柚香は目を閉じて大きく深呼吸をした。森林浴でもしているかのように、不思議と心が安らいでくる。

「柚香さん、こちらにどうぞ」

 獅狛の声が聞こえて、柚香は目を開けた。彼がカウンター席の真ん中の椅子を引いてくれたので、「ありがとうございます」と礼を言ってそこに座った。カウンター席は七つあり、ほかには四人掛けのテーブル席が六つ、楠を囲うように配置されている。

「獅狛さんがおひとりで経営されているんですか?」

 獅狛はカウンターを回って厨房に入りながら答える。

「買い物などを手伝ってくれる者はおりますが、普段はひとりでやっています。お客さまはあまり多くありませんから」

 確かに町外れにある狗守山の麓という立地では、あまり客足は期待できないだろう。

 柚香は頭の中で地図を思い浮かべた。柚香の祖父母の家は、狗守神社から車で二十分ほど離れたところにある。狗守神社に来るときは、いつも父に車に乗せられて麓の駐車場に直行したので、こんなお茶処があったなんて気づかなかった。

 柚香は獅狛が水を入れた鍋に昆布を入れて火にかけるのを見る。

「獅狛さんはいつからここでお店をされているんですか?」
「ここ数年ですね。狗守神社にお参りしてくださった方をねぎらいたいという気持ちと、お年を召されてお参りできなくなった方に来ていただきたいという気持ちから、ここにお茶処を設けました」
「そうだったんですか……」

 柚香は首を動かして、表玄関のある方の窓から外を見る。そちらは障子が開いていて、木々に囲まれた前庭が見えた。片隅にある大木の陰に、柚香が乗ってきたメタリックグレーのレンタカーが駐まっていたが、ここからでは傷やへこみがあるのかはわからなかった。

 柚香が田んぼに落ちたところは、祖父母の家からまだ遠かったから、ここから三十分以上は離れているはずだ。それだけの距離を走れたということは、車も故障などしていないのだろう。

 それは運がよかった、と捉えるべきなのか。

 けれど、もう明るい未来なんて想像できない。パティシエールとしてやっていけないのに、生きる意味が見出せない。居場所のない世界で生きながらえさせるなんて、神さまも残酷だ……。

 もうどうしていいかわからない。

 柚香はカウンターに両肘をついて顔を覆った。鬱々としているうちに体から力が抜けて、カウンターにコツンと額をつけた。そのとき、コトリと音がして、「お待たせしましたね」という獅狛の声が聞こえてきた。