柚香は首を傾げて彼を見た。

「はい。ししこまには悩みや気がかりを抱えている方も来られます。そうした方たちは、いついらっしゃるかわかりません。狗守神社がいつでも参拝者を受け入れるように、ししこまもお客さまがいついらっしゃっても、お茶をお出ししたいのです」
「つまり……早朝や夜にもお客さまが来るかもしれない、ということですか?」
「はい。ですので、住み込みで働いていただきたいのです。食と住は保証しますし、光熱費もいただきません。もちろんお給料はお支払いします」

 柚香は黙って考え込んだ。

 お客さまが少なくても、スイーツを作れるなら嬉しい。今の状態では、どこのパティスリーでも柚香は雇ってもらえそうにない。そんな柚香に彼は居場所をくれようとしているのだ。こんなにありがたい申し出はない……。

 だが。

 はい、と返事をしかけて、柚香はこの一ヵ月の出来事を思い出した。あちこちに裏で手を回している広翔のことだ。柚香がししこまに雇われたと知ったら……。

「私を雇ったら、ししこまが嫌がらせを受けるかもしれません……」

 柚香は下唇をギュッと噛んだ。

 こんな田舎町まで望月家の影響力は届かないかもしれないとは思ったが、万が一ということもある。

 獅狛は小首を傾げて問う。

「どうしてですか?」
「どうしてって……私、あの望月家に目をつけられているんです……。あの有名料理評論家やコラムニストの望月一家のことは……ご存知ですよね?」

 先ほど泣きながら話した広翔が望月家の次男であることを柚香は改めて説明した。

 獅狛は表情を変えることなく言う。

「知っています。知ったうえで、柚香さんにお願いしているのです」

 ということは、広翔はこんなところにまで嘘の情報を流していたのか。

 そのことに驚きと恐れを感じるとともに、知ったうえでも柚香を受け入れてくれようとする獅狛の言葉に、心が揺らぐ。

「で、でも、あなたは怖くないんですか? 望月家が」

 獅狛は片方の口角をふっと上げた。

「怖いとすれば、柚香さんの作ったお菓子を食べ逃すことです」

 その言葉を聞いた瞬間、柚香の胸の奥から熱いものが込み上げてきた。そしてそれは涙となって、両目からこぼれる。

「わ、私……」

 柚香は慌てて袖で涙を拭った。けれど、涙はあとからあとからあふれてきて、どれだけがんばっても止まらない。

「困りました」

 獅狛の当惑した声が聞こえて、柚香はますます焦った。泣いてばかりで恩人を困らせてしまった。

「ごめんなさい……」

 柚香が目をごしごしとこすったとき、その手をふわりと掴まれた。