獅狛は静かにカウンターを回って、中へ入るよう手で促した。男性は店内を見回し、楠を見た瞬間、あんぐりと口を開けた。

「こ、これは……楠の回りに家を建てたんですか?」

 柚香は心の中で苦笑した。ししこまに初めて来たら、こんな反応になるのが普通だろう。

 獅狛は淡々とした口調で答える。

「はい。狗守神社のご神木の実から育った楠です」
「ご神木の……。立派に育ちましたねぇ」

 男性は感心したように楠を見ながら、カウンターに近いテーブル席に座った。

「しかし、こんなところにこんなお茶処があったとは知りませんでした。狗守神社には久しくお参りしていなかったものですから」

 男性は首にかけていたタオルで額を拭って、大きく息を吐き出した。足元は黒い長靴で、乾いた土がついている。

「農作業をされていたんですか?」

 獅狛に問いかけられて、男性は頷く。

「はい。昨日から稲の刈り入れをしていましてね。ようやく全部終わって稲を干したところです」
「それはお疲れさまでしたね」
「ありがとうございます」

 男性は店内を見回して、獅狛に視線を戻す。

「メニューはありますか?」
「本日、ししこまでは深蒸し茶をお出ししています」

 獅狛の言葉を聞いて、男性は物問いたげな表情になった。

「深蒸し茶、ですか? コーヒーや紅茶ではなく?」
「はい。ししこまではお疲れの方にホッと一息ついていただきたくて、お茶をお出ししております。本日はししこまのパティシエール特製の抹茶ババロアに合わせて、深蒸し茶をご用意しております」

 男性は迷うように目を動かした。

「あー……ええと、確かに疲れたので甘いものを食べたいなとは思ったのですが……そのぅ、価格表示がないようですが……?」
「もともと狗守神社にお参りいただいた方をねぎらいたくて、ししこまを開きました。ですので、普段からお気持ちだけをいただいております」

 獅狛が入り口に目を向け、その視線を追って、男性は格子戸の横の賽銭箱に気づいた。

「ええと……つまり……お代はお賽銭でいい、ということですか?」
「はい、その通りです」

 男性は首を小さく横に振りながら獅狛に向き直った。

「なんというか……その、とても変わったシステムですね」
「初めていらっしゃった方にはよくそう言われます」
「はぁ」

 男性が生返事をしたとき、奏汰が言葉を挟む。