祐介は猛スピードで、焼き鳥その他の料理を食べ、猛スピードで酒を飲んだ。3人の誰かから出た話で、「がっはっは」と声を大にして笑うことも忘れずに。つまりヤツは全力で食べたり飲んだりしながら、会話にもしっかりと参加した。酒を飲んだ後に出る「くー」とか「かー」とか言う声が、祐介も中年に差し掛かってる年齢なのかなと思ったりした。20歳くらいの時は二人でチェーン居酒屋行ってビール飲んでも「くー」みたいな、心底美味いぜ、という言葉っていうか音は出ることなく、
「うん、まあこの苦味が魅力だな…」
 なんて言って言葉を濁した。当時まだよく酒の本当の美味さなどまったく分かってなかった。まあ、30歳にもなってないのに、美味さが分かるのかって言うと微妙だけど、とりあえず当時、酒を飲むって行為そのものに満足していたころに比べると、明らかに飲む機会は増えたし、何よりも俺は飲んでほろ酔い気分になるのが好きだった。まあ俺の場合はほとんどがビール一辺倒だから泥酔することはそんなにないけど、たまに一緒に飲みに行った人が焼酎大好き人間で、その人がボトルを入れて延々と水割りでも飲もうものなら、俺は泥酔してさらに翌日の地獄の二日酔いを味わう羽目になる。
 二日酔いになると何が辛いって、まず頭が死ぬほど痛い。そしてぐらんぐらんする。それからもう一つ、身体中がだるくなる。そんなわけで俺はビールしか飲まない。出来る限り。
 そして祐介はスバヤク泥酔していった。ビール、焼酎、日本酒、ワインと立て続けに飲んで。もちろん焼き鳥やら何やらといった料理も口に入れていった。祐介は多種多様の酒を俺や藍の何倍もの速度で飲んでいった。そりゃ酔っ払うのも早いわけだ。一瞬、お前明日も仕事あるだろうにこんな飲んで大丈夫か、と思ったけどおそらく明日になればけろっとした顔をして行くだろう。5年ぶりに会う親友のたくましい姿を見て、そんなことを思った。それと同時に、翌日にはおそらくスーツをパリッと着て会社でバリバリ働いてる祐介を想像してみた。立派になったな。仕事か、それとも家族を持ったからなのか、祐介は明らかに強くなった。今のヤツは、知らない人から見たらただの酔っ払いに見えるだろう。だが、長い付き合いの俺にはよく分かった。祐介の、成長が。

 1軒目の焼き鳥屋さんは2時間の予約制だったので、俺らは比較的早い時間に店を出た。泥酔状態の祐介は千鳥足で歩きながら、
「まだ時間大丈夫だろ?もう一軒行こーぜ!」
 と早くも次の店を探しているようだった。俺は藍に聞いた、電車とか時間のことを。
「今日は終電までのつもりで最初から来たから、全然大丈夫だよー。あ、風気持ちいい」
 確かに心地良かった。俺と藍は泥酔状態にはなってないので、ほろ酔い気分で歩きながら夜風を楽しんだ。
「おい祐介、ところで2軒目はどうするよ」
「フツーのチェーン居酒屋でいいだろ」
 と、いうわけで全国的に展開している店に入った。こういうとこも、結構好きだ。
「いらっしゃいませー」
一軒目とは違い、活気のある声が俺らを迎え入れた。若者でワイワイガヤガヤしてるかと懸念されたが、ちゃんとした個室があったので安心してそこに案内してもらった。確かに、大きな座敷席では賑やかに宴会をしている大勢の若者がいた。さしずめ同窓会かなにかだろう。しかし個室にはちゃんと襖のような扉があり、それを閉めるとすっかり静かな空間になった。しかもさりげなくジャズがかかっていたりして、俺のイメージしていたチェーン居酒屋とはだいぶ違った。

 そんなことはおかまいなしに、祐介は店に来たんだから一刻も早く酒が飲みたそうな顔をしていた。そして間もなく店員がきて、3人分の注文をした。祐介は前の店でしこたま飲んだにも関わらず、日本酒を熱燗で一合頼んだ。どんだけ飲むんだ、コイツ。きっとまだまだ飲むんだろう。俺は例のごとくビールを、藍はカシスオレンジを頼んだ。
 飲み物が運ばれてきて、3人は改めて乾杯をした。
「ところでさあ、前の店では地元の思い出話を十分したわけじゃん。いろんな話出てきて、実際すげえ楽しかったし」
 と、祐介が切り出した。遂に、核心に迫る時が来たかな。祐介は続けた。
「2軒目に来たことだしさ、そろそろ現状とかを話さないか?それぞれのさ」
