睨みつけるような強い眼差しで見られ、柚香は視線を落とした。広翔は柚香の髪を持ち上げて、軽くキスをする。

「おまえを育てたのは、このパティスリーのスーパティシエである俺だ。おまえが今こうしてここで働いていられるのは、俺のおかげだ。その俺の恩に報いるのが、俺の部下でもあり、恋人でもあるおまえの役目だろう?」

 確かに広翔には専門学校で学んだ以外の技術を教えてもらった。けれど、それは広翔からだけではない。ほかの先輩や同僚たちからも教えてもらっている。

「でも……」

 広翔は柚香の耳元に唇を寄せた。

「かわいい柚香。今まではおまえがかわいすぎて大切にしてきたけれど、それが裏目に出たみたいだな……。恋人である俺のことを信じてもらうには、おまえを完全に俺のものにするしかなさそうだ」

  柚香が広翔の顔を見ると、彼はふいっと視線を逸らした。その一瞬、広翔の顔になにか複雑な感情が浮かんでいたような気がした。それは愛しい恋人に向ける愛情や優しさではなく……いら立ち、うっとうしさ、嫌悪のように思えた。

「広翔さん……?」

 彼のそんな表情を見たことがなくて、柚香は戸惑った。

 広翔が柚香の顎をつまんで唇を重ねる。彼と付き合って十ヵ月。これまで彼にキスされたときは甘くて幸せな気持ちになれたのに、今は胸がドキドキすることもなければ、彼とキス以上の関係に進むことを期待する気持ちも湧かなかった。逆に得体の知れない不安のようなものが押し寄せてくる。

「柚香……」

 広翔が柚香を抱きしめた。スカートからブラウスを引き出して、素肌に手のひらを這わせる。

 彼が柚香に直接触れるのはこれが初めてだ。彼はこれまで一度もキス以上の関係に進もうとしなかった。それを広翔は『柚香を本当に大切に思っているから、焦って関係を進めたくないんだよ』と言った。彼と付き合っていることはみんなに内緒だったが、それは『俺に憧れている女から柚香が嫌がらせを受けないようにするためだ』と説明していたけれど……。

 柚香の耳に、今まで聞こえないフリをしてきた同僚の声が聞こえてくる。

『私、広翔さんが系列店のパティシエールと一緒に、彼女のマンションに入っていくのを見ちゃった!』
『本社から営業の女性が来たとき、広翔さんがお店の裏で彼女と抱き合ってたよ! 彼女が本命なのかな? ショック~!』

 柚香は広翔の胸を押した。唇が離れ、広翔が柚香を見る。その瞳が、恋人のそれとは思えないほど冷めていて、柚香は身震いをした。