深川先輩とも、この「新入生自己紹会」が縁だった。
僕がこの時歌ったのは、「木洩れ日」の曲だった。それも代表作とは言えないアルバムの、中でも目立たない曲調の地味な、でも僕自身にいつも寄り添ってくれるような、最もお気に入りの曲をコピーしたものだった。伴奏も、苦労して耳コピーでコードを拾った上で、アレンジを自分なりに変えてみた。コピーと言うよりはカバーに近い。誰も知らないはずの曲のアレンジを変えたって誰が気が付くのか、と言われる。でも、それくらいの思い入れがあるんだ! という意味を込めた、ささやかな主張のつもであった。言い換えると、ただの自己満足なのだけれど。
なのに、それに真っ先に喰いついてきたのが深川先輩だったのだ。
「今の、『木洩れ日』の『Coffee Breakのあとで』でしょう! 懐かしい、私、大好きだったの。それに、アレンジが斬新だったわ!」
「あっ、あ、はい、あの、、あの、、、うぐっ」
「えっ――ち、ちょっと、ねぇ大丈夫?」
深川先輩は、一学年上のお姉さんである。見た目も言動も派手寄りの女子が多いこのサークルの中ではあまり目立たない方なのだが、初めて見た時の、その柔らかい立ち振る舞いと物静かな姿が対照的で逆に印象深く、密かに憧れを抱いていた人だった。同時に、この場に所属していなければ僕には縁のないであろう世界の天上人であろうことも、瞬時に理解したのであるが。
そんな高根の花自らが、昔からの気の置けない友人であるかのような口調で、前触れもなく突然話しかけて来たのである。そのギャップと、いきなりパーソナルスペースの密接距離にまで飛び込んできた「近さ」に、あまつさえ白い灰になって全く無防備だった僕は真剣に心臓が止まりかけたのであった。
後に本人の語ったところによると、好きな物には見境なく一直線な傾向があるとのこと。自覚があって普段は自制を心掛けているのが、そんな物静かな印象になるのかも、との自己分析。つまり、僕の「演奏」がそんな自制が思わず外れてしまう程度には気に入ってもらえた結果である、ということらしい。
この時の出来事は「深川の瞬殺事件」としてサークル内ではちょっとした語り草になってしまった。以来、僕は深川先輩の忠実な「僕」の役回りとして周囲に認知されているようである。まあ、全然悪い気はしていないのだけれど。
そんな「新入生自己紹会」から数か月後、思いもかけず深川先輩から声がかかった。深川先輩は「Re:Person」という、ベースとピアノ、フルートのお洒落なポップス系インストゥルメンタルのユニットを組んでいたのだが、ピアノのメンバーがたまたま都合が悪くなって脱退するので、代わりに生ギターの伴奏で入ってほしい、との依頼であった。
突然の申し出に僕は戸惑った。ピアノとフォークギターでは出せる音の種類も音域も全く違うし、そんなにギターが上手いわけではない。当初はかなり腰が引け気味だった。けれど、これが深川先輩の「大丈夫よ。是非。お願い」のたった三言であっさり参加が決まったのである。
「Re:Person」は元々、メロディアスなベースラインとピアノの伴奏に乗せて、深川先輩のフルートが主旋律を奏でる形態だった。とりあえずは元のピアノのパートをそのまま受け持つ形で、もちろんそれなりにアレンジは変更したけれど、できる範囲で恐る恐る仲間に入れてもらうことになった。
長身でやや強面にうっすら無精髭がクールなベースの宮下先輩は、深川先輩と同学年だった。初対面の頃はちょっとぶっきらぼうな印象だったけれど、それは見かけだけで、実は話も面白くて面倒見が良く、僕には気さくに接してくれた。「瞬殺事件」なんて、最初に言い出したのもこの先輩で、これがメンバー内のお約束的な潤滑剤のような話題として定着し、やがてサークル内にも広がったというわけである。
もちろんベースの腕は確かで、心地よいうねりに裏メロディを乗せたリズムには安定感があって、僕は安心してギターを被せることができた。それでも、粗相をしてはいけないと、かなり必死にギターの練習をした結果、結構いい感じに絡めているかなと思えるくらいになってきた。そして、何度か本番ステージにも出させてもらった。
ところがそのうちに、いつのまにか宮下先輩が集まりに顔を出さなくなり、三カ月ほど前からは、偶発事故のように深川先輩と二人きりで活動することになってしまったのだ。
