途中で休憩を挟んだとはいえ、慣れないレンタカーでの運転が三時間も続き、さすがに疲れてきた。十月中旬の金曜日、両側に刈り入れ前の田んぼが広がる午後九時過ぎの田舎の一本道は、街灯もまばらで、ヘッドライトの明かりだけが頼りだ。

 西川(にしかわ)柚香(ゆずか)は目を凝らしてハンドルを握っていたが、スーパーマーケットが七時に閉まり、コンビニさえないこの辺りで、こんな時間に出歩いている人はいないだろう。

 そう油断したのがいけなかった。ヘッドライトの光の中に、突如なにか白っぽいものの姿が浮かび上がったのだ!

(お願い、逃げてー!)

 柚香は思いっきりブレーキを踏み込んだが、その姿は見る見る近づいてくる。

(ダメーッ!)

 柚香はとっさにハンドルを左に切った。車は田んぼへと続く斜面を滑り落ちていく。ガタゴトと激しい揺れが続いた直後、タイヤが田んぼの用水路にはまり込んだのか、車はさらに大きく傾いた。

「きゃあああっ」

 エアバッグが勢いよく噴き出して視界が真っ白になる。ドンと大きな音がして、頭をヘッドレストにしたたか打ちつけた。

「ううっ……」

 クラクラする頭を必死に動かす。

 大きくて真っ白な犬がいたはずだ。無事だろうか? 怪我を負わせなかっただろうか?

 柚香は、助手席を下にして横転した車内で九十度傾いた姿勢のまま、シートベルトで座席に縛りつけられていた。身動きできず、どうにかドアハンドルに手を伸ばしたが、開けようにも力が入らない。

(どうしよう……)

 目がかすみ、意識が遠ざかりそうになったそのとき、犬の吠える声が聞こえてきた。顔を右側に向けると、サイドウィンドウの向こうに白い犬の顔が見えた。狼を思わせる凛々しくシャープな顔立ちで、心配そうに柚香を見つめている。

「無事だったんだね……。あなたを轢かなくてよかった……」

 柚香は手を伸ばして、犬の顔を撫でるようにガラスに触れた。

 犬は心配そうに鳴き声を上げて前足でガラスをこすり、ガリガリと耳障りな音がした。

「私は……いいんだ。恋も仕事も……なにもかもうまくいかなくて……。もう……生きる意味が……見つからないんだ……」

 柚香の目にじわじわと熱いものが浮かんだ。頭の中に徐々に黒いもやが広がって、それとともに意識が薄れていく。

「私が死んでも……広翔(ひろと)さんは……悲しむわけないか……。せいせいしたって思うだろうな……」

 一ヵ月前まで恋人だった十歳年上の男性の甘く整った顔を思い浮かべ、柚香の目尻から涙がこぼれた。思えばたったの二十三年、短い人生だった。夢が叶ったと思ったけれど、その夢も恋人の裏切りとともにあっけなく砕け散った。なにもかも失ってしまったからか、死を目前にしても、悲しいとも悔しいとも思わなかった。

 だんだん寒くなってきた。どこまでも沈んでいきそうなくらい全身が重く感じる。

「体に……力が……入らない……」

(お父さん、お母さん、お姉ちゃん……仕事を辞めた理由をちゃんと説明しなくてごめんなさい。迷惑かけたくなくて説明できなかったんだ……。スーツケースの中の日記帳を読んだら……わかってくれるかな? なにも親孝行せずに先に死ぬのを許してください……)

 柚香は心の中でつぶやき、そっと目を閉じた……。