滝井と呼ばれたビジネススーツの男性が、人当たりのいい笑みを浮かべる。

「甘いものがあるととてもありがたいです」
「じゃあ、ちょうどいいタイミングだったんでしょうか」

 柚香は言いながらも、なぜだか湧き上がってくる不思議な感情を抑えきれずにいた。

(なんだろう。さっきからずっと温かくて懐かしくて……胸がギューッとなるような……)

 そしてその切なさにも似た感情は、マスターを見たとき一番強くなるのだ。

 柚香が前に視線を戻したとき、さわさわと風がそよぎ、マスターの艶のある黒髪がなびいた。

(どうして店内で風が?)

 窓でも開いているのかと辺りを見回したとき、楠の枝が大きく揺れた。次の瞬間、突風が吹きつける。

「きゃああっ」

 柚香が驚いて手で顔を覆ったとき、マスターがひらりとカウンターを乗り越えた。

「柚香さん!」

 そして柚香の名を呼び、彼女を守るように抱きしめた。

 どうしてこの人、私の名前を。まだ名乗っていないのに。

 そんな戸惑いを掻き消すように、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。そして、柚香の喉からせり上がってくるようにして声がこぼれる。

「獅狛、さん……?」

 柚香はマスターを見つめ、彼の瞳に切なげな色が浮かんだ。ふたりの周囲を嵐のような風が吹き荒れる。ゴウゴウという激しい音とともに、柚香の記憶の扉がノックされる。

「大丈夫です。私があなたを守ります」

 耳元でマスターの声が聞こえた瞬間、柚香の心臓がドクンと音を立て、全身をさざ波のように熱い血が巡った。

(私、この人を知ってる――)


【了】