昼間の客層は夜とはだいぶ違う。昼間の客は、とにかく食事目的で来る。主に、12時台にわっと押し寄せる。スーツを着たサラリーマンやタオルを肩にかけたまんまの作業着の人、それから大学生や専門学生など。彼らはだいたい黙々と食事をして水を一杯飲んでスバヤク帰っていく。一番混む12時台は店にも行列ができる。だがなんといっても坪田店長や、最年長の上田さんという、二人の社員がいるので、俺はとにかく自分の仕事をこなしていればいい。どんどんとやってくる客、それに対し、次々とラーメンを作っていく俺ら。この時間帯は、まるで戦場のようだ。13時を過ぎるころには、客足も多少減って来る。俺らも少し余裕が出来、冷たい水などを飲む。
 このもっとも混む12時台が過ぎて13時台になると、仕事が長引いたらしく遅い昼食に来た客をさばく。そして14時台になると客足は完全に途絶える。そうするとようやく俺らが順番で休憩をとる。あとは晩御飯の時間の19時くらいまで店が混むことは滅多にない。

 ところで、飲食店で働くと、いわゆる「まかない」が食べられる。これは本当にありがたいことだ。店によっては、7ガケとかいうケチなところもあるが、うちは完全無料だ。しかも坪田店長は気前がよく、俺らがバイトしながら切り詰めてるのを知ってるので、一回の仕事で2食も食べさせてくれることもある。どういうことかというと、出勤してすぐ、
「腹減ってないか?じゃ、とりあえずラーメン食っとけよ」
 と言って、いきなり1食食べさせてくれる。そして仕事が終わってからまたもや、
「思いっきり働いて腹へったろ?」
 と言ってもう1食食べさせてくれるわけだ。なぜそこまでしてくれるかというと、もちろん坪田店長自身の気前の良さがなによりだが、その他の理由として、坪田店長の好きな言葉、
「腹が減ってはイクサもできぬ」
 が大いに関係している。よく俺がオーディションに行ったりスギウラさんがネタ見せなんかあったりすると坪田店長は、
「腹の減った状態でのぞむなよ!なんてったって『腹が減っては戦ができぬ』からな」
と言い、坪田店長は恰幅のいい腹をつきだす。

 前にも述べたが坪田店長は音楽をやっていたそうだ。下北沢とか高円寺とか、いろんなところでライブ活動をしていたが、結局芽が出ることはなかったらしい。そして、付き合っていた彼女に子どもができ、そのまま結婚して音楽の世界から一転してラーメン業界に足を踏み入れたわけだが、当時はどんな心境だったんだろうか。マッタク違う世界で、新しい人生を始めるということに不安や抵抗は無かったんだろうか。しかも今では人気ラーメン店を実際に立ち上げてるわけだから、相当な苦労だったに違いない。
「いやさ、とにかく家族を養って行かなきゃって必死だったから。もう、いつまでも売れない音楽やってる場合じゃなかったね」
 音楽をやってたころ、坪田店長は当然アルバイト暮らしだった。彼女もバイトをし、二人でギリギリの生活をしていたらしい。
「あのころはあのころで楽しかったんだけどね。カネは全然なかったけど。彼女と二人、4畳半のアパートで、よく安い酒を飲んでたっけ。今じゃ出来ないけど、若かったから」
 そう言って坪田店長は少し照れ笑いをした。
「まあどっちにしても、今タケオに彼女がいてそのコに子どもが出来たら、それこそ役者を辞めるんじゃないか」
 幸か不幸か、今の俺に彼女はいない。俺がもし、坪田店長の立場になったらどうするだろうか。やっぱり役者をやめて就職するんだろうか。夢とかそういうものを捨て、家族のために必死になって働けるだろうか。少なくとも、今の俺には守るべき家族というものがないから、そうなった時の気持ちは、想像出来ない。

