獅狛の手がゆっくりと柚香の背中を上下した。獅狛は黙ったまま柚香の話を聞いている。

「それなのに、権力を笠に着てあんなことをするなんて……ひどい……っ。パティスリーというパティスリーにすべて手を回して……私を働けなくするなんて……」

 胸の中で淀んでいた気持ちを次々に言葉にする。

「いったい私にどうしろって言うの!? どこに行けって言うの……っ」

 ここがどこかも、誰がいるのかも忘れて、ただ声を上げて泣いた。そうしているうちに、少しずつ、本当に少しずつ、心が落ち着いてくる。

 ひとしきり広翔への文句を言って、これ以上吐き出す言葉がなくなり、柚香はおずおずと顔を上げた。すぐそばに思いやりに満ちた獅狛の美しく整った顔があって、ドキンとする。

「ご、ごめんなさい……」

 柚香はそっと体を起こしたが、会ったばかりの男性の胸の中で大泣きしたことが恥ずかしくて、顔が赤くなった。

「私のことはお気になさらず。柚香さんの心が少しでも晴れたのなら、嬉しいですから」

 そうは言われてもやっぱり恥ずかしくて、柚香はうつむいた。

「これもなにかのご縁だと思います」

 獅狛の静かな声が聞こえてきて、柚香はゆっくりと顔を上げた。彼は金色に光る茶色の目で、柚香をじっと見る。

「よかったらうちでお菓子を作ってくれませんか?」
「え?」

 柚香は一度瞬きをした。

「うちで毎日、柚香さんのお菓子をお客さまにお出ししたい。きっと柚香さんが必要とする道具は、すべて揃っているはずです」

 獅狛が手でカウンター奥の厨房を示し、柚香は彼の手の動きに合わせて視線を動かした。

 厨房にはピカピカのシンクと大型のオーブン、それにさまざまな大きさのボウルやバット、泡立て器にヘラなど……スイーツ作りに必要な道具がすべて揃っていた。

 柚香はゴクンと喉を鳴らした。

「本当に……私が作っていいんですか?」
「もちろんです。今日これから来られるお客さまにお出しできたら、とても嬉しいです。ただ、一日に来るお客さまはせいぜい十人ほどですから、以前柚香さんが活躍されていたお店ほど、たくさん作っていただくことはできません。そこで、提案なのですが……」

 獅狛が言葉を切り、柚香は彼の話の続きを黙って待つ。

「柚香さんがどこかほかで働きたいとお思いになるまで、ししこまで住み込みで働いてくれませんか?」
「住み込みで?」