 ヒトのプライバシーに土足で上がり込み、しかもそれが全然悪い印象を与えない祐介でさえも、1軒目では気を遣ってたんだ。もちろん俺でなく、藍に。これが俺とのサシ飲みだったら、
「いよう、久しぶりだな。で、今なにやってんだ」
 と会って5秒くらいで、俺の現状を聞いたに違いない。その祐介がこれまでヤツなりに気を遣って来たんだろう。ところが泥酔状態になり、しかも2軒目ということもあって、もうどうでもよくなった結果、もっと立ち入った話がしたくなったんじゃないか。
そして祐介は、
「じゃあ俺から話すよ。俺は大学を卒業して今の会社にずっと勤めてる。それから結婚して子供がいるのは2人とも知ってるよな。このガキが2歳なんだけど、とにかくヤンチャでねー。元気すぎて時々心配になるよ」
 そう言って祐介は携帯の待ち受けにしている子どもの写真を俺らに見せた。そして今、家を買う計画を奥さんとしていることも話した。じゅ、順風満帆すぎるじゃねーか。もちろん仕事とか家庭での苦労もこれまでにあったんだろうけど、俺が東京に出て生きて来た時間と比べたら、それこそ雲泥の差だった。俺は、今の自分をどう話せばいいのか。そんなことを考えて頭が混乱した。
「へー、じゃあ祐介君は順調なのかあ」
 藍が返した。
「まあ、一応な」
 俺は地元の親友の活躍を喜びつつ、多少はショックも受けていた。そして少しだけ妬みもあったことは、認めざるを得ない。その思いを知ってか知らずか、藍が続けて話し始めた。
「私はね、東京に来て料理の専門に行ったことは、みんな知ってるよね」
 俺らは頷いた。藍は、中学の時から料理人になりたいと言っていた。
「それでね、その学校を卒業してからちょうど去年の今頃まで、ずっと同じ店で働いてたの。フランス料理のね、地域の人に愛されてる、そーいうお店」
「へえ、なんか良さそうな店だね。でも去年までってことはもうそこでは働いてないの?嫌なシェフがいたとか。ん、フランス料理の場合なんていうんだ、シェフか、コックか?」
「シェフだよ。ちなみにお菓子を作る人なんかはパティシエって言われてるよね。私が働いてたそのお店でも腕のいいパティシエがいたよ、なんでこんなにおいしいお菓子が作れるのかって思ったもん。あ、あとそこで働いてる人たちはみんないい人だったよ。そういうの大事だよね。小さなお店だったから10人もいなかったけど、みんな優しかったな。けど、そこのオーナーがもう結構な年齢で、去年お店をたたむことになったんだ。オーナーには息子さんが1人いるんだけど、その人はその人で会社勤めしてて、その会社辞められないって。だから…」
 そのあと藍はしゃべるのをやめ、少し自分の手元を見た。だから、店を閉めることに決めた。直接そう言ったわけではなかったが、藍がそう言おうとしたのは、十分伝わった。そして藍がその店を大事に思っていたことも、俺らにはよく分かった。その店を辞めるのは相当寂しかったんだろうな、俺は静かに聞くよ、そして藍の辛い思いを心の中で受け止めることにするよ。
「で、今はどうしてんだ。要するに、その店を辞めてからの1年」
 出た祐介。悪気なく人の世界にズケズケと踏み込んでくるヤツ。俺とは正反対なんだけど、なぜか昔っからウマが合うというか仲がいいんだよな。なんでだろ?考えたこともないし考えたところで明確な答えが出るわけでもないけど、まあ互いに持たない部分で惹かれあって繋がってるのかな。で、藍はというと、
「今は知り合いが紹介してくれた日本料理屋で働いてるよ。フランス料理とは全然ジャンルが変わっちゃったけど、もともとフランス料理そのものにこだわってたわけじゃなくて前のお店が魅力的だったから結果的にフランス料理をやることになったんだ。ていうか私、何年後になるか分からないけど、小料理屋さんをやりたいなと思ってるんだ。そのためには和食のことを勉強しておかないとね」
「小料理屋か、藍ならきっと和服の似合う美人女将になるよ」
 すかさず祐介がいいことを言った。チクショー、本当は俺もそういう気の利いた言葉が言いたかったのに。先を越された。俺は他にもっと気の利いた言葉を探してみたが思い浮かばなかったので、黙って祐介の言葉に頷いた。
「ありがとう、もしかなったらお店に来てね」
「絶対行く!」