 「藍、来たいってよ。良かったな」
 そう言って、祐介は俺に飛び上がらせるほどの知らせを報告して来た。
「ただ、予定を合わせるのが難しいからな。今週すぐに会いましょうって言っても、そう簡単には行かないだろうな。藍は基本平日休みって言ってた。お前は夜勤で昼間役者の仕事とか練習が入るんだろ。まあ、俺は出張とか休出が入んなきゃ、土、日が休みだけどね。とりあえず、藍にはわかる限りのスケジュールをメールするよう言っておいた。タケオ、お前も調整出来そうな日はメールで随時伝えて。じゃ、ヨロシク」
 そう言って祐介はすぐに電話を切った。なんかいきいきしてたな、あいつ。昔っからこういうの得意だったもんな。祐介の頭の回転の早さに改めて感服しながらも、藍との再会が確実になったことを、俺は心の底から喜んでいた。祐介とは5年振り、藍とは上京してから一度も会ってないから、多分10年振りくらいになる。

 元気かな。相変わらずカワイイ…だろうな。仕事はうまくいってるかな。地元には時々帰ってるのかな。最後に会ったの、いつだったっけ。なんせ高校が違ったから、中学の時みたいに毎日会えるわけじゃなかったもんな。そうだ、最後に藍に会ったのは俺が上京する前の夜、祐介と一緒に会いに行ったんだった、藍の家に。俺と藍は家の前で話をしたんだっけなあ。
「俺、明日地元を出るから」
「そっか、私も来週から料理の専門学校で東京行くんだよ」
「そうか。じゃ、お互い上京組ってわけだ」
「だね。時間があったら会いたいね」
「そうだな」
 5分か10分立ち話をしただけだったし、会話が特別に盛り上がったわけでもない。だけどその時間は俺にとってサイコーに幸せであり、1時間や2時間にも感じられた。それから上京後、結局会うことのないまま時は過ぎていった。頭の片隅に今も、藍の面影を残したまま。
 そんなわけで、祐介に当面のスケジュールと調整出来そうな日をすぐにメールした。あとは祐介からの返信を待つしかなかった。
「なるべく早くアイツらに会えるといいけどな」
 俺はそんな期待を抱いた。もちろん藍だけじゃなく5年会ってない祐介との再会も、とても楽しみだった。

 とはいえ3人が会うことになるとそう簡単に話が進むはずもなかった。そんなわけで俺は、普段の生活をこなした。昼間は役者業、夜はラーメン屋という感じで。
「今やれることを懸命にやる」
 というスギウラさんの言葉通り、たとえ稼げなくても、俺は役者なんだ。時々、心がポキっと折れそうになるが、俺のマッチ棒のような心を今、何よりも支えているのは、一緒に働くスギウラさんやオオハシの存在だろう。たとえばスギウラさんが頑張ってネタを作って行く。オオハシは糸の切れた凧のように旅へ行く。二人がこんなに頑張ってるんだから、俺も負けてられねえって思う。月並な言葉だけど、本当にそう感じる。まあ、一番の理由は演ずることが好きなんだろうが。だからこうして10年もの間、しがみついてるんだ。同世代の人間たちが結婚したりいい車に乗ってたりしてそりゃアセる。安定した職につこうと思ったことも何回も、何十回もある。けど結局は、
「分かっちゃいるけど辞められない」
 んだよな。あの歌なんていったっけ。ああ、確かスーダラ節だった。あの歌は確か酒がやめられない男の歌を唄ったはずだったけど。今の俺にピッタリじゃないか。いや、誰にだって身に覚えの一つや二つくらいあるんじゃなかろうか。麻雀がやめられない、タバコがやめられない、読書が止まらないなど。まあ、そんなこんなで俺は今に至る。毎日毎日、葛藤し続けながら。そしてスギウラさんがお笑いを頑張り続けている。あの人が諦めない限り、俺が先に逃げるわけにはいかないのだ。「ほっぺの引っ張り合い」のようなもので、スギウラさんが「やーめた」と言い出さない限り、続ける。なんだかものすごい意地の張り合いみたいになってるけど、いい刺激になってるから、問題ないのだ、結局。

