「さぁ、おあがり」
 狸の前にふたつのうつわを置く。小桜の言葉もろくに聞かない様子で、狸は餌に食いついた。がつがつと猫缶の中身を食べていく。
 小桜は、ほっとした。
 食べた。
 たたきの前。家に入るための段差に腰かけて小桜はそれを見守った。野良猫に餌をやっていたときと同じように、だ。
 ちらっと「これも給餌になるだろうか」と思ったけれど、今回だけの特別だと思うことにした。これほど弱っていたのだ。一回餌をやるのも駄目などと、それは非情すぎるだろう。
 餌を食べ、時折水を飲み、狸は五分ほどでぺろりとすべて平らげてしまった。
 ふぅ、と満足のため息が聞こえてきそうだった。
「美味しかったかい」
 もう言葉が理解されているものだと半ば確信していたので、小桜は尋ねた。
 まぁ狸が「はい」などと言うはずがないので、ただ、くりっとしたその目で小桜を見上げただけだった。
 けれどその目は確かに「美味しかった」と言っていた。
 小桜は、ふっと笑ってしまう。立ち上がった。
 触られるのではないか、と警戒してか。狸の体がちょっとこわばるのを感じたけれど、小桜は驚かせないように、そっと玄関の戸に手をかけた。からら、と開ける。
「さ、住まいへおかえり。もう鳥なんぞに襲われるんじゃないよ」
 もう一度、狸は小桜を見た。くりっとした瞳がなにを言いたいのか、小桜にはわからない。
 向こうにはこちらの言いたいことがわかっているようなのに、こちらからはわからないのが少し申し訳なくなった。
 しかしとりあえず、こちらの言いたいことは通じたようだ。狸はそろそろと玄関を抜けた。
 くるっと一回だけ振り返って、そして。
 たたっと地面を蹴って、行ってしまった。その足取りは、ぶつかってきそうになったときや、小桜のあとについてきたときとは比べ物にならないほどしっかりしていた。
 その後ろ姿を見ながら、小桜は、ほうっと息を吐き出していた。
 不思議な生き物だった、と思った。
 感じたように、狸……に近いのだろうけれど、ただの野生の狸ではないような気がした。
 鳥に追われていたり、ぎょろりとしていつつも愛嬌のある、おまけに意志ありげな瞳で見つめてきたり。おまけに言葉がわかるかのような様子すら見せていた。
 いや、狸じゃないならなんだって言うのさ。
 小桜は胸の中で言って、ちょっと首を振った。
 とりあえず、狸を助けることは出来たのだ。少し回復したようだったから、すぐに命にかかわるようなことはないはず。
 もう会うこともないかもしれないが、それでいいだろう。野生動物なのだったら、会わないほうが良いのだろうし。
 からりと玄関を閉めて、狸の残したうつわを取り上げる。
 そこで、おや、と思った。
 うつわの中に、なにか入っている。餌の入っていたほうに、だ。
 それはなにか、紙のようなものだった。けれどずいぶん古い紙らしい。黄ばんでいてぼろぼろであったし、和紙であることくらいしかわからない。
 おまけに、こんなものはさっきあっただろうかと小桜が手を伸ばし、指先が触れた瞬間、その古い紙のようなものは、ほろほろと崩れてしまったのだから。