(こうなったら片っ端から表札を見ていくしかないか……)

 気が遠くなりそうな作業だがやるしかない。決意を固めて歩き出した瞬間、鼓動がドクンと強く打った。

「あ……」

 全身に衝撃が走ったかと思うと、急に息苦しくなる。

「なに……?」

 それでも一歩踏み出したが、喉が詰まったように呼吸が苦しく、ヒューヒューとかすれた音が口から漏れた。

「は……」

 柚香は口を大きく開けて喘ぐように息を吸った。だが、立っているのがつらくなり、一軒の家の横で崩れるように座り込んだ。石垣に背中を預けて空を仰ぐ。

「う……あ……」

 苦しくてたまらず胸元をギュッと握ったとき、女性の話し声が聞こえてきた。目だけ動かすと、仁科たち女性三人が歩いてくるのが見えた。

(助かった……)

 柚香は立ち上がろうとしたが足に力が入らず、喉から絞り出すようにして声を出す。

「に……仁科さん」

 だが、三人は楽しそうに話をしながら柚香の目の前を素通りしていく。

「河村さ……瀬戸口……さ」

 柚香は必死で手を伸ばしたが、三人は柚香の方をチラと見ることもなく角を曲がった。

「今日はなにが食べられるかしらねぇ?」
「焼き菓子かしら、冷たいお菓子かしら」
「本当に楽しみだわぁ」

 三人の声が小さくなって、聞こえなくなる。

「な、なんで……」

 柚香は手を伸ばしたまま力尽き、その場にうつぶせに倒れた。

「だ、誰か……」

 どうにか右手を動かしてコートのポケットを探り、スマホを取り出した。顔の前に持ってきたら、圏外の表示が消えてアンテナが立っている。

 画面をスワイプしようとしたが、うまく指先が動かない。

(もしかして……事故の後遺症……? 今頃……?)

 もうろうとする意識の中、ふと獅狛の顔が浮かんだ。彼がときどき見せる笑顔や照れた表情を思い出す。

『怖いとすれば、柚香さんの作ったお菓子を食べ逃すことです』と柚香を受け入れてくれたときの不敵にも思える笑み。
『柚香さんのことは私が守ります』と向けてくれた思いやりのこもった眼差し。
『あなたに危害は加えさせませんから』と強く抱きしめてくれた温かな体温。

 車が横転したときには手放そうとした“生”に、今は少し執着を覚えた。

(こんなことになるのなら……気持ちを伝えたらよかった……)