 今日のバイトはまたもオオハシと一緒だった。ヤツはいろんなところを旅していて、バイト中に旅の話を何度聞いたことか、数え切れない。国内外本当に色々行っていて、毎回面白い話をしてくれる。笑える話だけじゃなく、時には泣ける話も。旅というものは、嬉しいことや楽しいことだけじゃないそうだ。悔しいことや、時には悲しい場面に出くわすことも多々あるらしい。それらすべてひっくるめて旅の魅力だそうだ。家族旅行ぐらいしか行ったことのなかった俺にはその魅力とやらの本質まではわからないが、アイツの話を聞いてると、俺もその場所に行ったような気持ちになることが出来た。
店がヒマになったので俺は早速ヤツに聞いた。
「なあ、今日も旅の話聞かせてくれよ」
 オオハシも自分の旅の話をするのが嫌いではなく、もちろん俺はそのことを熟知していて、いつも話を聞いてる。中には自分の旅をまるで特別なことのように話したがるヤツもいるが、オオハシはそんなことは一切せず、どんな体験もアッサリと語った。
「そうねえ、フィリピン人のジョーイの話、もうしたっけ?」
「いや、多分それまだだな」
「ジョーイに会ったことで人生観くつがえされたよ」
「じゃあ、そのジョーイという人の話を聞かせてくれ」
 ちなみにオオハシは国内の旅を、おおまかに「西」と「東」で記憶している。たとえば北海道だったら東の上の方、福岡なら西の旅、というふうに。それはそうだろう、いろんなところを行ってるヤツにとって、行った場所まで思い出すことは難しいはず。ちなみに海外の旅だと行った国は何十国もあるわけじゃないので、「ポルトガルの」とか「カンボジアに行った時の」と、出来事と国の記憶がごっちゃにならずに出るらしい。
 国内の旅の場所の記憶が曖昧なオオハシだが、出来事そのものの記憶は凄く良い。そして、今日はフィリピン人のジョーイの話を聞かせてくれるらしい。
「あれは、西の旅だったな。確か広島あたりだと思うんだが」
 広島?フィリピン人て言うからてっきりフィリピンへの旅だと思っていたら、広島で出会ったジョーイっていう日本に出稼ぎに来てた男の話らしい。まあなんにせよ、オオハシはジョーイの思い出を淡々と語り始めた。
「あれは2、3年前のことかな。俺は1ヶ月半くらいの休みをもらった。で、確か広島に行ったんだ。それでまあ一週間くらいの旅ならいいんだけど、1ヶ月とか2ヶ月になるときは、金もそんなにねえから短期で出来るバイトを旅先でやることが多いんだよね。それでその時はちょうど牡蠣漁のシーズンで、求人広告には牡蠣漁の募集がワンサカあったってわけ。どういうことをやるかっていうと、船に乗って網にかかった牡蠣をワッセワッセと引き上げて、その後、港に戻って仕分けをしていく。まあ簡単に言うとそんな感じだな。もちろん、難しい仕事はベテランの漁師がやってたけど、俺みたいな短期のバイトで入った人間はひたすら力仕事だったな。思いっきり網をひきあげたり仕分けられた牡蠣を運んだり…。結構しんどかったよ、朝は3時くらいに叩き起こされるし。といっても、金もないからすぐにバイト見つけなきゃならなかったし。まあ、最初は楽な仕事探したんだけどね、そん時は、あいにくなかったな」
 そう言ってオオハシは水を飲んだ。一気にいろいろしゃべったので喉が乾いたんだろう。だが俺は早く続きが聞きたくて、先を促した。なにより、まだフィリピン人のジョーイが登場してないじゃないか。
「まあ、今出るよ。そのジョーイは漁師じゃないけど古株のバイトで俺にいろいろと仕事を教えてくれたんだ。すっげえ力持ちで、腕なんか俺の2倍も3倍もあんの。でもジョーイは、最初は全然しゃべらなかったよ。俺も、とにかく自分の仕事を懸命にこなしてたし、なんせ分かんないことだらけだったからさ、最初の2日くらいはお互いマッタク無言だったな。でも3日目だったか忘れたけどジョーイがいきなりニコッと笑ってきたんだ。なんていうのかな、初めて俺に心を許した瞬間だったね。あの笑顔は日本人の大人には出せないんじゃないかな。よくわからんけど、そんな気がしたよ。それで、その後俺に聞いたんだ。
『ニホンノオンナ、ミンナキレイネ』
それがジョーイの第一声だったな。いきなりそんなこと聞くかって思ったけど、俺はすかさず、
『そのとーり、そのとーり』
と、なぜか政治家みたいに答えて、首をおもいっきり縦にふったよ。それ以来、俺たちは急速に親しくなった」

