「いいや、さよならだ」

 奏汰が首を左右に振った。いったいなにを言っているのか、と思ったとき、柚香の手が奏汰の体をすり抜けた。

「えっ!?」

 さっきまでしっかり合っていた奏汰の視線が、宙をさまよう。

「獅狛さんが、魂に実体を与える力を作動させるのをやめたんだ。だから、俺にはもう柚香ちゃんの姿が見えない」
「えっ、嘘、だって、私には奏汰さんは見えてるのにっ」

 柚香は焦りながら奏汰の腕に触れようとした。しかし、手は奏汰の体をすり抜け、宙を掻くだけ。

「なんで、私が魂って、いったいどういうこと!?」

 柚香は窓の外に獅狛の姿を探した。焦げ茶色の作務衣を着た獅狛の姿を見つけ、ホッと息を吐く。

「獅狛さん、奏汰さんがおかしいんです」
「おかしくありません」

 獅狛は車の外から右手を差し伸べた。その彼の手はドアをすり抜けて、柚香の手を掴む。

「え、なんで」

 柚香は獅狛の手に引かれ、なんの衝撃も感覚もなく、車体を通り抜けた。

「なにこれ、嘘、どういうこと!? 本当に私……?」

 違うという答えを期待して柚香は獅狛を見上げたが、彼は小さく首を縦に振った。

「そんな、じゃあ、私は……死んで幽霊になった……ってこと?」

 柚香はその場にくずおれそうになり、獅狛が左手を彼女の腰に回した。

「亡くなってはいません」
「でも、だって、体が!」

 柚香は全身がガクガクと震え出した。獅狛の手を両手でギュッと握り、すがるように見上げた。獅狛は悲しげに微笑む。

「一週間前、柚香さんは白い大きな犬をはねそうになって、ハンドルを切りましたね」
「あの犬は……獅狛さんだったんですよね?」
「はい。人の姿から犬の姿になったばかりで、とっさに避けることができませんでした。実体を持っていたあのときに車とぶつかれば、私は大怪我をしていたか、命を失っていたかもしれません。ですが、柚香さんが私をかばってくれました。そして、事故に遭われたのです。つまり、私があなたの運命を変えてしまった。あれは本来なら、起こってはならない事故だったのです」
「あのとき、私は死んだんですか!?」

 獅狛は首を左右に振った。

「さっきも言いましたが、亡くなってはいません。怪我は負いましたが、快復することは可能でした。ですが、柚香さんは生きることを諦め、魂が死にかけていました。魂が亡くなれば、体も同様です。本当なら死ぬはずのなかった柚香さんが、私をかばったせいで生きることを諦め、死に瀕している。私は柚香さんに生きる気力を取り戻してもらおうと、柚香さんの魂をししこまにお連れしたのです」