 今度は俺が先陣を切って言った。簡単な言葉だったので咄嗟に出たが、藍がもし小料理屋を開いたあかつきには、真っ先に行こう。そして、ビールを思いっきり飲もう。待てよ、そもそも小料理屋にビールってあるのかな。ああいう店はやっぱり、日本酒かなあ。行ったことがないからわからないな。でも今夜で俺が「ビール党」だってことは十分伝わったはずだ。だから俺が行く時はビールを用意してもらって、ていうか俺が日本酒を飲めるようになっておこう。でカウンターの端に座って、藍が料理を作ったりお客さんと会話している様子を眺めて、時々こっちに来て、
「今日は来てくれてありがとう」
 とか言われたりして…なんて何年先か分からない出来事で妄想を膨らませ、ほろっと酔った心持ちを楽しんでいた。
 俺がそんなことを考えてると、
「タケオ、タケオったら。まったくぼけっとしちゃって。酔っ払ってるんじゃねーのか」
 祐介、お前にだけはその言葉、言われたくないよ。
「まあいいや、最後はお前の近況を聞こうじゃないの」
 なるほど、そういや俺だけまだだった。しかし、これだけしっかりと人生を歩んでいる二人のあとに、まだ何も掴めてない俺が話すのは結構プレッシャーだった。どうしよう、役者は全然売れてないしラーメン屋はバイトだし。しかし今やってることだから、俺はとにかくありのままの現状を二人に伝えようと思った。一度しか会わない相手ならばともかく、よく知ってる間柄だ。今更格好つけてもしょうがないし、というか、もともとそんなことの出来るキャラでもない。二人に比べて自分の人生が負けてる気がしたが、スギウラさんとの合言葉、
「今で出来ることをとにかくやる」
 が俺の心を後押しした。
「俺は、相変わらず役者をやってるよ。でも役者の方じゃ全然食えてないけどね。あと俺が入ってる小さな劇団には、それこそ夢だとか希望に満ち溢れて目がキラキラしてる二十歳くらいの連中が中心になってきたな。劇団を作った時はみんなが俺と同じくらいの歳だったんだけど、1人辞め2人辞め、今じゃ最年長の30歳の人についで2番目におっさんだよ」
 俺がおっさんと言ったので、二人とも軽く笑った。祐介も藍も俺の話に真剣に耳を傾けてくれてる。
「二十歳か、あのころってなぜかギラギラしてたよな。天下取ってやるぜー、みたいな感じで。取れるわけねえっつーの。で、次第に現実を知るっていうか、世間と折り合いをつけていくんだ。まあ、それがいいことか悪いことかわからんけど」
「とげとげしいものがとれて、みんな丸くなっていくよね」
 祐介の言葉に、藍が返した。確かに、劇団の若い連中が居酒屋で繰り広げてるような大激論には、到底参加する気になれない。意見の相違などで口喧嘩する彼らを見てると、よくもまあそんなエネルギーがあるものだなあと、なんとなく眺めている。
「で、ラーメン屋は順調なのか」
「順調。藍にはまだ話してないけど、役者の仕事だけじゃ当然生活出来ないから、夜はラーメン屋のバイトをやってる。週5回でね。いい店だよ、本当に。なにより、人がいい。普段は夜の8時から早朝5時くらいまで出てるんだけど、夜働いてる人たち、みんなすげえいい人。ただ芸人とか旅人とか、みんななんかやってる。だからラーメン屋を本業にしてる人はいないね。まあ俺もとりあえず役者だし。で、たまに昼番の人が休んだりするとそっちに回されることがあるかな。でも昼にはさ、店を立ち上げた人、つまり店主とかが働いてるんだけど、その店主もすげえいい人で、他の人もみんないい人。昼も夜もいい人たちで、だから人間関係には本当に恵まれたな。あ、あと仕事自体も面白いよ、やりがいあって」
「そーなんだあ。私もさっき言ったけど、人がいいって本当大事なことだよね。そんないいお店で働けて、このまま役者やめてラーメン屋さんで働いて行こうかなとか思ったりはしない?」
 藍に言われた。実際それは何度も思ったことだった。役者から身を引き、坪田店長の元で修行する…。そんな人生もありかなって。けどそんな時思い出すのは上京した目的だった。10年前、勢いにまかせて故郷を飛び出したのは、ラーメン屋を開業するためじゃなく、「寅さん」みたいな役者になりたかったからだ。だがその思いも今となっては風前の灯、もはや消えかかっていた。だから俺は藍の問いに対し、