 客が入って来たので、オオハシの話は一旦中断となった。深夜の客はラーメンだけでなく、餃子にビール、それからつまみをたんまりと注文する人が多くて、その辺は昼間より儲かるのだが長居することもある。オオハシの「ジョーイ話」の続きが推理小説のように気になっている俺としては、正直早く帰ってもらいたかった。結局何人かの客が来て、再び1時間後、店には誰もいなくなった。早速俺はさっきの話の続きを聞き出した。ヤツは続きを語り始めた。
「仕事は早朝3時半からでさ、朝が早いぶん午後の1時とか2時頃には終わるんだよね。それで昼飯はいつも船の上で新鮮な牡蠣を漁師さんがさばいてくれて醤油をかけて食ってたよ。サイコーに美味かったなあ」
 そう言われて俺も牡蠣が食いたくなった。しかし新鮮なモノを船の上で食うのと、居酒屋で食うカキフライじゃ雲泥の違いだろうな。そう思って、俺は新鮮な牡蠣へ思いを募らせた。
「ジョーイは収入の半分くらいをフィリピンの実家に送ってて、すごいなあって素直に感心したよ。で、話してるうちにわかったんだけど、あいつすっごいシャイでさ。初対面の人なんかと全然話せないんだよね。始めすごい無口な印象を受けてた俺も、ジョーイとしゃべり出してから仲良くなったしね。まあ、親しくなれば本当に陽気なおっさんっていう印象だったよ。けど、こういうと差別みたいな発言になっちゃうけどフィリピン人とかってなんとなくガサツなイメージが多分一般論だと思うんだよね。実際、俺もそうだったし。でもジョーイは結構繊細でさ、あと本当に優しいヤツだったな。ジョーイとはよく仕事が終わって夕方くらいからあてもなく散歩に出かけてたよ。それで定食屋とかラーメン屋に入って、夕飯食べて帰ってたな」
「そのジョーイとの一番の思い出とかってないの?」
「ジョーイとの思い出か。まあ、ありすぎるな。たとえば、ジョーイはそこまで日本語が堪能じゃなかったんだけど。意思の疎通は問題なかったな。それに、ジョーイが思い出せない日本語があったとしても、俺がカバーして会話は成立した。こんなふうに、
『ホラ、ナンダッケ、タイムノ』
『時計か!』
といった感じで。あとフィリピンの人は英語が使えて、ジョーイも『70パーセント、エイゴダイジョブ!』と言っていた。70パー、まあ大体話せるってことだろうな。そんなわけで俺らは、足りない部分をカバーして、互いの意思疎通をはかっていた。ジョーイとは本当よくしゃべったよ、仕事中も、仕事が終わってからも。ジョーイはさ、フィリピンの中でもかなりのイナカで育ったんだって。木によじ登って、木の実とか食える虫…まあ日本じゃ誰も食べてないかもしれないけど、そういうのを食って幼少期を過ごしてたらしい」

