柚香はオーブンの扉を閉めてタイマーをセットすると、振り返って女性客を見た。彼女はテーブルに古そうなアルバムを広げ、両手で湯飲みを持ったままそれを眺めていた。その表情が、見る者の胸を苦しくさせるほど、悲しげで寂しげだ。いったいなにが彼女にそんな表情をさせているのか気になったが、踏み込んで聞くことははばかられ、柚香は使った道具を洗い始めた。獅狛はといえば、厨房の中で椅子に座り、瞑想するかのように目を閉じている。

 気になってまた女性客を見たら、ちょうど彼女がアルバムのページをめくり、モノクロの写真が貼られているのが見えた。はっきりとはわからないが、ひとりの人物の写真のようだ。女性の目に涙が光り、柚香は手元に視線を戻した。

 店内には柚香が食器を洗う音と、オーブンの立てる低い音しかしない。だが、ほどなくして、バターと砂糖の混じった濃く甘い香りが漂い始めた。柚香がラズベリージャムと粉砂糖の準備をしていたら、オーブンが焼き上がりを知らせる電子音を鳴らした。

「いい匂いですね」

 獅狛が目を開けて柚香を見た。

「はい。うまく焼けました」

 柚香はオーブンからケーキを取り出し、少し置いてケーキを型から外した。網の上で冷ます間に、小鍋にラズベリージャムと少量のブランデーとレモンを入れて煮立てた。生地が冷めてから、一枚の上にラズベリージャムを塗り、もう一枚をのせて、表面に粉砂糖を振る。

「これから一時間くらい置いた方が、ジャムがなじんでしっとりした食感になるんですけど……」

 これ以上待たせるのも申し訳ない気がして、柚香は「もうお出ししましょうか」と獅狛に小声で尋ねた。けれど、獅狛が答えるより早く、テーブル席から女性の声が聞こえてくる。

「いいえ、待ちます。一番おいしいときに食べたいですから」

 柚香が見ると、女性は顔を上げて柚香を見た。そうして一度頷き、再びアルバムに目を落とす。

「柚香さんは夕食の続きを食べてきてください」

 獅狛に声をかけられ、柚香は食事の途中だったことを思い出した。

「獅狛さんは?」
「私はあとで構いません」
「わかりました。じゃあ、お言葉に甘えてお先にいただきますね」

 柚香は和室に戻ってコタツ机の前に座った。獅狛が温め直してくれたので、ありがたく食事を再開する。

 食べながら掛け時計を見たら、もう九時近かった。

(こんな夜に本当にお客さまが来るなんて……びっくりしたな。でも、獅狛さんはこれまでいつもひとりで対応してたんだよねぇ……)