「……コハクがいなくちゃ、私は生きてこれなかったよ……」
もしもこれが運命だというのなら、私は心の底から運命を呪うだろう。
もしもさっき誰かが私にかけた言葉が、こうなることへの導きだったのなら、私はその声の主を心の底から憎むだろう。
でも、そんなのは言い訳だ。本当は、それほど大切な存在を失おうとしているのに、助ける方法がなにひとつ浮かばない自分が心の底から恨めしいのだ。
尽きようとしているひとつの命を前に、こんなにも無力なんて。
私は、また……失ってしまうのだろうか。
心の底から、大切な人を。
「──真澄」
翡翠がコハクを挟んで膝をつき、私の名前を呼んだ。
涙でぐしゃぐしゃになり、もうこれ以上かける言葉も出てこない私は、顔を上げることも出来ない。しかし翡翠は、めげずにふたたび私の名前を呼ぶ。
「コハクを、助けたいか」
「……え?」
幻聴だろうか。思いもよらない言葉が耳をついて、私はゆっくりと翡翠を見つめた。
「助け、られるの──?」
「真澄がそれを望み、コハクもまたそう望むのなら……ひとつだけ、手はある」
こんな状況においてなによりも朗報のはずなのに、翡翠の歯切れが悪い。その瞳は私と同じくらい揺れており、同時にどこか迷っているように見えた。
「コハクの中にはもうエネルギーとなる霊力が残っていない。人の子の身体を維持し、その歪な魂を救うには新たなエネルギー源が必要になる」
「……新たな……」
「そうだ。式神であるコハクを唯一助けられるのは、正式な主である真澄だけ。──すなわち、繋がりの根源である魂を分かち合えるのも、真澄だけだ」
魂を、分かち合う?
言葉の意味がわからず、私は戸惑ってコハクを見つめる。もうほとんど消えかかっているコハクは、聞こえているのかいないのか、わずかに瞼を揺らしただけだった。
「式神の種類には二つある。ひとつめは、なにかしらの個体を持ち契約をして式神となるもの。……ふたつめは、魂の縁を結び、それを共有することで生まれる式神だ。後者の方法を使えば、コハクを救うことが出来るかもしれん」
「魂の縁を、結ぶ?」
「ふたつの魂をひとつのものとして共有するんだ。この世界で最も強力な主従関係と言ってもいい。この方法を行えば、おまえたちはその身体に宿る魂と霊力を互いに分かち合い、文字通り死ぬまで……生涯を共に生きていくことになる」
翡翠の言葉がなにを示すのか。なにを危惧しているのか理解するのに時間がかかった。
「……離れたくても離れられなくなる。どちらかが死ねば、もう片方も死ぬんだ」
それが魂を共有する、ということ。私の命を丸ごと、コハクに預けるということ。
「言っておくが、この縁を結ぶものなど千年の時の中でもほぼ存在しない。人の子と妖では時の流れもその価値も大きく異なるゆえ、寿命の短い人と繋がり命の起源を無駄にする妖などいるはずもないからな。しかも、この方法は半ば禁忌だ。リスクが大きすぎる」
魂の相性が悪ければ、最悪両方の魂が消滅してしまうかもしれない。
縁が上手く結ばれなければ、どちらかの記憶がなくなってしまうかもしれない。
どちらも本気で魂が重なることを望み願わなければ、決して果たされることはない。
それでもやるか、と翡翠は訊いた。強がりも嘘も許さない、という目で。
だけど、私は一切、迷うことなどなかった。
「──やるよ」
考えるまでもない。
コハクを救えるのなら、私はたとえ魂でも差し出せる。
私のために命をかけてくれたコハクのためなら、私はなんだってする。
「コハクに、この世界の綺麗なものをもっと見せてあげたい。もっといろいろな気持ちを知ってほしい。幸せをもっともっと感じてほしい。たとえコハクがコハクでなくなっても、私はそう望むし、心から願うよ。だってコハクは、私のたったひとりの家族だから」
これから先もずっと、死ぬまで一緒に生きていけるのなら──本望だ。
だって、生まれた時からずっと一緒だったのだから。
私の決意を聞いた翡翠は、けれどもどこかわかっていたような顔をした。ひとつ息を吐いて少し寂しそうに微笑む。それはいつだか『真澄には敵わない』と言った時の表情で。
「……まったく、妬けるな」
「っ、翡翠」
「構わん。おまえたちの絆が強いことくらい、最初から分かっていた」