 オオハシはひと呼吸おいた。ジョーイか、そんなヤツとはぜひ仲良くなりたいな。俺も一応イナカ育ちだったから、フィリピンのイナカがどれほどのものか知りたかった。それからオオハシは残りの思い出話を、再度語り始めた。
「まあジョーイの話はキリがないほどあるけど、やっぱりこれかな。俺が帰る時になると、あいつは顔をクシャクシャにして泣いたよ。たった1ヶ月か2ヶ月の付き合いなのに、まるで親友と2度と会えなくなるかのように、悲しんでくれた。それでぶっとい腕で俺を抱きしめた。メチャメチャ痛かったけど、それより何より嬉しかったな。その腕で思い切り抱きしめられたもんだから、コッチ帰ってから1週間くらい筋肉痛になったけど、痛くなるとジョーイの事を思い出して寂しくなったな」
「それから連絡取ったりしてないのか?」
 俺はジョーイのその後が気になった。
「俺が帰って1、2ヶ月したころ手紙は来たけど、結局疎遠になっちゃったな。今頃どこで何してんのかな。相変わらず、牡蠣漁やってんのかな」
 そう言ってオオハシは店の裏口でタバコをくゆらせた。なぜだか俺も、ジョーイが今何しているのか、気になった。日本にいるのか、
それともフィリピンに帰ったのか。いずれにせよ、オオハシからこれだけジョーイの話を聞かされ、もはや他人とは思えなくなっていた。それから俺らは再び仕事をした。

 祐介からスケジュール確認のメールが欲しいと言われてからひと月ちょっとが経ち、ようやく3人のスケジュールを合わせる事に成功したとの報告があった。よくやったぞ祐介!仕事だって忙しかろうに、しかも家族もいるというのに。俺には到底、そんな真似は出来ん。さすが祐介、昔から頭がきれ、よく動く男だ。そう感心しつつも、俺は来週となった3人の再会を待ち遠しく思った。なにせ地元は5年前に中学時代の同窓会があったきり、帰っていない。そして祐介や藍とも長いこと会ってない。「故郷」というものが久しく俺からは消えていた。

 祐介や藍だけじゃなく、バスケ部で一緒に汗をかいたヤツらとか、俺の脳裏には久々に地元の光景が浮かんできた。アイツらはどうしているだろうか。向こうで就職した人間もいたし、上京してこっちでそのまま働いてるヤツもいるだろう。俺は、地元の仲間達とはすっかり疎遠になってしまったから、ヤツらがどうしているか、マッタク知らない。なにせ、一番仲のよかった祐介さえも5年振りなんだから。たまに地元を思い出し、あのなんとも言えぬ温もりに包まれたような安心感に帰りたくなる。
 だからといって、今の俺はあくまでも役者業とラーメン屋がある。それから目をそらしてはならない。
「今出来ることを懸命にやる」
 しかないんだ。もはやスギウラさんと俺は口グセのようにその言葉を言ってる。故郷に背を向け旅立った男なんて、寅さんの世界みたいでカッコイイじゃないか。こういうことをいうと俺以上、ていうか日本1の寅さん好きを自負するオオハシと、また揉めることになる。まあ、なにはともあれとにかく来週、祐介や藍と再会することになり、俺は期待で胸がふくらんだ。

 もう長いこと同じ生活をしているし、俺の街はオシャレタウンではないので、外見にさほどこだわらなくなった。髪はいつもの近所の散髪屋で切ってるし、服も3通りくらいしか着回しがない。しかもどれも楽なジャージとかスウェットとか、そんなものを着て出歩いている。だが、久々に祐介や、そして藍と会うとなるとそんなことは言ってられなかった。彼らも東京に長いこと住んでるんだし、俺一人がみすぼらしい格好をしていたら、なによりもせっかく久々に会う彼らに対して、失礼だと思った。そんなわけで俺は久しぶりにいつもの散髪屋ではなく、表参道にある美容室で髪を切った。店はすごいオシャレで、入るのにチョット躊躇した。勇気を出して中へ入ると、店員は一瞬戸惑いの表情を見せたが、すぐに営業スマイルに変わって俺を客として扱った。そこで髪を切り、洋服もチョットいいものを買った。高級ブランドの服なんて当然買えないけど、チョット奮発して、上下合わせて4万くらいするものを購入した。服にそんなお金を費やしたのは本当に久しぶりだった。どんな服を買ったかっていうと、濃紺のジャケットに普通のチノパン。あとジャケットの下に着るTシャツ。もう30近いし、大人っぽくいこう。

