獅狛は相変わらず湯飲みを見つめたままだ。

「はい。じゃあ、私はお客さまもいませんし、少し休憩しますね」

 柚香は靴を脱いで廊下に上がった。わざと足音を立てながら階段を上り、しばらく二階でじっと待つ。

(もういいかな)

 数分してからコートを羽織り、スマホと財布をポケットに入れて、足音を忍ばせながら階段を下りる。真ん中辺りに来たとき、階段がギシッと音を立て、ヒヤリとした。息を潜めて様子をうかがったが、ししこまからはなにも聞こえてこない。さらに慎重に階段を下り、抜き足、差し足で廊下を歩いて、暖簾の陰から厨房を覗いた。獅狛は持っていた湯飲みを食器棚に戻したところだった。

 柚香は静かに手を伸ばして靴を掴み、ゆっくりと持ち上げた。獅狛の方は棚から湯飲みを選んでいる。

 柚香は息を殺したまま、足音を忍ばせて廊下を歩き、裏口に向かった。靴を履いて、音を立てないよう裏口の扉を横に引く。

 ようやく体を通せるだけ開き、柚香はそっと外に出た。そろそろと扉を閉めたが、最後にカタンと小さく音が鳴った。

 息をのんで耳をそばだてたが、獅狛が気づいた様子はない。

 柚香は胸を撫で下ろしたが、これからが大変だ。厨房から見とがめられないよう、身を低くして静かにししこまの横を抜け、前庭から外に出た。

「ふぅ」

 いつの間にか冷や汗が浮いていて、柚香は手の甲で拭った。

(『ひとりで出かけてはいけません』っていったいなによ。私は子どもじゃないし、住み込みで働くからって、外出に獅狛さんの許可がいるなんておかしい)

 柚香はイライラしながら左右を見た。右手は途中で曲がりながら狗守神社の参道へと続いており、左手は広い田んぼの間を通って住宅地へと伸びている。

 住宅地に行って住民の名字が掲載された町内看板を探そうと思い立ち、柚香は左に歩き出した。看板を見つけたら、仁科か河村か瀬戸口の名前を探すつもりだ。

 途中でスマホを見たが、まだ圏外だった。ようやく住宅地に到着し、当てずっぽうで角を右に曲がった。振り返っても、ししこまが見えなくなり、勝手な行動を取った罪悪感が薄れて肩から力が抜ける。

「町内看板は……」

 きょろきょろしたが、それらしいものは見当たらない。