獅狛が視線を上げ、柚香もつられて頭上を見上げた。すると、楠のずっと上の方、薄暗くかすんだ空間に、最初に見たカフェの空間が広がっていた。目をこらすと、ふたりの男女がテーブル席に座っている。けれど、それはあの若いアキコとオースティンではない。二時間前に来店した高齢の女性と、同じ年頃の高齢の外国人男性だった。

 そのふたりの姿はぐんぐん上昇して……やがて薄暗くかすんだ空間の中に、掻き消されるようにして消えた。

 ふと視線を下げて女性客が座っていた席を見たら、そこは空っぽだった。

「旅立たれたようです」

 獅狛が穏やかな声で言った。

「ええっ」

 柚香は空になった椅子から頭上の世界に顔を向けた。しかし、もう頭上に先ほどのふたりの姿はなく、薄暗い空間に楠の枝葉だけが見える。

「あの……お客さまって……」

 柚香はつぶやくように言った。

「アキコさんですか?」
「はい」
「柚香さんが和室で夕食を食べている間に、お話を聞きました。アキコさんは何年も前に亡くなられていたのですが、未練によってこの世に留まっておられたのだそうです」
「ちょっと待ってください。何年も前に亡くなったって? この世に留まってたって? つまりアキコさんは……」

 柚香はゴクリと唾を飲み込んだ。

(まさか……幽霊!?)

 言葉にせずに目で獅狛に問いかけたら、彼はゆっくりと頷いた。

「そうです」

 柚香は右手で自分の頬をギュッとつねった。

「い、痛っ。痛いけど、でもっ」

 それでもさっき見た光景が信じられず、さらに頬を引っ張る。

「きっとなにかの間違いだよ。私、二十三年間、一度もそういうのが見えたことないもん!」
「柚香さん」

 獅狛が柚香の右手をそっと握った。

「夢か幻かなにかのはず!」

 獅狛がもう一度、静かな声で名前を呼ぶ。

「柚香さん」

 彼の表情はどこまでも真剣だった。

 さっきまで目にしていた不思議な光景。目の前から忽然と消えた女性。そして獅狛の話。

 それがなにを意味するのか。

 柚香は頬から手を放し、獅狛が静かに言葉を発する。

「アキコさんは戦争が原因でオースティンさんと結ばれず、戦後、家業のために望まぬ結婚をしました。ですが、子どもに恵まれず離縁されてからは、ひっそりと暮らしていたそうです。イギリスで恋をした彼のことを想いながら……」
「彼女が言ってた『私たちの恋は許されないものだった』って……そういうことだったんですね」