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「はあ……」
ため息を零しながら、夜道を歩く。
まだ働きはじめて間もないのに、百貨店で着物を新調するなんて、やっぱり無謀なんだろうか。
新人のお給料は決して多くはない。残業もないし、任される仕事も少ない、まだまだ半人前なのだから当然といえば当然なのだけれど。
他の同僚にも訊いてみると、親や姉、知人のお下がりを譲ってもらうという人も多かった。
仕方ない。自分のお金で買えないのだから、母のものを借りるしかないか。
「お母さん、あのね」
お味噌汁を飲み終えて、私は言った。
「なに?」
一瞬にご飯を食べていた母は顔を上げる。
「今度、星野百貨店の25周年記念パーティーがあるんだけど、その時に着ていく着物、お母さんの貸してほしいんだけど」
「あら、あそこももうそうなになるのねえ」
母は呑気にそんなことを言った。
「貸してもいいけど」
と、少し間を置いて私の目をじっと見て、
「でもあなた、本当は新しく買いたいんでしょう?」
「えっ、なんで」
「顔にそう書いてあるもの、わかるわよ」
母は少し笑って言った。
私はなんだか拍子抜けしてしまった。なんだ、言わなくてもお見通しだったんだ。
「でも、私のお給料じゃとても新品なんて買えないし……」
「いいわよ、半分くらい出してあげても」
「ええっ!?」
思ってもみない言葉に、私は思わず身を乗り出し、危うくお皿をひっくり返しそうになった。
「な、なんで?お母さんがそんなこと言うなんて……もしかしてどこか悪いの?」
「失礼ね。お母さんは無駄遣いはしないけど、必要な時にはちゃんとお金を出すわよ」
「お母さん……」
感動して思わず涙ぐむと、
「言っておくけど、あげるんじゃないわよ。貸すだけよ。後で返してもらうからね」
「ああ、そうですよね……」
「もうお仕事もしてる大人なんだから当然よね。お母さんはあなたの結婚資金だって貯めなきゃいけないのよ」
「そ、そうね、そういえばこの間麻美ちゃんがね……」
さらりと結婚話まで持ち出されてややこしくなりそうだったので、無理やり話題を他に逸らした。
自分の部屋に戻って、私は引き出しの奥から、子どもの頃に買ってもらった朱色の着物を出した。
小さくなって着られなくなった着物。だけどいい物だけあって、ほとんど悪くなっておらずまだまだ使えそうなくらいきれい。
百貨店で新しい着物を買うのは、あの時以来だった。
また、新しい着物を買えるんだ。
考えただけで、胸が躍りだす。
今度、仕事がお休みの日に、もう一度改めて呉服売り場を見に行こう。
滅多に買えない物だから、ゆっくり、時間をかけて、自分に一番似合う物を選ぶんだ。