私とコハクが繋いだ手に自らの手をそっと被せ、翡翠はゆっくりと瞼を閉じる。
「──心配しなくていい。俺は縁結びの神だ。その誇りと矜持にかけて必ず成功させる。……俺だって、こんなところでみすみす愛する許嫁を失うわけにはいかないんだ。真澄も、そして真澄にとって大切な存在であるコハクも、必ず無事に救って見せるさ」
そう告げるや否や、眩い光の糸が幾重にも重なり私たち三人を包み込んだ。
意識が遠のく。頬に流れていた涙が光に巻き取られて消えていく。
翡翠の糸はまるでお日様のように暖かくて、深い海の底のように冷たい。
──…………繋ぎ、繋がれ、やがてひとつになる。
幸せも優しさも悲しみも辛さも、私たちが日々心に生み出している感情の全てを繋げていく。心地良いような温もりと、もう二度と戻れないような恐怖が入り交じって、意識が高い高い空の上へと登っていく。そのさなか、私はつかの間、翡翠とコハクの心に触れた。
「……ありがとう」
きっとこのさき生きていく時間の全てに、私は想いを寄せるのだろう。
この世に生きた奇跡を、誰かと結ばれる縁を、もう見失わないように。
ひとつの想いに下した決断を祝福するように、光の中でこちらに手を伸ばしたコハクがふわりと微笑んだような気がした。
◇エピローグ◇
◇
「ここにいたんだ、翡翠」
夜の帳がおり、澄んだ空気が夏のからりとした風を運んでくる。庭の池には、ふわふわと淡い光を放った蛍が飛び、時折落ちるししおどしのカロンと軽やかな音が耳に心地よい。
先日の戦いが夢であったかのような静けさが漂う縁側で、物憂げに腰をかけていた翡翠の姿を見つけ、私は声をかけた。ほんの少し、緊張を滲ませながら。
「……ああ、真澄か」
「なにしてるの?」
そっと隣に腰をおらした私を横目で見て、翡翠はなんでもないように首を振る。
「なんとなく、夜闇に浸りたくなっただけだ。ようやく統隠局の件も落ち着いたしな」
「一ヶ月の謹慎処分なのに?」
くすっと笑うと、翡翠はやりきれんとばかりに肩をすくめた。
「ま、謹慎と言いながら事務仕事は山のように回ってくる。明日からはいつも通り仕事だ」
「柳翠堂の依頼もいくつか溜まってるしね。でも……なんだかあんまり平和すぎて、この間のことが嘘みたいに思えてきちゃわない?」
あの後の数日間は怒涛の一言だった。
私が悪霊を祓い瘴気を浄化してしまったことで、焼き討ち決行を翌日に控えていた統隠局は大騒ぎ。翡翠と笹波様は決定に従わず、勝手な行動をしたと謹慎処分を受けた。
私や浅葱さんに関しては、主犯格ではあるけれど結果的には誰ひとり被害を受けることなく枝垂れ村も周辺地域も救った──わけなので、罪に問われることはなく、有難いことに簡単な取り調べだけで済んだ。まあその裏で、翡翠と笹波様が色々手引きしてくれていたのは知っているけれど、あえて触れない。
「なにはともあれ、やっぱり平和がいちばんだよね」
んー、と夜空に向かって大きく伸びをして、私はそのまま後ろに倒れる。ひんやりとした板の間が気持ちがいい。そろそろ本格的な夏が到来しそうな予感だ。
「間違いないな」
「ねー……」
仰向けに寝っ転がりながら、目覚めた時のことを思い出す。
あのとき翡翠の縁結びの力で魂を共有した私とコハクは、一時的に意識を失った。
翡翠の宣言通り、無事に成功したと知ったのは目覚めてから数秒後。ぼうっとする頭で隣を見て、穏やかな寝息を立てて眠るコハクに気づいた私は、その場でまた泣いてしまった。
魂が結ばれた、といっても私自身の身体になにか変化が起きたわけじゃない。それはもちろんコハクに関しても同様で、幸いにも記憶や意思がなくなることもなかった。
そう、それは至って自然に──元からそうだったのではないかと思うほどすんなりと、私とコハクの魂は重なったのだ。翡翠いわく、運命や縁は侮れないらしい。
おかげで、誰ひとり欠けていない元の平穏な生活が戻ってきた。
もちろん背負っていくものはある。
これから先、私たちはいつだって一心同体。
私はコハクで、コハクは私。
主従を超えて繋がってしまったのだから、私たちがこれから共有していかなければならないものは以前と非にはならないだろう。
それでも、やっぱり私は自分の選択が間違っていたとは思わない。
あのとき──もしも翡翠が、私に手を差し伸べてくれなければ。
