柚香はオープン三日前のパティスリーの厨房で、大型オーブンのドアを開けた。熱々の天板では、カップケーキサイズの“抹茶のガトーショコラ”が湯気を立てていた。深い緑色の生地がほんのり黄金(こがね)に色づき、食欲をそそる。

「うん、おいしそうに焼けた!」

 柚香がそれを網の上に並べ始めるのを見て、柚香の母が不安そうに言う。

「ねえ、やっぱり考え直さない? お母さん心配だわ」
「大丈夫だよ。お母さんってそんなに心配性だったっけ?」

 柚香はガトーショコラを並べ終えて、レジカウンター横で椅子に座っている母を見た。

「そりゃ心配にもなるわよ。車で田んぼに落ちて、あんな大怪我をして。あなた、一週間も意識が戻らなかったのよ? あれからまだ半年しか経ってないっていうのに、ひとりで狗守町でパティスリーを開くだなんて……」
「もう半年だよ。半年経って、体も心もすっかり元気になったんだから」
「望月さんが謝罪して訂正文をあちこちに送ったから、柚香に対する嘘の悪評も消えたはずよ。働こうと思えば、もうどこでだって働けるはずなのに、望月さんにもらった慰謝料を使って、わざわざこんな田舎でお店を開かなくても……」

 柚香は天板を片づけ、母に近づいた。

「でも、前みたいに時間に追われるようにスイーツを作るのは嫌なの。ゆっくりアイデアを練って、大切に形にして、お客さまの顔が見えるような働き方をしたいんだ」

 母はこれ見よがしにため息をついた。

「あの事故がこんなにも柚香の考え方を変えてしまうなんて……」

 母は相変わらず口うるさいが、それは娘を心配しているがゆえなのだと、柚香は昏睡から目覚めて気づいた。

 柚香は気分を変えるように手をパチンと合わせる。

「大丈夫! 狗守駅前商店街には、おじいちゃんとおばあちゃんのことを知ってる優しい人たちがたくさんいるし。それに、私がここで働けば、おじいちゃんとおばあちゃんの家の手入れもできるでしょ?」

 そのとき、半分下ろしている店頭のシャッターをくぐって、柚香の姉の桃香が大きな紙袋を持って入ってきた。

「柚香、ラッピング袋はこれで全部ね」

 桃香は壁際に積まれた段ボール箱の上に紙袋を置いた。

「ありがとう」

 柚香は礼を言って、粗熱が取れたガトーショコラを紙袋に三つ入れ、袋の口を開けたまま差し出した。

「これ、お父さんとお母さんとお姉ちゃんで食べてね」
「わあ、いい匂い。おいしそうだね、ありがとう」