本番二時間前。最後の練習に会場近くの円山のスタジオに着くと、家が近所だという深川先輩はもう先に来ていた。
ふわっとした栗色がかった髪を、今日は片側にまとめている。横顔が綺麗だ。最初に声をかけてくれて以来、サークル内では冴えないポジションでいじられる僕も、分け隔てなく可愛がってくれている。出来の悪い弟に対するお姉さんのように接してくる。ずっと頭が上がらない、憧れの人のままだった。プライベートなことはあまり知らない(ようにしている)けれど、もう半年以上は演奏で呼吸を併せてみて、深川先輩のことも少し、わかってきた。気心の知れた相手にはざっくばらんに接してくるけれど実は人見知りで、人前に出るのが大変苦手である。普段はかけている眼鏡をステージでは外して出る。見えると緊張するからだと言う。譜面は暗譜しているから問題ないとのことだけれど、本番ではよく、何かに蹴躓いている。とある二三の分野においては強烈にマニアックな傾向があると思われる。それがどの分野なのか、全容はつかめていない――と、まだ深川先輩に関しては知らないことの方がはるかに多いのは明らかで、つまり今現在はそういう関係なのである。
ただ、ユニットとしては、大部分は深川先輩がしっかりしていて主導権をとっているけれど、ほんの何か所かの、先輩がダメな所を僕が得意としていて、組合せで見ると何だか奇跡的にうまく回っているようだ。
そんな深川先輩とのひと時が今では、どうも現在時刻からだいぶずれている気がして何かと空回っている僕自身の、現在地を確認できる指針のようにも思える大切な時間になっているのだった。
「あ、それ間に合ったのね」と、頑丈な、重いギターケースを開ける僕に笑いかける。
「そうなんです。夕べぎりぎりで」
そう、昨夜あれほど急いでいた理由はこれだったのだ。
「見た目がちょっと変わってるわね。ボディが欠けたみたい」
それはフローレンタイン・カッタウェイ、という高音部の演奏性を高めるためのボディ形状で、ネックの付け根からボディの肩の部分にかけて、鋭角にえぐられたような形状になっているのである。
「装飾も凄く綺麗」と言って、深川先輩はヘッド部の大きな鷲のデザインの象嵌細工をしげしげと眺める。「本当に素敵なギターね。良かった。これで安心だわ」
これはつい最近奮発して手に入れた、僕にとっては天上界クラスのギターだった。深川先輩と少しでも釣り合いが取れるようにとの思いが、かなり無理めの決断を後押ししたのだ。せっかくの先輩と二人での晴れ舞台に、ステッカー跡が残るボロボロのギターじゃ悲しいし、歌の引け目を少しでもカバーしたい思いもあってのことだった。実際、それまで使っていた二万円の安物とは、天と地どころではなく、全く別次元に音が違った。腕前が数段上がったのではないかと錯覚するほどなのだ。
「もう、ギターのせいにはできなくなりましたけど」
「そこは信頼してるから――」
深川先輩はそうやっていつも、さりげなくやる気を出させてくれるのだ。
「じゃあ、ちょっと一回通しでリハを」と言って、深川先輩がフルートを構えた。
フルートの音色が響き渡る。突き刺さるのではなくふわりと包むような音だ。楽器の音にも人柄が出るものだと思ってしまう。呼吸を合わせて、初めて弦を爪弾くと、僕のギターは以前とは全く別の楽器のような深い色彩の音色でフルートの旋律の背後に広がっていった。これは絶対、自分の実力じゃない。「凄い、音もとっても素敵だわ」と、深川先輩も驚いた音色だった。昨夜見た変なモノの穢れも洗い流されるようだ。あれは悪い夢だ、と言い聞かせて寝たら、そのあと本当に悪夢を見て夜中に一度目が覚めたのである。とにかく早く忘れよう。
オリジナルのグループと同じように、僕は背景の木洩れ日のように先輩をサポートするのだ。良くも悪くも目立ってはいけない。特に悪い方に目立つのは厳禁だ。ガサついた音や、異物感のあるハモリは絶対に許されない。試行錯誤の末僕はついに、ウラ声でハモることで普段の悪声を抑える技に行きついたのであった。
会場は、街の中心部から西の方の山裾にある、市内で最も大きな神社である。正確には神社の敷地の一角に設けられたイベント会場だ。今日はこれから祭り関連のイベント企画の、野外ライブ演奏会に出演するのだった。スタジオから外に出ると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。神輿渡御の行列が近付いて来たのかもしれない。僕たちもいよいよこれから本番だ。
力が入り気味な僕の気配を察したのか、深川先輩は僕の肩を軽く揉みながら「いつも通りに、気楽に行きましょう」と耳元で言うのであった。
