その夜の夕食は、獅狛が豆腐の田楽や天ぷら、カボチャの煮物など、野菜を中心にした栄養たっぷりの料理を作ってくれた。食後にほうじ茶をいただいてお風呂に入ったあと、柚香は二階の和室で壁にもたれてぼんやりと外を眺めた。

 今日出会ったのは三人の女性客だけだったが、彼女たちの笑顔を見て、パティシエールを志した気持ちをしみじみと思い出した。

(私……やっぱりスイーツを作るのが好きなんだ……)

 柚香は手の中のスマホを眺めた。誰からのメッセージも着信もないその画面は真っ暗だ。

 両親に就職先が決まったと連絡しようか迷う。

 獅狛は『柚香さんがどこかほかで働きたいとお思いになるまで、ししこまで住み込みで働いてくれませんか?』と言った。奏汰だって『短い間だろうけど、よろしくね』と言っていた。獅狛としては長期間、柚香を雇うつもりはないのかもしれない。

 だったら、まだ両親には報告しない方がいいだろう。ししこまを辞めたときに、またあれこれ詮索されたり、文句を言われたりするのは嫌だ。

 そう結論を下し、柚香はスマホを充電器に挿して布団に潜り込んだ。

 耳を澄ますと、風が木の枝を揺するさわさわという音が心地よい。それ以外には……両親の小言も、車のエンジンやクラクションの音も、線路を走る電車の音も……なにも聞こえない。

 柚香は深く息を吐き出した。

(今日は厨房に立つことができたし、食べたお客さまが喜ぶ姿を見ることができた)

 柚香は久しぶりに心地よい疲労を感じて、そっと目を閉じた。



 翌日の日曜日、柚香は実家から持ってきた白いカットソーに黒のパンツ、グレーのカーディガンに着替えて、七時に一階に下りた。獅狛はもう起きているだろうかと思ったとき、厨房から包丁でなにかを切る軽やかな音が聞こえてきた。暖簾を持ち上げて覗くと、ふわっと味噌汁の匂いが漂ってくる。厨房にいる獅狛は、焦げ茶色の作務衣に草履という格好だ。

「おはようございます、獅狛さん」
「柚香さん、おはようございます」

 獅狛はネギを切る手を止めて顔を上げ、にこりと微笑んだ。

「獅狛さんは今日も作務衣なんですね」
「はい、これが一番落ち着くのです。もうすぐ朝食ができますから、座ってお待ちくださいね」

 柚香は靴を履きながら言う。

「あの、お手伝いします」

 獅狛はネギを味噌汁の鍋に入れてから柚香を見た。

「では、食器棚から食器を出していただけますか?」
「はい」

 柚香は厨房の食器棚から茶碗と汁椀を出して、獅狛がキッチンカウンターに置いていたふたつの塗り盆の上に並べた。

「今日の十時前には、奏汰さんが買い物を終えて来てくれると思いますよ」

 獅狛に言われて、柚香は昨日会った奏汰の顔を思い浮かべた。