 家に帰って鏡で自分を見てみると、少し格好良くなった気がした。やっぱりいつもの散髪屋もいいけど、美容室で切るとただ普通に短くしただけなのに、なんとなく青山あたりを闊歩してそうな気持ちになった。なんでもいいが、俺のイメージの中でどうしてオシャレ=青山なのか。代官山だろうが銀座だろうがいいはずなのに。なんとなく、青山という名前がオシャレな人たちで溢れかえってるイメージにさせた。汗や脂まみれになってコロッケとか魚を売ってるおっちゃんなどは、間違いなくいないと思う。推測にすぎないけど。そして俺自身も、どう考えてもそっち側の人間だ。なぜなら、額に汗して毎日のようにラーメンを作ってるし、俺の街も古い商店街のある所だ。まあ俺は、基本的にそういう街並みの方が好きだが。だって落ち着くし。いつも行ってる散髪屋にしたって、漫画も好きなだけ読めるしヒゲも剃ってくれる。美容室で格好良く髪を切ってもらったが、ヒゲまでは剃ってくれない。そんなわけで俺は、ヒゲ剃りを使い、顔とか首の下をキレイにした。一週間もあればまた生えてくるけど、また剃って、ツルッツルな顔で彼らに会おう。

 翌日のバイトで、俺が髪を切ってヒゲを全剃りして来たので、早速スギウラさんにからかわれた。
「あれえ、タケオ珍しくオシャレじゃん。こりゃ近々デートだな」
 オオハシにも同じように言われた。夜のラーメン屋は一週間ずっと、こんな感じだった。
「まあタケオにもたまにはイイ話の1つや2つくらいないとな」
 スギウラさんやオオハシには確かにいつも浮いた話があった。そう、彼らは俺と違ってモテるし、特定の彼女もいた。俺の場合相手のことを好きになると、わかっていながらつい突っ走ってしまう。そうして相手のコに「重い」とか「もうすこし段階を踏んで」というふうに言われる。相手のことが好きになるとラッセル車よろしく、気持ちを伝えたくなってしまう。本当に、俺の悪い癖だ。ていうか、好きな時に段階なんか踏めるかよ。相手に言わせれば、たとえばとりあえずメールとか電話して、デートしてみて、お互いの気持ちが高まって来たらってことらしいんだけど、所詮ラッセル車の俺は、そんな段階全てふっ飛ばしたくなる。
 その辺スギウラさんやオオハシはうまい。気になるコがいると、4方8方から攻め、相手の出方をうかがいつつ、粘って粘って攻略するそうだ。もちろん二人とも、今は彼女がいるのでそんなことはしないが、二十歳前後くらいはそうやっていろんな女の子と遊んでいたらしい。チクショーめ。

 ともあれ俺、祐介、そして藍の3人が集まる日となった。10月に入ってすぐだった。その日は、幸いなことに雨が降る心配はなさそうだった。さっきテレビで夕方からの降水確率が0%であることを伝えていた。少し肌寒かったが、奮発して買ったジャケットが暖かく、また秋という季節にもちょうど良かった。そして、風も気持ちいい。もちろん、今朝ヒゲもしっかりと剃った。準備は万端。