「ラーメン屋になるっていう選択肢も考えたことはあったけどね。ていうか、今も時々考える。ただ俺はもう少し役者を頑張ってみるよ」
「そっかあ。うん、応援することしかできないけど、タケオ君がいい方向に行くと嬉しいな」
 そう言って、藍はじっと俺の目を見てくれた。ありがとう藍、俺は思わずそのつぶらな瞳に吸い込まれそうになったが、ぐっとこらえた。そして祐介はというと、泥酔してもはや半分眠っていた。おいおい、俺の話途中で寝るなよ。
「大丈夫?祐介君。明日も仕事でしょ」
「ダイジョブダイジョブ、祐介のことは心配しなくて。明日になればまたケロっとした顔して仕事してるだろうから」
「ふーん、強いんだね」
 藍が、祐介の酒の強さを言ったのか、それとも意思とかの精神面を言ったのかよく分からなかったけど、どちらにせよとりあえず頷いておいた。それからチラッと時計を見たら12時前になっていた。
「じゃあ今日はこのへんにしておくか。祐介もほとんど寝てるし」
 3人の終電時間まではもう少し余裕があったが、俺らは帰ることにした。泥酔してほぼ寝てる祐介を起こして。それから勘定は、祐介が2軒目はほとんど自分が飲んでたからヤツが全部払うと言ったが、それでは俺の立場がないので、自分も払うと言った。藍に千円だけ払ってもらい、残りを俺ら二人で割った。
 帰りは3人とも別方向だった。したがってそれぞれが違う電車に乗ることになる。店ではほとんど寝ていた祐介も、帰り道はしっかりとした足取りだった。やっぱ、つえーな。もう多分明日の仕事のことでも考えてるのかな。それとも、子供の寝顔かな。
「風が気持ちいいね」
 藍は先ほどにも同じことを言った。確かに、さっきといい今といい今日の夜風は最高だった。

「また絶対会おうね」
「おう」
「もちろん」
 藍が言った約束に、2人とも短い言葉で返した。楽しかった時間が終わるのが、きっとみんな寂しくてたまらなかったのだろう。帰り道は、自然と言葉数が減った。
 藍が最初に、改札口を通って電車に乗った。藍は別れ際、小走りになりながら何度も何度も振り返って俺らに手を振った。俺はその姿を見てたまらなく愛おしく、そして切なくなった。東京に出てきてから俺は、スギウラさんやオオハシのようにモテたわけじゃなかったが、彼女がいたことも何度かあった。けどいつも頭の片隅には藍がいて片時でさえも忘れたことはなかった。少し重いけど、本当にそう思っていた。だからといって、上京してから俺が藍にコンタクトを取ろうと思ったことはなかった。ただの一度も。しかし今日久しぶりに会ってみて、まだ自分が藍のことを好きなんだと感じた。そう思わざるをえなかった。藍はあの頃と変わることなく、だけどあの頃よりもっとキレイになっていた。まあ簡単に言うと、顔から声まで、すべてが俺のど真ん中に入るんだ、藍は。もちろん性格も。何もかもが俺の中では最高かつ、理想。ただ俺は、去っていく藍の後ろ姿をボーゼンと眺めるしか、手立てはなかった。

 そんな俺の気持ちを見透かしたように、祐介が言った。
「まあこれでお別れってわけじゃないんだし。藍も言ってたろう、『また会おう』って。だから安心しろよタケオ。俺もまたこの3人で会いたいよ」
 そう言って祐介は自分の改札へ向かった。別れ際に祐介は俺の肩に軽くパンチをした。そして「またな」と一言だけ残して去っていった。男同士がバイバイするときは、だいたいこんなもんだ。互いになんとなく照れ臭くって、簡単な言葉を残して去っていく。外国人みたいに熱い抱擁をするなんて、まずあり得ない。たとえ心の中は熱くっても。今夜の祐介もそんな風にして、静かに帰っていった。

 俺は帰りの電車に乗った。車内は酔客が多かった。つり革に掴まってこっくりこっくりしているスーツ姿の人や椅子の端っこで完全に寝ているOLっぽい人など様々だ。彼らは自分が降りる駅になったら目を覚ますのだろうか。それとも終点までそのまんま寝てるんだろうか。それで駅員さんに起こされるのかな。まあ、ほぼ泥酔したことがない俺にとっては、終電まで眠ってるなんて失態は犯しっこないけど。