縁を繋ぐ力を貸してくれなければ、きっと私はもう二度と、このかくりよに足を踏み入れなかっただろうから。
どんな形であれ、大切な存在を失わずに済んだという事実は、なによりも私の心を支えてくれている。
きっとこれ以上、幸せなことはない。
「──あのね、翡翠」
そうして落ち着いたら話そうと思っていたことを切り出すため、やや強張りながらも口を開くと、思わぬことに翡翠が「待て」と強く遮った。その顔は何も聞きたくない、とでも言いたげに苦悶に歪んでいて、私は驚きながら起き上がる。
帰ってきてから、どことなくおかしいとは思っていた。
なんだか妙に私を避けているような気がするし、顔を合わせれば変に素っ気ない。てっきり後始末に追われて忙しいからだと思っていたのだが、この表情を見る限り違うようだ。
「どうしたの」
「……聞きたくないんだ」
「え」
もしかして、私が言おうとしていたことに気づいていたのだろうか。その時が来るまでは考えないようにしていたし、そんな素振りは見せていなかったと思うのだけれど。
「わかってる。心が狭いのは」
「ん? 心が狭い?」
ちょっと待って。翡翠はいったい何の話をしているのだろう。
なにか、とんでもなく盛大な誤解をしているような気がする。
「ああ……俺は、たしかに真澄の幸せを望んでいた。コハクを助けたのだって真澄が笑顔になる世界には、コハクが必要だと思ったからだ。だが、こう、どうにも受け入れられん。情けないのは承知だが、せめてもう少し待ってくれ。──失恋には慣れていないんだ」
思わず、私は翡翠を凝視した。
話の途中からまさかとは思っていたが、まさかのまさかだった。いったいなにがどうしてそんな話になってしまったのだろう。しばらくぽかんとしていた私だったが、改めて考えてみれば確かにそう勘違いする要因はたしかにあったな、と思い直す。
コハクもどさくさに紛れて『お慕い申して』とか言っていたような気がする。あのときは私も必死だったから、何を口走ったか正直あんまり覚えていないんだけど。
だけど、私とコハクは──そう、なんというか『そういう』関係ではないのだ。
確かにコハクは大切だ。他には代えられない。好きだし、愛している。……けれど、それはあくまで唯一無二の『家族』という意味にすぎない。少なくとも私にとっては。
コハクに関しては、まあそれ以外の……主人に対する忠誠心のようなものが独占欲に似た形で出てくることはあるものの、主従関係であることに変わりはない。むしろ、こうして一心同体のような状態になってしまった今では、変に嫉妬する必要もないだろう。
私はコハク、コハクは私──文字通り、一心同体と言っても過言ではないのだから。
「えぇ……っと」
完全に勘違いをこじらせてしまっている翡翠。
なんと声をかけるべきなのか迷って、私はもう一度、ごろんと仰向けになった。
軒の入り組んだ屋根組をじっとり見つめて、しばし考えてから小さく頷く。
「翡翠」
「…………」
「ねえ翡翠ってば。あの……あ、私の顔になんかついてない?」
「……顔? なんだ、虫か?」
なんのことだと困惑しながら振り返り、翡翠は怪訝そうに寝転がる私を覗き込む。
「別になんもついてな──」
そんな翡翠の首に、私は思い切ってぎゅっと手を回した。ホールド作戦である。
「な、なんだ? ちょ、真澄、手を離せ。近っ……」
身動きが取れなくなって、翡翠は間近にある私の顔に驚いたのか、大袈裟に目を泳がせる。
さすがに焦りすぎた。長い時を生きてきた神さまとは思えない初心な反応に、つい笑ってしまいそうになる。本当に、びっくりするほどわかりやすい。
けれど、負けず劣らず自分の頬が火照っていることにも気づいていた。
「……聞いて。翡翠、私のことずっと守ってくれるって言ったよね?」
「あ? ああ……まあ、それは言ったが」
「なら、そう簡単に諦めないで。……本当に伝えても良いのか不安になるから」
いつかの夢の中で、翡翠は私に告げた。
──必ず迎えに行く、と。
そしてここに来た時、翡翠は私に誓った。
──生涯おまえを守り抜く、と。
出逢った頃から、翡翠は各紙もせずに私を好きだと言ってくれていた。
優しさから生まれる厳しい言葉に泣いたこともあったけれど、全て含めて心の底から私を想ってくれているからこそ。それは、やっぱり愛情だった。
