柚香は手を伸ばしてそっと後頭部を撫でた。続いて肩や腕、脚……とあちこち触ったが、どこも痛みを感じない。腕まくりをしたが、痣ひとつ、打ち身の痕ひとつ見当たらない。

「私……ぜんぜん怪我をしてないみたいなんですけど……?」

 柚香は信じられない気持ちでつぶやいた。戸襖の向こうからくぐもった低い声が返ってくる。

「そうですね……とても運がよかったのかもしれません。お医者は必要ないと思いまして、こちらにお連れしました」
「そんなことって……」

 柚香は困惑して首を小さく左右に振った。

(ありえるの?)

 けれど、本当にどこも痛くなければ、なんの異常も感じないのだ。

(信じられないけど……この人の言う通りみたい……)

 それを認識したとたん、助かったという喜びではなく、落胆が押し寄せてくる。また行き場のない苦悩に満ちた日々が始まるのだと思うと、世界が急に暗くなったように感じた。

 柚香は重く長いため息をついた。

 しかし、いつまでも他人(ひと)さまの家で落ち込んでいるわけにもいかない。柚香はどうにか気持ちを奮い立たせて戸襖に近づき、ゆっくりと横に引いた。そしてその向こうに立っている人物に礼を言おう顔を上げて……大きく息をのむ。

 そこにいたのは、この世のものとは思えないほど美しい男性だった。

 髪は艶のある漆黒で長く、首の後ろで緩くひとつにまとめられていた。肌は陶器のように滑らかで美しい。目は切れ長の二重で、瞳は金が交じったような不思議な茶色をしている。すっと通った鼻筋と、細めの唇が凛々しい印象だ。身長は柚香より二十センチ以上高く、百八十センチは優に超えているだろう。年齢はよくわからない。濃紺の作務衣という格好と、漂う落ち着いた雰囲気から、三十歳くらいにも見えるが、もしかしたらもっと若いかもしれないし、ずっと年上かもしれない。

 男性が小さく首を傾げ、柚香は見とれていたことが恥ずかしくなった。

「ええと、あの、助けてくださってありがとうございました」

 柚香は深々とお辞儀をした。

「いいえ、こちらこそ。先に助けていただいたのは私の方ですから」

 柚香は顔を上げて男性を見た。男性は端正な顔に優しげな笑みを浮かべている。

「私は西川柚香と言います。あなたのお名前を教えていただけますか……?」

 男性は一度頷いて答える。

「獅狛(しはく)と申します」
「シハク、さん……?」
「けものへんに師弟の師と書く獅に、けものへんに白と書く狛です」