 俺はほろ酔い気分だった。そしてドアの端っこに立ち、外の景色を眺めた。夜12時ということもあって、外はだいぶ暗かった。それもそうだろう、こんな時間ともなれば普通の家は寝てるはずだ。俺はまだ明かりの点いてる家や遠くの方に見えるコンビニの光を見て、こんな遅くまでご苦労様などというわけの分からないねぎらいの気持ちを抱いた。そして、今日のことを思い出した。楽しかったな、本当。二人とも大人になってたけど、そのまんまのところはそのまんまだったな。特に祐介は小1の時に出会ってからほとんど変わってない気がした。でもそれは、祐介だって会社での顔とか家での顔とかがあるだろう。俺だって演技中の自分とラーメン屋の自分は全然違う。違って当たり前だ。しかし、なにより今日3人が集まって「地元の顔」に戻れたことがすごく嬉しい。
 そして祐介はまた会えると言っていたが、俺は今日のように集まれることはもうないんじゃないかと思っていた。なんとなくでしかないがそういう予感がした。さっき藍が改札を抜けた後、何度も振り返って俺らに手を振ってる姿を思い返した。多分、藍とはもう会えなくなるんじゃないか。俺はあの時の彼女を見て、そんな予感めいたものを感じた。そして俺は電車の外を見ながら、不覚にも目に涙を溜めてしまった。いかんいかん。俺は必死に、涙がこぼれ落ちないようにした。

 次の夜、バイトだった。俺は昨晩藍と別れてから、藍の顔ばかりが頭に浮かんだ。そしてそれは、バイト中も。俺は心ここにあらずという感じだった。当然のごとくスギウラさんに突っ込まれた。
「タケオどうしたんだよ、そんなにボケっとしちゃって。まあ言わなくてもわかるけどな」
 嬉しそうだ。なんせスギウラさんやオオハシには一週間ずっとからかわれて来たんだから。
「で、どうだったんだ」
「なんつーか、最高でした。さらに可愛くなってて、ぐっと大人っぽくなってて」
「んなこたあ聞いてねーんだよ。とりあえずあのラッセル車みたい突進は見せなかったか」
 スギウラさんは「やから」みたいな感じで、なにがなんでも聞き出してやるという姿勢を示した。
「はい、まあ」
「よし。そんで次の約束は取り付けたのか」
「いや、それはまだ。ていうかもう会えないかもしんないです。これは俺の完全な推測っすけど」
「なんで」
 スギウラさんの顔が急に不満気になった。この人はこういう話が大好きなのだ。そして、俺の恋の行方を本気で心配している。俺は昨晩の出来事や、帰り際に感じた「予感めいたもの」をかいつまんで話した。スギウラさんは顎をひと撫でして、少し考えた後に言った。
「要するに、タケオの予感ではもう会えないんじゃないかと」
 俺は頷いて「ええ」とか「まあ」とかとりあえず肯定の言葉を返した。スギウラさんは、
「じゃ、まだ全然会えるって。祐介クンに頼んで3人で会ってもいいし、お前から軽く『飯いこう』って言えばいいよ。だって地元の友達だろ」
 そういった後にスギウラさんは少し、遠い目をした。きっと地元の仲良かった友達の顔でも浮かんでるのだろう。もしくは楽しい思い出でも。スギウラさんはもう15年くらい故郷に帰ってないそうだ。15年。いくら俺でも数年前に帰ったし、15年地元に帰らないという感覚は想像もつかなかった。そういえば以前に一度だけ聞いたことがあるが、スギウラさんの実家は結構な金持ちらしい。親父さんはもともと建設業をやっていて、一代で社長になったそうだ。建設業の他にもスーパーのオーナーとか駐車場の管理とか、まあ色々やっていて、家は有名な大工さんに建てさせた3階建て。とにかく地域でも相当デカイ家だという。それで、親父さんはスギウラさんを2代目にさせたかった。ちなみにスギウラさんは長男で、妹と弟がいるらしい。で、15年ほど前、この人は東京に来ることに決めたそうだ。スギウラさんを二代目にしようと思っていた親父さんは、それこそ怒り狂ったらしい。

 スギウラさんが上京する前の夜、親父さんは帰ってこなかったそうだ。おおかた近所の飲み屋でやけ酒でも飲んでるか、友達の家でも泊まってるんだろうと思って、スギウラさん一家も寝床についた。そして翌朝、スギウラさんが東京へ経とうとしたら親父さんが仁王立ちして、
「東京行って、俺はよく分からんが『笑い』を好きなだけやってこい。ただし、中途半端な気持ちでやるなよ。とりあえず売れるか、全力でやって売れなかったら諦めて帰ってこい。それまでは、家の敷居をまたがせん」
