◯
子どもの頃、星野百貨店の呉服売り場に行ったことがあった。親戚のお姉さんの結婚式に出るため、新しい着物を買ってもらうことになったのだ。
滅多にない出来事に、私はは浮き足だった。
扉を開けて足を踏み入れた途端、視界いっぱいに広がる夢のような華やかな世界に、すごいすごいとはしゃいだ。
母に手を引かれて、初めて乗る昇降機。
ひらひらのスカートに丸い帽子のきれいなお姉さんに案内されて、呉服売り場へ。
「わあああ、すごいっ!」
見たこともない数の色とりどりの着物、美しい花や鳥の和風の柄、アールデコや洋風ゴシック調のモダンな柄に目を奪われた。
「あっこれ、きよちゃんが着てたのに似てる!」
きよちゃんとは小学校の同じ組の女の子で、お金持ちで、たくさん着物を持っている。いつもきれいな服を着ていていいなあ、と羨ましく思っていた。
特別な日にしか買ってもらえない香代子は、今日は絶対、とびきり可愛い着物を買うんだ、と心に決めていた。
「気になったものがあれば、着てみるといいよ」
突然声をかけられて、私はびっくりして振り向いた。
着物姿の男の人が、立っていた。
「いいんですか?」
「もちろん。幾つも試してみたほうが、本当に気に入ったものを選べるからね」
私は悩みに悩んで三つ気に入った着物を手に取り、試着をしてみて、特に気に入った朱色の着物を選んだ。
「うん、いいね。帯はこれはどうかな」
男の人が帯を巻いてくれて、試着室の鏡を見て、目を見開いた。憧れのモダンな着物をまとった女の子が、そこにいた。
「とても似合っているよ。特別な日にぴったりだ」
と彼は言った。
私、特別な日なんて言ったかな、と私は不思議に思ったけれど、それよりも目の前の新しい自分を見つめるのに夢中だった。
結婚式ではみんな華やかな装いに身を包み、私も「かわいい着物ね」と親戚のおばさんたちに褒めてもらって得意げだった。
白幕姿の親戚のお姉さんは、お姫様みたいにきれいだった。
それから学校に着て行って、特別な日の着物はすっかり普段着になった。
今ではもう小さくて着れないけれど、いい思い出として、引き出しに大切に仕舞っている。
今度、呉服売り場に行ってみようかな、と私は思った。普段は受け持ちの一階にいるけれど、休憩時間なんかにちょっと覗いてみてもいいかもしれない。
もう十年も前のことだから、あの男の人はいないかもしれないし、いても覚えていないかもしれないけれど。
もし会えたら、あの時はありがとうございましたって、そう言うんだ。