そのとき、なにの前触れもなく、風が葉を揺するようなさわさわという音が聞こえた。直後、足元を風がひゅーっと吹き抜ける。

「えっ!?」

 どこか窓でも開いているのかと柚香は辺りを見回した。けれど、ししこまの窓はすべて閉まっていた。入り口の格子戸もピタリと閉じている。

(どういうこと!?)

 戸惑っている間にも、風はどんどん強くなり、ついには目が開けられなくなった。柚香は右手で顔を覆いながら、手探りで椅子の背を掴んだ。室内にいるのに強い風が吹き荒れ、不安と恐怖が押し寄せてくる。

「お客さま、大丈夫ですか? お客さま!」

 柚香は必死で女性客に呼びかけたが、返事はない。

(お客さまの身になにかあったら、大変!)

 柚香は目を開けて指の隙間から覗いた。強い風のせいで視界が効かず、女性の姿も獅狛の姿も見えない。だが、楠を中心にして風が渦を巻きながら吹いていることだけはわかった。

 ゴウゴウと激しい風の音が耳に響く。

「獅狛さんっ、どこですか? 大丈夫ですかっ!?」

 柚香は風の音に負けまいと声を張り上げた。

「柚香さん」

 かすかに獅狛の声が聞こえて、柚香は店内を見回した。けれど、風が激しく渦を巻き、彼の声がどこから聞こえてきたのかもわからない。

 怖くて心細くて柚香の目にじわっと涙が浮かぶ。

「獅狛さん……無事ですかっ」

 再び呼びかけたとき、今度はすぐ後ろで獅狛の声が聞こえた。

「はい、無事ですよ」
「獅狛さんっ」

 柚香はパッと振り返った。風に髪を乱されながらも、落ち着いた表情の獅狛を見つけ、安堵に押されて彼にしがみついた。

「大丈夫ですよ」

 獅狛は柚香をふわりと抱いた。

「こ、これって竜巻ですか? なんで……店の中がこんなことに!? お客さまの姿が見えないんです……っ」

 柚香の目尻からポロポロと涙がこぼれた。

「大丈夫です」
「どうして? なにが大丈夫なんですか!?」
「柚香さん、落ち着いて。心配しないでください」

 獅狛は親指で柚香の涙を拭い、胸にギュッと抱き寄せた。獅狛の腕に包まれ、彼の温もりを感じるにつれて、柚香は徐々に心が落ち着いてくる。

「いったいなにが……?」
「時間が巻戻っているのです。楠が彼女の強い想いに応えて力を働かせたのです。時の流れを司る木ですから」
「え? 楠がなんですって?」

 柚香が顔を上げたとき、唐突に風が止んだ。視界を掻き消すように吹き荒れていた竜巻が、嘘のように静まっている。それだけでも驚きなのに、目の前には信じられない光景が広がっていた。柚香たちがいるのは、ししこまの店内ではないのだ!