深川先輩の奏でるフルートは柔らかく心地よい音色で、私はここに居ます、という芯を持ちつつも、触れる者を優しく包み込むような広がりと深みがあって、絵画のような「静」のイメージがある。それまで対照的な「動」の部分を担当していたベースが居なくなってしまうと、改めてその存在感の大きさを思い知らされた。ここに僕はどう関わればいいのか。とても今までのようなダイナミックな動きを出すことはできない。とにかく邪魔だけはしないように、リズムだけはちゃんとキープしつつ、背後から支える感じでついて行くしかなかった。
実際にやってみると、わかってはいたことだが、ベースが抜けたことによって「Re:Person」は全く別のユニットになってしまった。伴奏の全てを僕が担うことで、今までとは違って嫌でも僕のギターの音が前面に出た、アコースティックな印象にならざるを得なくなったのである。
そして、更に困った事態が持ち上がった。トリオがデュオになって、明らかに音の厚みも物足りなくなったこともあって、ここで深川先輩が「歌物のレパートリーをいれましょう」と言い出したのである。僕と二人だけになったことで「木洩れ日」の楽曲をやりたいと言う。え、深川先輩が歌うんですか? 是非とも聴いてみたいです! え、僕も歌に参加するんですか? 深川先輩の声にハモリを入れろと――
「何事もチャレンジよ」と、深川先輩は軽い調子でさらりと決定してしまったけれど、僕の声で先輩と絡むなんて、あまりに恐れ多い話だった。ギターだから辛うじて釣り合いがとれていたのに、歌は――困った。「新入生自己紹会」以来、目立った進歩は見られなかったのだ。
やるしかないのか――と腹をくくった僕はついに、かねてから考えはしていたが踏ん切りがつかなかった、ボーカル教室に通い始めてみた。
発声の、いや、まず呼吸の方法の基礎から叩き込まれた。覚悟はしていたが、出来が悪い。色々練習しても思うような歌声にはならない。出来たと思った課題が、次の朝起きるともう出来なくなっていたりする。深川先輩は「悪くないわよ。ちゃんと上達してるし、歌えてる」と言ってくれるが、僕自身は全く納得できるものではなかった。
歌は、もうなるようにしかならない――
やっと開き直ったのはつい先週のことである。そして、今日は深川先輩と二人のユニットでの初ライブの日だった。
本番二時間前。最後の練習に会場近くの円山のスタジオに着くと、家が近所だという深川先輩はもう先に来ていた。
ふわっとした栗色がかった髪を、今日は片側にまとめている。横顔が綺麗だ。最初に声をかけてくれて以来、サークル内では冴えないポジションでいじられる僕も、分け隔てなく可愛がってくれている。出来の悪い弟に対するお姉さんのように接してくる。ずっと頭が上がらない、憧れの人のままだった。プライベートなことはあまり知らない(ようにしている)けれど、もう半年以上は演奏で呼吸を併せてみて、深川先輩のことも少し、わかってきた。気心の知れた相手にはざっくばらんに接してくるけれど実は人見知りで、人前に出るのが大変苦手である。普段はかけている眼鏡をステージでは外して出る。見えると緊張するからだと言う。譜面は暗譜しているから問題ないとのことだけれど、本番ではよく、何かに蹴躓いている。とある二三の分野においては強烈にマニアックな傾向があると思われる。それがどの分野なのか、全容はつかめていない――と、まだ深川先輩に関しては知らないことの方がはるかに多いのは明らかで、つまり今現在はそういう関係なのである。
ただ、ユニットとしては、大部分は深川先輩がしっかりしていて主導権をとっているけれど、ほんの何か所かの、先輩がダメな所を僕が得意としていて、組合せで見ると何だか奇跡的にうまく回っているようだ。
そんな深川先輩とのひと時が今では、どうも現在時刻からだいぶずれている気がして何かと空回っている僕自身の、現在地を確認できる指針のようにも思える大切な時間になっているのだった。
「あ、それ間に合ったのね」と、頑丈な、重いギターケースを開ける僕に笑いかける。
「そうなんです。夕べぎりぎりで」
そう、昨夜あれほど急いでいた理由はこれだったのだ。
「見た目がちょっと変わってるわね。ボディが欠けたみたい」
それはフローレンタイン・カッタウェイ、という高音部の演奏性を高めるためのボディ形状で、ネックの付け根からボディの肩の部分にかけて、鋭角にえぐられたような形状になっているのである。
「装飾も凄く綺麗」と言って、深川先輩はヘッド部の大きな鷲のデザインの象嵌細工をしげしげと眺める。「本当に素敵なギターね。良かった。これで安心だわ」