私をあの途方もなく孤独な暗闇から掬い上げ、ただ真っ直ぐに私を大切にしてくれる翡翠に、渇き切った心で温もりを求めていた私が堕ちないわけがなかったのだ。
翡翠の銀の瞳が夜闇に浮かんで、戸惑いの色を揺らす。その中に、隠しきれない熱が紛れていることに気づかないはずもない。私たちはずっと見て見ぬふりをしてきたけれど。
「──私、翡翠が好きだよ」
結局、それ以上の言葉は見つからなかった。
大きく目を見開いた翡翠は、反射的に体を引こうとして、しかしホールドされていたのを忘れていたのか大きく体勢を崩す。不可抗力ながら私の上に覆い被さるように肘をつき、さらに近くなった私へ視線を落として、翡翠はなぜか切なそうに眉間を寄せた。
「……い、ま……今、好きって言ったか?」
「うん、言ったよ」
「……俺の嫁になるって意味の、好きなんだろうな?」
「当然」
今さらという思いも正直ある。
翡翠だって本当は、私の中に芽生えていた気持ちには気づいていたのではないだろうか。いや縁結びの神さまなんだから、むしろ気づいてほしい。
なんにしろ、私はもう後戻り出来ないくらい、この神様に囚われてしまっているのだから。
「あのね、私、翡翠のお嫁さんになりたい」
ようやく想いを口にできた嬉しさから、私は照れながらもはにかんだ。
私が誰かのお嫁さんになるなんて、この二十三年間考えたこともなかったのに、人生なにがあるかわからない。
こうして出逢えたのは運命なのかもしれないし、偶然なのかもしれないけれど、私たちの間に生まれた縁はきっと最初から繋がっていたんだろう。
縁結びを司る翡翠が繋ぐまでもなく。
「──俺も、真澄が好きだ」
いいか、と訊ねられ、頷いた。翡翠の端麗な顔がさらに近づき、そっと唇が重なる。
優しい、ただ触れるだけのキス。
それでも触れた先から熱を帯びて、全身に心地の良い甘みが全身に伝わっていく。
「あー! チューしてるー!」
──なんて時に、そんなはしゃいだ声が響いたものだから。
私と翡翠は飛び上がり、あんまり慌てすぎてそのままふたりして中庭へ転がった。
ゴデンッと鈍い音が響き、体に衝撃が走ったけれど、翡翠が下敷きになってくれたおかげで痛みはない。
「だ……大丈夫か、真澄」
「う、うん、ありがとう」
声の響いた方を見れば、時雨さんにコハク、りっちゃんが三者三様の反応を示しながらこちらを見つめている。
私は一瞬にして、夜闇にも紛れないほど全身真っ赤に染まった。
「ようやく、と言ったところですかね。やれやれ」
「うぅっ……真澄さま……どうかボクを捨てないでくださいね」
「六花も、六花もするー!」
「ちょ、まっ、りっちゃんあぶなっ」
トタタッと廊下を走って一瞬の躊躇もなく縁側からこちらに飛び跳ねてきた娘を、慌てて体を起こした翡翠がなんとか受け止めた。
怪我をしなかったことにホッと胸を撫でおろす。
「ねー、パパ?」
「おまえな、六花……ってパパぁ?」
いつの間にか『ちゃま』が抜けていることに面食らい、私と翡翠は顔を見合わせる。
「六花もパパのこと好きだから、ちゅーしてあげるね」
そう言うと、りっちゃんは翡翠の頬に嬉しそうに唇を押し当てた。可愛い。
さらに混乱したように「パパ……?」と目を白黒させる翡翠から苦笑しながらりっちゃんを受け取ると、今度は私にも愛のこもったキスをしてくれる。
「ママもだいすき!」
んふふと笑いながら、私の首にぎゅっと抱きついてくる。
私もりっちゃんの頬にキスを返しながら、ちょっとしたいたずら心で翡翠を見る。
「私たちの娘は可愛いですね。──旦那様?」
「っ──!」
その瞬間かあっと頬を染めた翡翠も、娘と負けず劣らず可愛い旦那様決定だ。
私はくすくすと笑いながら、今にも手が届きそうな空を見上げた。
昔は果てしなく遠くて、どうしたら空の上にいけるのか考えて見上げていた空を、今はまったく別の気持ちで見上げている。
そんな私は今、きっと幸せのさなかにいるんだろう。
──この世界は、美しい。
そう素直に思えるくらいには。
「……ねえ、翡翠。月が綺麗だね」
どこからか飛んできた桜の花びらが、その言葉に頷くように舞いあがる。
──私の旦那様が、その意味に気づいて頬を染めるまであと数秒。