 そういって親父さんは玄関から出て行ったそうだ。つまりスギウラさんは勘当同然で家を出て来たそうである。親父さんにとってみれば「笑い」を仕事にしてるのは「ビートたけし」くらいしか知らなく、まったく未知の世界だったそうだ。そこに息子が挑戦する、しかも約束されてる2代目社長という肩書きを蹴ってまで。その話を聞かされた時はパニック状態になったかもしれない。上京前夜、親父さんが家を出て行ってなにをしていたか、俺はもちろんスギウラさんもいまだに分からないそうだ。だが、きっと親父さんは一晩中考えていたのだろう。「笑い」について、そして東京へ出て行く息子について。そして、親父さんが出した答えが「玄関で一言かける」んだったんじゃなかろうか。
 まあとにかく、勘当同然で出てきたんだから、そう簡単には帰れないだろう。ちなみに俺が役者を目指して東京に行くって言った時、母親はおろか父親までもが口を揃えて、
「あ、そう。まあとりあえず行ってらっしゃい」
 と、まるで近所のスーパーへ買い物に送り出すような気楽さだった。まあ、その方がこっちも随分と気が楽だったけど。これが、
「まあ大変!私たちの子が東京へ行ってしまうのよ。オイオイオイ(号泣)これから私たちはどうすればいいの。オイオイオイ(号泣)ねえ、あなた。オイオイオイ(大号泣)」
 なんて感動的な家族だったら家を出るのも逆に苦労するだろう。アッサリしていたのは、本当に出やすかった。

 話がだいぶズレてしまったが、「藍」のことだ。スギウラさんは色々考えてくれたが、
「まあいずれにしても、もう一回会わないことには話が進まないよな。2人であれ3人であれ。だって彼氏がいるかも知らねーんだろ」
 そうなんだ。あれだけ長い時間を共有して地元の話や現状を語り合ったにもかかわらず、藍に彼氏がいるのかどうか一切聞かなかったんだ。祐介の家族の話は聞いたけど。俺は自分の詰めの甘さを恥じた。それから、おそるおそるスギウラさんに聞いた。
「やっぱり彼氏がいるといないとじゃ動き方変わって来ますかね」
「そりゃそーだよ。そのコに彼氏がいた場合、送るメール一つにしたってだいぶ気を遣うからな。しかも諦めることも視野に入れなきゃなんないだろ。まあそう悲観するなって。諦めるのはサイアクの場合だよ」
 そのサイアクの状況を俺は想定した。俺が感じた「予感」の正体はまさしく彼氏かもしれない。待てよ、俺らも27歳だ。藍が結婚してたっておかしくはない年齢だ。祐介だって結婚してるし、ていうか子供もいるし。まあ藍にその心配はないか。だって指輪してなかったから。そもそも和食の修行を始めたばかりの彼女が結婚など。いや待てよ、藍はいずれ小料理屋さんをやりたいと言ってたな。その小料理屋さんというのが、つまりは藍の旦那さん(いるとしたら)と二人で切り盛りしていこうというんじゃないか。そう考えると合点がいく。薬指に指輪をはめてないのも料理の修行をしているからなんじゃないか。ああ、やっぱり藍は結婚しているのかもな。俺は悪い妄想をどんどんと膨らませた。またしても自分の悪い癖である熟考が出てしまった。どうして祐介みたいにズバッズバッと素早く動けないのか。たんに頭の回転の速さの違いだろうか。まあ、それが必ずしも正解とは思わないけど、時々羨ましくなるのは事実だ。そして、熟考していく俺をスギウラさんが止めた。 
「タケオ、タケオ。お前また悪い妄想膨らませてただろ。顔に影がさしてたぞ」
 さすがにスギウラさんはお見通しだった。俺が悪いことを考え出すと、「顔が曇る」とか「顔に影がさす」らしい。要は気持ちが顔に出やすいタイプなのだ。10代とか20代はじめに比べればだいぶ直したつもりだったが、まだまだらしい。
俺はすかさず、
「そんなことないっすよ。ちょっと他のこと考えてただけです」
 そう言って否定した。この悪い妄想が、杞憂に終わればいいと思った。スギウラさんは俺を軽く励ました。本当に軽ーく。
 そして、入り口を見た。今日は、すごい雨が降っている。
「雨がすげーなあ。今日は、お客さんもあんま来ないだろうなあ」
 スギウラさんの言う通り、雨の日は客の入りが少ない。特にこんな激しい雨の日は、なおさら。店のドアはいつも半分くらい空けてある。だからこういう日はビシャビシャと、雨音が店内に聞こえて来る。ところでドシャブリの日には、いつも小学校の帰り道を思い出してしまう。