これはつい最近奮発して手に入れた、僕にとっては天上界クラスのギターだった。深川先輩と少しでも釣り合いが取れるようにとの思いが、かなり無理めの決断を後押ししたのだ。せっかくの先輩と二人での晴れ舞台に、ステッカー跡が残るボロボロのギターじゃ悲しいし、歌の引け目を少しでもカバーしたい思いもあってのことだった。実際、それまで使っていた二万円の安物とは、天と地どころではなく、全く別次元に音が違った。腕前が数段上がったのではないかと錯覚するほどなのだ。
「もう、ギターのせいにはできなくなりましたけど」
「そこは信頼してるから――」
深川先輩はそうやっていつも、さりげなくやる気を出させてくれるのだ。
「じゃあ、ちょっと一回通しでリハを」と言って、深川先輩がフルートを構えた。
フルートの音色が響き渡る。突き刺さるのではなくふわりと包むような音だ。楽器の音にも人柄が出るものだと思ってしまう。呼吸を合わせて、初めて弦を爪弾くと、僕のギターは以前とは全く別の楽器のような深い色彩の音色でフルートの旋律の背後に広がっていった。これは絶対、自分の実力じゃない。「凄い、音もとっても素敵だわ」と、深川先輩も驚いた音色だった。昨夜見た変なモノの穢れも洗い流されるようだ。あれは悪い夢だ、と言い聞かせて寝たら、そのあと本当に悪夢を見て夜中に一度目が覚めたのである。とにかく早く忘れよう。
オリジナルのグループと同じように、僕は背景の木洩れ日のように先輩をサポートするのだ。良くも悪くも目立ってはいけない。特に悪い方に目立つのは厳禁だ。ガサついた音や、異物感のあるハモリは絶対に許されない。試行錯誤の末僕はついに、ウラ声でハモることで普段の悪声を抑える技に行きついたのであった。
会場は、街の中心部から西の方の山裾にある、市内で最も大きな神社である。正確には神社の敷地の一角に設けられたイベント会場だ。今日はこれから祭り関連のイベント企画の、野外ライブ演奏会に出演するのだった。スタジオから外に出ると、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。神輿渡御の行列が近付いて来たのかもしれない。僕たちもいよいよこれから本番だ。
力が入り気味な僕の気配を察したのか、深川先輩は僕の肩を軽く揉みながら「いつも通りに、気楽に行きましょう」と耳元で言うのであった。
はい、もちろんです!――まずいぞ、今のでなんだか、更に力が入ったかもしれない。
――
幸いにも天気は薄曇り程度で穏やかであった。そんな中、本番は慌ただしく進行したが、特に大きなトラブルもなく、僕らの出番は無事に――深川先輩がステージ脇でケーブルに軽く足を引っかけたけれど――終了した。
初めての野外会場だったが、どうやら人前での演奏にもだいぶ慣れてきたようだ。もちろん緊張はするけれど、それも含めての「本番」だということが、最近になってやっとわかってきたのである。
ギターでのサポートは、新しいギターのおかげもあって、ほぼ完璧だったはずだ。自信があった。ただ、ハモりは――寄り添えていなかった。音程を外す、とかの事故はなかったはずだけれど――そもそも、最低限のハモリを申し訳程度に入れただけなのだが、僕の声は何だか、主旋律から剥がれ落ちてしまうような感じがしていた。実際に、マイク乗りが悪い声であるとは思う。深川先輩はどう感じたのだろうか。
ステージを降り、裏手側の出入り口から外へ出た。
「お疲れ様でした」と声をかける。深川先輩はやや放心気味である。あ、眼鏡かけて下さいね。
深川先輩は「ありがとう、お疲れ様」と言って白いハンドタオルで汗を拭い、眼鏡をかけ、ふぅ、とため息をつく。「やっぱり緊張するなぁ」
そうは言いながらも、深川先輩の演奏は普段の練習と微塵の違いもなく正確に、しかも、本番の空気に触発されてか、よりダイナミックに情感が溢れ出ている感じだった。演奏中にも関わらず、思わず聞き惚れてしまいそうになる程だった。そして、歌の方も、やや緊張気味に固い歌い出しだったけれど、その後はこれも練習通り、迷いなく、最後まで真っ直ぐに歌い切っていた。深川先輩の本番での「強さ」にはいつも感服させられるのだ。ぼくはその姿に引っ張られるように、いつもの練習以上の力が出せたような気がしていた。
深川先輩は、目を閉じて余韻を反芻しているようだった。その様子に、僕のハモリの懸念をこの場で聞いてみるべきかどうか言葉を探していた時、ふいに声を掛けられた。
「あの、すいません」
振り向くと、見覚えのない男の顔があった。思案する。どちら様でしたっけ?
