試験中は部活動禁止のため、旧校舎に人の姿はなかった。枝垂れ桜も夏の装いで、木々は青々と葉を茂らせている。

「小松さん、いくよ」
「うん」

 梅咲君が手のひらを差し出してきたので、私はそこに手を重ねた。ぎゅっと、温かい手に包まれて、いよいよだ、と小さく唾を飲んだ。

 初めてここで光る木と梅咲君を見た時のように、梅咲君がすう、と手を伸ばす。手を繋いでいるからなのか、前よりもうんと煌びやかな光が大地から湧き上がるようにして木を包み込んだ。

 光の向こうからあの時と同じ、天女風の従者たちが現れた。今更ながら、夢ではなかったのだと覚悟を決める。従者が撒いた花びらが梅の木に向かって絨毯のように敷き詰められ、私たちはその上を滑るように歩いた。地面を歩く感覚とは全然違い、重力をまるで感じない。

「眩しくなるから、目を閉じていた方がいい」
「あっ、うん」

 見るもの全てが初体験な私がきょろきょろしていたら、梅咲君がクスリと笑って言った。光の中に入ると、そこには満開の梅の花。一瞬で眩しさに耐えられなくなり、私はそこで目を閉じた。

「さあ、着いたよ」
「……わあ」

 目を閉じていたのは、ほんの少しの間だけだった。ゆっくり十、数えるか数えないかくらいの間である。そして、辿り着いたそこは、花嫁衣裳の色打掛のような百花繚乱の世界だった。

 四季も南北もないほどに地球上のすべての花が咲き乱れている。桜や梅はいわずもがな、図鑑やネットでしか見たことがないような南国の花と、大輪のユリや色とりどりのバラに、道端で咲くツユクサやタンポポまでが一緒に咲いているのである。美しいなんて言葉ではとても言い表せない、むせ返るほどの花の香りで気を失いそうになるほど、砂糖菓子のような甘い、甘い世界。

「皆へのお披露目という意味での婚礼の儀は、予定通り明後日に行うから、今日は本当に力を開放する儀式だけをするからね」
「わかったよ。それにしても、なんて綺麗……」
「人間としての命が尽きたら、ここで永遠に暮らすんだよ」
「本当に……私なんかでいいのかな」

 永遠、なんて言葉を聞いて、また尻込みしてしまうのを感じた。だって、どう考えても他にもっと似合いそうな綺麗な人がいるのだ。

「小松さんじゃなきゃ、ダメなんだよ」
「そうなのかな……なんか、自信無くなってきた。ってか元々ないけど」
「憶えてる? 小さいころ、僕が体弱かったこと」

 肩を竦める私に、梅咲君が静かに語りかけるように話す。

「……うん? 憶えてるよ。この間も話してくれたよね、人間界が合わなかったって」
「そう。小松さんを好きだって言った時に話したこと、本当は少し違うんだ」
「どういうこと?」
「小松さんが春を好きって言ってから意識した、ってところ」

 なんだろう。ここまできて本当は好きじゃないなんて言わないよね? 心が弱くなっているせいか、発想がネガティブになる。

「小松さんが花壇の世話をしたり、道端の小さな草花に話しかけたりしているのを、知っていたんだ」
「ああ……そんなところ見られてたんだ」

 ほぼ黒歴史だ。小学校ではそれで暗いとか気持ち悪いなんて言われて、友達を作れなかった。中学に上がってその辺りを少しマイルドにしたおかげで、真央と仲良くなれたのだ。

「僕は小松さんがああしていてくれたおかげで、少しずつ人間界の気に慣れることができたんだよ」
「えっ? そうなの?」
「うん。僕は本当に人間界の気が合わなくって、皆で頭を抱えていたんだ」

 知らなかった……そんなことがあったなんて。

「だけど転校して小松さんの気を感じるようになってから、ずいぶんと体が楽になってね。もちろんすぐに帰れる門が側にあるのも重要だったけど、それ以上に小松さんの気が本当に心地よくって」
「そう、だったんだ」
「うん。僕の中に小松さんの春を思う気持ちが注がれる度に、とろけそうになるほど幸せな気分になるんだ」

 私も。梅咲君の声を聞くたび、とろけそうになる。同じだったなんて、信じられないけど嬉しい。

「だから春が好きって言われてドキドキしたし、名前の意味じゃないって分かっても、心の中でずっと『春は僕なんだよ!』って言いたくてしかたなくって」

 梅咲君がまた角をポップコーン咲きにして照れている。こっちまで恥ずかしくなってくるけれど、そんなふうに想われていたなんて、嬉しすぎる。

「だから、僕はずっと小松さんが好きで、小松さんの優しさに触れていたくて、決められた魂なんてクソくらえだと思ってたんだ」
「あはは」
「だけどきっと、僕がどうしようもなく惹かれるそれ自体、小松さんが決められた特別な魂だからで、こうなる運命だったんだ、って、今ならわかる」
「もっと早く、角のこと梅咲君に訊けばよかったね」
「ほんとそれだよ!」
「あはは」

 従者の撒く花びらの上を通って、私たちは梅咲君の話を聞いているうちに小さな神殿のような祭壇に来ていた。いつの間にか梅咲君がこちらの服装に変わっていて、驚いたことに髪の色が銀髪で足元まで長く伸びている。私も天女風の従者をもっと上等にしたような和洋折衷系のドレスに身を包み、髪も色は黒いままだが、やはり足元までの長髪に変化していた。

 花びらを降りた梅咲君が、私に向き直って真剣な眼差しを向ける。指輪と同じ色の、深い、夜のような青い瞳に私が映る……

「人間界にいる間も、そのあとも、永遠に君を幸せにすると約束します」
「……はい」

 畏まった雰囲気につられて、私も敬語になる。

「改めて願う。どうか、僕の妻になってください!」
「はい!」

 繋いだ手から、梅咲君の緊張が伝わる。もう一方の手が、私の肩に触れ、梅咲君の長い銀糸のような髪が私の顔にかかる。え……儀式って、もしかして……?

 甘い花の香りが漂うこの世界にあっても、梅咲君の香りは格別に甘くて、私の目の前に影が差してその香りがいっそう近く、強くなる。えっと、こういう時、どうすれば……?

 ぎゅっと、目を閉じる。

 体温が近づくのがわかる。

 鼻先が触れ合う。

「ん……っ」

 唇が触れ合った瞬間、世界が湧きたつのがわかった。目を閉じていても、樹々がざわめき、枝葉が伸び、花が咲くのがわかった。梅咲君の体からあふれ出す気が、私をも包んで広がっていく。封じていた力が開放されたんだ。そう、思った。

 長い長い口づけをほどいた時、私は全身の力が抜けてかくんと腰をおとしそうになってしまった。梅咲君が私を強く抱き寄せる。ダメ! 今はこんなにドキドキしているのに。心臓の高鳴りが止んでくれない。

「……小松さん、なんでそんなに可愛いリアクションなの」
「え……っ」

 潤んだ瞳で言った梅咲君がまた顔を近づけて、私の返事を唇で奪った。