 午後6時半、俺が待ち合わせの場所に立っていると、後ろから肩をポンっとたたかれた。振り返るまでもなく、藍であることはわかった。藍は、グレーの薄いセーターにデニムという格好だった。俺の顔を見ると、
「久しぶり。なんか、大人になったね」
 と言った。しばらくぶりに藍の声を聞いた。その声はとても耳に心地良かった。
「そうだな。10年くらい会ってないもんな。藍もだいぶ大人っぽくなったね。それに、まいいや。お店あっちだったよね」
 本当は相変わらずキレイだねって言おうとしたが、その言葉は喉の奥で止まった。それに、頭の中ですでに「キキ、キレイだな」とかみかみだったので、口に出して言ったらもっとかむことはほぼ間違いなかった。でも、久しぶりに見た藍はやっぱりすげえキレイで、可愛かった。俺はドキドキしていた。

 祐介は残業で少し遅れると、メールが来た。あいつ本当に残業なのか。それとも、俺に気を遣ってわざと少し遅れてくるのか。だとしたらその気遣い、いらんぞ。なぜなら俺は藍との久々の再会に、相当キンチョーしているからだ。もちろん平静を装ってはいるし、今はまだ祐介が予約したという「個室の焼き鳥店」に向かって歩いている段階だ。街の喧騒もあるし、2人が会話する必要はそこまでない。しかしその個室の焼き鳥店に通され、二人っきりで向かい合わせになったら、俺は下を向いたままになってしまうんじゃなかろうか。もしくは、運ばれて来るビールジョッキを持つ手が震えてしまうんじゃないだろうか。「乾杯〜」っていう声が裏返ったりはしないだろうか。そんなことを考えてるうちに、目的の店に着いた。そこは路地裏の静かな通りにある落ち着いた佇まいの店だった。石造りの階段を3段降り、引き戸を開けると、
「いらっしゃいませ」
と、落ち着いた声に古民家のような内装が目に入ってきた。
 俺は普段、こういうとこにはまず入らない。劇団員と飲む時もラーメン屋の連中と仕事終わりに一杯やる時も、居酒屋だろうがなんだろうが雰囲気などではなく「安くて美味い」ことを最優先条件としている。そうなると店の内装も、まあ大体が壁に値段の張り紙がしてある。「ポテトサラダ350円」という風に。そして店はカウンターと、所狭しと並べられたテーブルが置いてある。俺は、俺らは普段、そういうところで飲む。またそういうところの、雑多とした感じが好きだ。
 だが今日祐介が予約した古民家風個室焼き鳥店も、とても良かった。俺らは祐介の名前で予約を取ってあることを告げると、早速案内された。店に来るまでの俺の不安は、すっかり消え去っていた。なぜなら、店内のゆったりとした雰囲気に俺はすっかりと落ち着いてしまい、藍と個室で二人っきりになっても、もはやキンチョーすることはないと思った。いっつも俺らが飲んでるような店もいいけど、たまにはこういうところもいいなあ。それから、飲み物やお通しが運ばれてきた。
「失礼します。お飲み物と、それからお通しでございます」
 おお、めっちゃ丁寧じゃないか。俺らがいつも飲んでる場所だったら、
「へいおまち!」
 と言って、次の注文をしようと思って顔をあげたらもう店の人は背中を向けて他のテーブルに行ってるなんてこと、よくあるもんなあ。まあ再三言うが、俺はそういう店も好きっていうか馴染み深い。
 いずれにせよ、今日はこの店の雰囲気とか味を存分に楽しもう。ところで、
「祐介、残業で1時間近く遅れるって」
「そっか。じゃ、とりあえず先に始めちゃおっか」
「そうだな。1時間待ってもしょうがないし」
 俺が「乾杯」の音頭をとった。不安視していたように、声が上ずることはまったくなかった。俺は、すっかりキンチョーから解放されていた。もしかして、俺がめちゃめちゃキンチョーすることを予想したうえで祐介はこの店にしたのか。だとしたら相当に冴えてるなあ、と思いつつも、まさかそんなはずはないだろうと、すぐにその思いを打ち消した。そして、いつもより早めのピッチで、ビールを飲んだ。
「だけど本当に久しぶりだよね」
「おお、なんせ地元の時以来だもんな。お互い東京には出て来たけど、一回も会ってなかったしね。なにはともあれ、元気そうで良かったよ」
「私も、タケオ君が元気そうで良かったな」
 なんだか親戚の挨拶みたいになってしまい、二人共笑った。そして俺は、藍とこうして久々に会話をしていることに、少し感動していた。同時に、上京前夜、藍の家の前で立ち話をした光景が蘇って来た。「10年はひと昔」と聞いたことがあるが、まさに「ひと昔」だな。そして上京してから今まであっという間に過ぎて行った記憶が走馬灯のように蘇った。慣れない東京の生活、幾つも変えたバイト、止められた電気、それから、役者と、ラーメン屋。