 俺はいつも祐介と一緒に帰ったものだ。雨でも傘をさしながら。ところがなにせ雨がすごい時に傘はほとんど役に立たず、二人は次第に肩から足からずぶ濡れになった。そして俺らは傘を閉じて、全身ビショビショになりながら帰った。その後、木を蹴飛ばして葉っぱから落ちてくる水滴を浴びたり、膝ほどもあるような水たまりに思いっきり飛び込んだりして、帰るころには身体中泥んこになって母親にこっぴどく叱られたりした。ただ、最初は奇声をあげて怒っていた母親も、雨が降る度にそんな様子だから、途中で白旗をあげ、怒らなくなった。別に母親への反抗心から泥だらけになってたわけじゃないが、ドシャブリになると自然とテンションが高くなってしまい、そうして俺らは傘を閉じ帰り道の水遊びに興じるのであった。ラーメン屋から見える激しい雨を見てると、そんな風に小学校時代の記憶が蘇ってくるのだった。雨の道を歩いていると、大人になった今でも水たまりを見て飛び込みたい衝動に駆られることがある。もちろんそんなことはしないが。まず穿いてるズボンが濡れることを考え、それから靴がビショビショになることを考える。そうなったら、相当に面倒だと想像する。大人となった現在では、そういう風に考える想像力であるとかここで水たまりに飛び込むのは完全におかしいヤツと見られるという理性のようなものが勝る。だが子ども時代は、
「そこに面白そうなものがある。じゃあやろう、後のことなど考えずに」
という風に動いてた気がする。本能にまかせて。まあ大人になっても理性のカケラもないヤツは、「よっぽどの天才」か「危険なヤツ」だけど。
「それにしてもヒマっすねえ」
こんな日に客はほとんど来ない。たまに1、2人来る程度だ。まあ忙しい時はそれこそてんてこまいになるし、こういうヒマな日もたまには悪くない。俺は店の庇の前まで行き、雨に濡れないようにしながら外を見た。時刻は夜12時を過ぎている。店は駅から少し離れた、大通りではないが一応主要な通り沿いにあった。駅前ではないのでうるさい酔っ払いもいない。だから大体、店の周辺は静かだ。こんな夜は特に。外は、激しい雨音だけが聞こえていた。こんな風に店がよっぽどヒマな時は閉店時間の5時よりも、少し早く店を閉めるようにしている。坪田店長からもそのように言われていたし、店を無駄に開けていても客が来るはずがないことは分かっていた。そんなわけで俺とスギウラさんは4時に閉店の準備を始めた。

 閉店の準備を順調に進めていた時に、1人の客が入ってきた。その客は真っ赤なシャツを着て、傘も持たずにびしょ濡れだった。そしてその客の大きな特徴は、とんでもなく体がデカイということだった。ラーメンなど軽く2、3杯は食いそうだった。そしてそのびしょ濡れの、真っ赤なシャツの、とんでもなくデカイ客は俺たちを見るやいなや、
「まだ開いとるか。もう、閉店か?」
 と聞いてきた。通常だとこれだけ空いてる日には、1人とか2人とか客が来ても追い返すことがある。まあ大抵は、
「あれ、確か5時までじゃなかったっけえ」
 と呟きながら帰っていくが。ところが今日の客はラーメンが食いたくてたまらないっていう顔をしていた。身体中を雨に濡らしながら。スギウラさんはその客を通した。その迫力に気圧されたのか、びしょ濡れになってまで来た客にラーメンを食わしてやりたいと思ったかは分からなかったが、スギウラさんはその客をカウンターに座らせ、
「少々お待ちください」
 と言った。
 普通、閉店の準備を始めたら俺らは颯爽と椅子をカウンターに上げ、床の掃除などをするのだが客が1人入って来たことによって、俺らは手を止めた。そのびしょ濡れの客は1番奥に座り、カウンターでラーメンを作るスギウラさんを見ながら水を何杯も飲んだ。その視線はラーメン屋に来る客によくありがちな「素人のくせに評論家気取り」な感じでは全然なかった。つまりそういう客は大抵「どういうスープを使ってるんだ」とか「湯切りはちゃんとしているのか」などと、ろくに分かりもしないくせにじっと見てくる。そして食べる前に写真を一枚パシャリとやる。どうやらそういう客の多くはよくあるグルメサイトに自分なりの評論をするそうだ。ろくに分かりもしないくせに、大笑いだ。で、話を戻すがその客の視線は評論家気取りとはマッタク違った。ただ単に一刻も早くそのラーメンにがっつきたいという純粋な目でスギウラさんが調理する様子を眺めていた。よっぽど空腹なのだろう。その客は既に箸を掴み、臨戦態勢を整えていた。
