「お母さん!」

 柚香は声を上げたが、母の耳には届かなかった。母はそっと右手を伸ばして柚香の腕に触れる。

「今日来てくれた淵上(ふちがみ)三菜子(みなこ)さんが、あなたの無念を晴らしてくれたらいいわね。弁護士のお知り合いが力になってくれるそうだから……。支えてくれる人がいるから、三菜子さんはきっと大丈夫よね」

 母は言葉を詰まらせて続ける。

「それなのに……私は……あなたの話を聞いてあげなかった。責めるばかりで……どんなつらい目に遭ったのか、ひどい経験をしたのか……思いやってあげなかった……。死にたくなるくらい苦しかったのよね。ごめんね、本当にごめんね。柚香、お母さんを許して……」

 母は両手で顔を覆って泣き出した。どうやら柚香は自殺を図ったと思われているようだ。

 柚香は目に涙を浮かべ、母に本当のことを話さなければ、と思いながら、獅狛を見る。

「さっきししこまに来たミナコさん――淵上三菜子さん――も、広翔さんに利用された被害者だったんですね……」
「そのようです。三菜子さんが闘うと決めたことで、柚香さんも同じように闘う気持ちになった今こそ、柚香さんをご家族のもとにお返しすべきだと思ったのです」
「だから、私を今日、ここに連れてきたんですか?」
「はい。私のそばを離れたら、私の力の作用が及ばなくなり、柚香さんは実体を保っていられなくなります。柚香さんの持ち物も、私が柚香さんの記憶に実体を与えていただけです。そのため今まで自由に外出ができませんでしたが、そんな不自由な生活も今日で終わります」

 獅狛がそっと柚香から手を放し、柚香は獅狛を見上げた。

「私、ししこまで働きたいです。また戻ってきてもいいですよね?」

 もちろんです、という答えを期待したのに、獅狛は悲しげに首を横に振った。

「魂が体に戻るとき、その衝撃で、魂だけになっていた期間の記憶が吹き飛ばされます。体に戻ったら、体が持っていた記憶だけになるのです」
「そんな……じゃあ、私、獅狛さんのこともししこまのお客さまのことも忘れてしまうんですか……?」
「そうです。あなたと出会った人たちも、ししこまにパティシエールがいたことは覚えていますが、それが誰だったのかは思い出せなくなります。奏汰さんも同じです」
「だから奏汰さんはあんなことを……」

 柚香は目に涙がせり上がり、すがるように獅狛の作務衣の腕を掴んだ。

「そんなの嫌です。獅狛さんのことも奏汰さんのことも……仁科さんたちのことも……忘れたくないです!」
「ですが、それは本来生じるはずのなかった出来事、記憶なのです」

 柚香の目から涙が溢れ出した。