 上京してから瞬間的に過ぎていった時間。藍はどんな風に生きて来たんだろう。藍にもいろいろなことがあったろう。でも、地元にいたころならまだしも、今の俺が自分から聞くのは違うと思った。故郷を離れてからの俺たちはお互いに別の道を生きてきた。それを無理やり聞き出すのは間違ってる。もし藍が自分から今の状況や過去にあったことなどを話したら、俺はそれを静かに聞こう。そして、心の中でギュッと抱きしめよう。それからあとは、もうすぐ来るであろう祐介に託す。話好きでまとめ上手の祐介に任せれば、どんな場でもなんとなく収められることを、俺は長い付き合いから分かっていた。
 祐介が来るまでの小一時間、俺たちは懐かしい思い出話をして楽しく過ごした。今の話とかをしてしまうと、踏み入れてはいけない領域に入ってしまう危険性があったので、当たり障りのない話をした。俺は今の藍のことを何も知らないから、藍が結婚していて子どももいるなんて話をされることを恐れていたのかもしれない。まあ、ずっと会ってないんだから、そんな話が出たとしてもおかしくはなかった。そして、もしそうであったら、俺は素直に祝福しなくちゃならない。そう、心から。

 そして祐介がきた。
「いやー、遅くなって悪かったね。二人とも久しぶりだなー。特に藍なんて何年ぶりだ?もう10年くらいになるんじゃねーか。あ、すんませーん、ここにビール1つね」
 相変わらず騒々しい男だ。そして相変わらず場の雰囲気をパッと明るくする力を持っていた。俺と藍が二人でいた時も、酒も進んで十分に明るかったのだが、祐介が加わって部屋の明かりが3倍くらいになったような気がした。それはヤツと出会った頃から持つ才能みたいなものだった。俺や、他の人間が暗いわけじゃないのに、そこに祐介が加わると一気に場の雰囲気が変わるのがはっきりとわかる。そういう場面に何度も出くわしてきた。そんな能力を祐介は持っていた。
「意識したことはないし、俺にそんな場の雰囲気を変える力なんて持ってると、感じたこともない」
 高校のときに祐介に言ったら、こともなげにそう返された。つまり祐介は、この場を明るくしようとか意識的にやってるのではなく、「ど天然の明るさを持つ男」なのだ。
 その祐介がやってきて、間もなくビールが運ばれると、
「じゃあとりあえず再会を祝して、カンパイといきますか」
 俺と藍は2度目だったが、祐介に促されるままもう一度乾杯した。
「くー、やっぱ美味いねえ。あ、焼き鳥食べたか。ここの焼き鳥美味いよお。二人とも食べた?食べた?とりあえず俺腹減ってるから頼むわ」
 やっぱり相変わらず騒々しい男だ。俺はそう思いながら、祐介を笑って見ていた。まあ5年くらいじゃ変わらないか。もっとも祐介の場合、20年経ってもそのまんまだろうけど。藍を見たら、俺と同じように笑って祐介を眺めていた。多分藍も俺と同じようなことを考えているだろう。「変わってないなあ」って。