はい、もちろんです!――まずいぞ、今のでなんだか、更に力が入ったかもしれない。
ふわっとした栗色がかった髪を、今日は片側にまとめている。横顔が綺麗だ。最初に声をかけてくれて以来、サークル内では冴えないポジションでいじられる僕も、分け隔てなく可愛がってくれている。出来の悪い弟に対するお姉さんのように接してくる。ずっと頭が上がらない、憧れの人のままだった。プライベートなことはあまり知らない(ようにしている)けれど、もう半年以上は演奏で呼吸を併せてみて、深川先輩のことも少し、わかってきた。気心の知れた相手にはざっくばらんに接してくるけれど実は人見知りで、人前に出るのが大変苦手である。普段はかけている眼鏡をステージでは外して出る。見えると緊張するからだと言う。譜面は暗譜しているから問題ないとのことだけれど、本番ではよく、何かに蹴躓いている。とある二三の分野においては強烈にマニアックな傾向があると思われる。それがどの分野なのか、全容はつかめていない――と、まだ深川先輩に関しては知らないことの方がはるかに多いのは明らかで、つまり今現在はそういう関係なのである。
ただ、ユニットとしては、大部分は深川先輩がしっかりしていて主導権をとっているけれど、ほんの何か所かの、先輩がダメな所を僕が得意としていて、組合せで見ると何だか奇跡的にうまく回っているようだ。
そんな深川先輩とのひと時が今では、どうも現在時刻からだいぶずれている気がして何かと空回っている僕自身の、現在地を確認できる指針のようにも思える大切な時間になっているのだった。
「あ、それ間に合ったのね」と、頑丈な、重いギターケースを開ける僕に笑いかける。
「そうなんです。夕べぎりぎりで」
そう、昨夜あれほど急いでいた理由はこれだったのだ。
「見た目がちょっと変わってるわね。ボディが欠けたみたい」
それはフローレンタイン・カッタウェイ、という高音部の演奏性を高めるためのボディ形状で、ネックの付け根からボディの肩の部分にかけて、鋭角にえぐられたような形状になっているのである。
「装飾も凄く綺麗」と言って、深川先輩はヘッド部の大きな鷲のデザインの象嵌細工をしげしげと眺める。「本当に素敵なギターね。良かった。これで安心だわ」
これはつい最近奮発して手に入れた、僕にとっては天上界クラスのギターだった。深川先輩と少しでも釣り合いが取れるようにとの思いが、かなり無理めの決断を後押ししたのだ。せっかくの先輩と二人での晴れ舞台に、ステッカー跡が残るボロボロのギターじゃ悲しいし、歌の引け目を少しでもカバーしたい思いもあってのことだった。実際、それまで使っていた二万円の安物とは、天と地どころではなく、全く別次元に音が違った。腕前が数段上がったのではないかと錯覚するほどなのだ。
「もう、ギターのせいにはできなくなりましたけど」
「そこは信頼してるから――」
深川先輩はそうやっていつも、さりげなくやる気を出させてくれるのだ。
「じゃあ、ちょっと一回通しでリハを」と言って、深川先輩がフルートを構えた。
フルートの音色が響き渡る。突き刺さるのではなくふわりと包むような音だ。楽器の音にも人柄が出るものだと思ってしまう。呼吸を合わせて、初めて弦を爪弾くと、僕のギターは以前とは全く別の楽器のような深い色彩の音色でフルートの旋律の背後に広がっていった。これは絶対、自分の実力じゃない。「凄い、音もとっても素敵だわ」と、深川先輩も驚いた音色だった。昨夜見た変なモノの穢れも洗い流されるようだ。あれは悪い夢だ、と言い聞かせて寝たら、そのあと本当に悪夢を見て夜中に一度目が覚めたのである。とにかく早く忘れよう。
オリジナルのグループと同じように、僕は背景の木洩れ日のように先輩をサポートするのだ。良くも悪くも目立ってはいけない。特に悪い方に目立つのは厳禁だ。ガサついた音や、異物感のあるハモリは絶対に許されない。試行錯誤の末僕はついに、ウラ声でハモることで普段の悪声を抑える技に行きついたのであった。
会場は、街の中心部から西の方の山裾にある、市内で最も大きな神社である。正確には神社の敷地の一角に設けられたイベント会場だ。今日はこれから祭り関連のイベント企画の、野外ライブ演奏会に出演するのだった。スタジオから外に出ると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。神輿渡御の行列が近付いて来たのかもしれない。僕たちもいよいよこれから本番だ。
力が入り気味な僕の気配を察したのか、深川先輩は僕の肩を軽く揉みながら「いつも通りに、気楽に行きましょう」と耳元で言うのであった。
はい、もちろんです!――まずいぞ、今のでなんだか、更に力が入ったかもしれない。