柚香は漢字を頭の中で思い浮かべた。獅子(しし)の獅と狛犬(こまいぬ)の狛だ。

「ああ、だから、お店の名前が“ししこま”なんですね」

 柚香は小さくつぶやいた。獅狛はにっこり笑って言う。

「はい。では、目が覚めたようですので、昼食でもいかがですか?」
「昼食、ですか?」

 柚香は眉を寄せた。

「もう昼過ぎですから」

 言われて柚香は自分の左手を見た。腕時計は二時を指しているが、それは夜中の二時ではなく昼の二時ということらしい。

「私……すごく長く寝てたんですね!」

 柚香は恥ずかしくなって頬を赤らめた。

「そうですね。でも、お疲れのようでしたから」

 獅狛は言って、短い廊下の先にある階段を片手で示した。

「さあ、一階へどうぞ。うちは普段お茶しかお出ししていませんので、たいしたお構いはできないのですが、ぜひ召し上がっていってください」

 助けてもらったのはこちらの方なのに、食事までごちそうになるなんて申し訳ない。

 その気持ちのまま、柚香は階段を下り始めた彼の背中に声をかける。

「あのっ、私、今日はこれでおいとまします。後日改めてお礼とお詫びにお伺いします」

 獅狛は足を止めることなく階段を下りながら答える。

「いいえ、あなたは私の恩人ですから、このままお返しするわけにはいきません」
「でも」

 さらに断りの言葉を言いかけたとき、柚香のお腹がひもじそうな音を立てた。

「あっ」

 柚香は反射的に両手でお腹を押さえた。そういえば、昨日の昼からなにも食べていなかった。だが、この一ヵ月、まともに食欲が湧いたことはなかったのだ。それなのに今、空腹を覚えたことに柚香は驚いた。

「遠慮なさらず」

 獅狛が振り返ってにっこりと笑った。温かな笑顔を向けられて、淀んでいた心に清流が流れ込んできたような気さえする。

「それじゃ……お言葉に甘えて……」

 そんな言葉が柚香の口から自然にこぼれ、獅狛は満足げに頷いた。