなんだ。なんか、人とあんまり変わんないんだね。ちょっと不思議」

「……とはいえ、真澄は慣れていないからな。その霊力の強さなら大丈夫だとは思うが、用心しておくに越したことはない。なにか変化があったらすぐに言えよ」


 脅されるようなことを言われると、とたんに周囲が気味の悪いものに思えてくる。

 翡翠にそんなつもりはないとわかってはいるけれど、シンと静まり返った空気に耐えきれず私は翡翠との距離を詰めた。隣に並んで、そわそわと視線だけで辺りを見回す。

 ──大丈夫、さっきと何も変わってない、よね。


「よ、よろず屋の仕事って、どんな内容なの?」


 気を紛らわせるべく尋ねてみると、翡翠は「そうだな」と少し考えるように腕を組んだ。


「まあ、その名の通り、何でも。こちらの手に及ぶものなら基本的にはどんな依頼でも受け付ける。それこそうつしよでの買い物や壊れた扉の修理を始めとして、探偵と同じような調査系の依頼もあれば、時に護衛などの体を張った仕事もするな」

「へえ、ほんとにいろいろ……」


 思った以上の答えが返ってきて、何だか薄い反応を示してしまった。

 いや、確かにすごいけど、どうして──。


「今、なんで神さまがそんなことを、とか思っただろう?」


 考えていたことをずばり指摘されて、私はギクッと肩を跳ねさせる。なぜわかったのかと戸惑いながら翡翠を見上げれば、おかしそうな笑みが返ってきた。


「なぜもなにも顔に書いてある。しかしわかりやすいな。素直なのは良い事だが」

「……それ、翡翠に言われたくない……」


 私よりもよっぽどわかりやすい反応をするくせに、自分のことは気づいていないのだろうか。現に今も「なんのことだ?」ときょとんと目を瞬かせて首を捻っている翡翠に、ついため息をつきたくなってしまう。


 ──ほんと、変な神さま……。

 立場上、空気を読んだり相手に合わせたりするのは得意なはずだった。なのに、翡翠といるとどうも調子が狂う。わずかながら胸の奥に灯る熱いものを抑えるように息を吐いて、私は首を横に振った。振り回されるな、と自分に言い聞かせる。

 惑わされちゃいけない。いくら神さまでも人ならざるモノたちと変わりないのだから。


「……まったく、素直なら素直らしく怖いと言えばいいのに。それは出来ないのか?」

「えっ?」


 いつの間にか胸の前で握りしめていたらしい手を攫うように掬い取られる。


「慣れないところで不安な気持ちもわかるが、心配しなくても俺がいる限り怖い思いはさせないと約束する。なにがあっても守ってやるから大船に乗ったつもりでいればいい」

「っ……」


 まるで子供を相手にするようにぽんと頭を撫でられて、思わず体が硬直した。

 しかし一方で、鼓膜を揺らす低い翡翠の声がガチゴチになっていた私の心をやんわりと優しく包み込んで解していく。戸惑ってしまうのは、きっと慣れていないからだろう。

 ただ、そう、昨日も思ったのだ。

 どうして翡翠の声は、こんなにも心がほっとするんだろう、と。


「さて、そろそろか」


 カランと石段を叩く下駄の子気味良い音と共に立ち止まり、翡翠が準備は良いかと尋ねるようにこちらへ視線を落としてきた。

 気づけば辺りに鬱蒼と濃い霧がたちこめ、すぐ隣にいる翡翠の顔さえもはっきり見えなくなっている。不安に駆られる私を見越したように、翡翠は「大丈夫だ」と囁くと、そっと手をひいて先へ促した。


 ──かくりよ。

 思わず足が止まりそうになる。けれど、私の背中を押すように肩の上でじっとしていた白ヤモリちゃんが口先で耳をつついてきてハッとした。

 私ってそんなにわかりやすいだろうか。翡翠だけでなく、白ヤモリちゃんにまで心の中を見透かされているような気がする。

 白ヤモリちゃんを手のひらに乗せて、思わず私は苦笑した。


「いつもありがとう。大丈夫、ちゃんと進むよ」


 喋れなくても、ちゃんと伝わる。これまで何度もこの子には救われてきた。

 意を決して足を踏み出すと、私たちをまとっていた霧が真っ直ぐに前へと流れ始めた。まるで吸い込まれるように、いや導かれるように。その流れに乗ってただ前へと歩いていく。

 次第に薄くなってきた霧の先に、淡いオレンジの灯りが見えてきた。胸の鼓動が少しずつ早まる。もう少しで出口──引き返すという選択肢はない。

 こくりと唾を飲み込んだ刹那、流れていた霧がふわっと空気に溶けるように晴れた。

 まず目に映ったのは、大通りを挟むように続く灯篭の優しい橙の灯。立ち並ぶのは江戸時代のような平屋の家屋。いつか幼い頃に見た小さな神社で催されていたお祭りのように、笛の音と混ざり合って明るく楽しそうな声があちこちから聞こえてくる。


「――それでは改めて。都郷へようこそ、真澄」

「都郷……?」

「かくりよの中心部にあたる区域のことをそう呼ぶんだ。都郷では、神や妖怪に関係なく皆が同じ立場で平等に暮らしている。まあここは都郷のなかでも最端部だが、かくりよのなかでもトップクラスで治安が良い場所だ。なにも心配はいらない」


 俺の店もここにあるしな、と続けた翡翠は、どこまでも続いているかのように見える長い通りをゆっくりと進み始めた。慌てて追いかけて、はぐれないように翡翠の着物の袖を掴む。


「──不安か?」


 可笑しそうに翡翠がこちらを振り向く。


「い、いや、あの……」


 つい、とは言えない。


「大丈夫だ。都郷の中でもこの通り──通称、弥生通りは俺の管轄下にある。俺と共にいる限り真澄に手を出せる者はいないさ。そんなことをすれば、あっという間にお縄だからな」


 管轄下、という言葉も引っかかったけれど、それよりも突然出てきた祖母の名前に驚いた。
私の反応を予想していたのか、翡翠は「ああ」と少し寂しそうに頷く。


「その通り、ここはかつて弥生がかくりよで過ごしていた時に住んでいた場所だ。ちなみに俺の店──『柳翠堂』も、もとは弥生から引き継いだものだぞ」

「えっ、おばあちゃん、かくりよでお店やってたの……⁉」


 そんなことは一度も聞いたことがない。あまりに仰天して、いつぶりかわからないくらいの大声を上げてしまう。その声にがやがやしていた通りがピタッと静かになった。

 しまった、と口をおさえるが時すでに遅し。本能的に逃げなきゃと思ってしまうのは、長年の経験上だ。『彼ら』に視えていることが気づかれれば一環の終わり。それで何度危険な目に遭ってきたかわからない。

 けれど次の瞬間、思ってもみないことが起きた。