 しかしその客が注文したラーメンは「普通盛り」だった。大丈夫か、普通盛りで。この人で普通盛りはまず足らないだろう。そうしてしばらくするとラーメンが完成した。ところが、スギウラさんが持ってる丼には普通盛りではなく、どう考えても特盛りはありそうなラーメンが入っていた。
「どうぞ」
 そう言ってスギウラさんは客の前に特盛りのラーメンを差し出した。しかもチャーシューも3、4枚入ってる。びしょ濡れの、真っ赤なシャツを着た客は一瞬戸惑った。自分の注文が間違いだったんじゃないかと。
「サービスです。気の済むまで、食べてください」
 スギウラさんは言った。もちろんいつもはそんなサービスなどしない。バイトだからといって俺らもこの店で一生懸命働いてる。もちろんプライドだってある。そしてなにより、坪田店長に迷惑のかかることはしたくない。だからいつもはそんなことはしなかった。だがスギウラさんは普通盛りを特盛りにした。まるで、とことん食えと言ってるかのごとく。
サービスという言葉を聞いて安心したのか、その人は、
「ありがとう。じゃあ、いただきます」
 と言って、目の前の丼に覆いかぶさるようにした。そして特盛りのラーメンを物凄いスピードで平らげた。それはもう、野獣という表現が相応しかった。
「ごちそうさま。本当に本当に美味かった。」
 と言ってその人は空腹が満たされ、ほっこりした顔をしていた。それから自分がレスラーであることや、本業のレスラーじゃまだまだ全然食えないので練習のない夜の時間帯に警備員のバイトをしていることを俺ら2人にどちらともなく語った。そしてその客は、
「よっこらしょ」
 と立ち上がり大きな体を土砂降りの雨に降られながら帰って行った。帰る時に俺らに握手を求めた。そのレスラーの手はとんでもなく大きく、そして彼の握力はものすごく強くて握手は死ぬほど痛かった。俺はその際、会ったことのないフィリピン人のジョーイを思い出した。 
 体のでかいびしょ濡れレスラーが帰り、俺とスギウラさんは間もなく店を閉めた。
「いやあ、しかし面白いお客さんでしたね」
「ホントだよ。手が痛くてたまらなかったよ。しかしあれだけ体がデカくてもレスラーとして食えないんだな。あれだな、よく分からないけどさらに上がいるんだろーな」
 本当だ。さっきの男のレスラーとしてのレベルは俺らにわかるわけもないけど、とりあえずレスリングじゃ食えないからバイトしてるって言ってたもんな。まあ役者にせよお笑いにせよそれだけで食うのは本当に難しいことだ。どんなジャンルにせよ、夢とか目的とかで食っていくってことの難しさは多少なりとも理解してるつもりだが、実際にそれを仕事にしているってのはそれはそれで厳しいのだろうな。プレッシャーとか売れ続けることの大変さとか。俺がさっきのレスラーになんとなく自分の心をダブらせたのと同じように、スギウラさんも多分、感情移入していたのだろう。そうして激しい雨の1日は終わった。最後にレスラーという珍しい客を迎えて。

 「実家に帰ることになったよ」
 翌日オオハシから突然そう言われた。ヤツによると、親父さんが倒れて、急遽帰ることになったそうだ。オオハシの実家はスギウラさんのように自営ではない。ヤツの親父さんは普通の会社員ということだ。
「じゃ、また戻って来るんだろ?」
 俺は聞いた。倒れたという親父さんのことも心配だったが、もしオオハシがこのまま帰って会えなくなるのは嫌だった。オオハシとは同じ年齢で気も合った。いわば、東京のよき友達である。
「いや、残念だけど店辞めて、完全に帰ることにした。向こうで就職するよ。いよいよ俺も身を落ち着けて働くかな。まあ30くらいまでは旅をしたかったんだけどね」
 オオハシの実家は90過ぎのおばあちゃんがいる。そして倒れた親父さんとお母さん、さらに地元で結婚して近くに住んでいる妹がいるらしい。そのおばあちゃん、そして親父さんを看病するため、オオハシは帰郷する決意をした。オオハシは実家に帰ることに対して、もう覚悟というか気持ちの整理が出来ているらしい。