思い出そうとして、目の前の男に気を取られていると「じゃぁ、反省は来週のミーティングで」と言って、深川先輩は僕と、その男にまで丁寧に会釈して観客席の方に行ってしまった。そこにはサークルの仲間達が大勢見に来ていたし、僕に、友人と思われる男が話しかけたのを見て気を利かせたのだ。それと、本当に知らない人には人見知りなのである。ああ、せっかくの至福の時間だったのに。
――で、君は誰なのかな?
大切なひと時の「締め」を邪魔された格好になり、ちょっとムッとして振り返る。全く見覚えが無い。心当たりもない。大学生のような雰囲気ではあるが、年齢も特定しにくい。首をかしげて思案していると、男が声を発した。「昨夜はお騒がせしました」
その声。調子の悪い電車のアナウンス! もしかして。
大きな手提げの鞄を開けて、ゴソゴソと引っ張り出しかけたのは黒っぽい布。
「――じゃなくて」と言って鞄をのぞき込み、今度こそ、ともう一度取り出したのは、ケムール人のお面だった。
「あーっ。やはりお前は!」と、思わず声が出た。昨夜の振り切ったインパクトからは絶対に予想もできない地味さ。声をかけられなければ、そこに居ることを認識することも難しいような――男はその場の背景として、その他大勢と一体化していた。
見覚えがなくて当然、素顔は初めて見るのだ。それにしても印象が違い過ぎた。昨夜は、闇の中でも浮き上がるような禍々しさすら全身から漂わせていたのに、それが今は穏やかな湖面のような空気感である。仙人? 修行僧? 完全に別人だった。
本当? と皴を寄せた眉間の前にケムール人のお面が突き付けられた。
「そういう反応を想定して、持ってきたのです!」と言う。ちょっと、したり顔だ。
「足りなければ――」
「あ、もういい。わかった。思い出したよ」
更に鞄をまさぐろうとしたのを慌てて止めさせた。おもちゃのナイフとかパンツまで出されちゃかなわない――先ほど出しかけたのはパンツだったんじゃないか、という余計な推測もチラッと浮かんだが、振り払う。
「思い出していただいて安心しました」
――いや、できれば思い出したくなかったんだけれど。
「早速なんですが、実はお願いが――」
「ちょ、ちょっと待った!」
電光石火に本丸目掛けて寄せてくる男を、あわてて押しとどめる。待て。だいいち、実質初対面だろ。この男、本当に君は誰? というか。
――待てよ!
大きな疑念が沸き上がった。そもそも、どうして僕が今ここにいるのを知っていたんだ? 昨夜は名乗りもせず、あの場で置き去りにして、それっきりだったはず。財布――とかの落とし物もしなかったし。
え? まてまてまてまて。偶然――じゃないよね? そんな小道具まで持って来て。本当に、どうして?
「実はですね」と、今にも頭から煙でも出そうになっている僕の様子をじっと見ていた男が、語りだす。「あの後、こっそり後をつけたんですよ」
「何と?」
驚愕した。ギターショップまで僕の後をつけ、中で店主と話しをしている内容を店の外でこっそり立ち聞きしていたという。そこで話題に出た「明日のライブ」は、店の入り口横に貼っていたポスターで詳細を知ったのだと。
それで今ここにいるんですよと、またもしたり顔である。追っかけ行為の行き過ぎは犯罪になるぞ!
「本当に怪しいものじゃありません」と言う言葉には全く重みが感じられない。あの行為を見せられた上に、今の話では――
けれど、確かに説明には矛盾らしき部分はなかった。ではなぜあんな行為を? 抑圧されていた煩悩が溜まりに溜まって暴走したとか。
男は「改めて、僕はこういう者です」と名刺を差し出してきた。
北海大学 教育学部一年 お笑い研究サークル 無笑者の会
カジ谷 徹
カジ谷君? 大学の後輩なんだ。で、お笑い研究って何? 変質行為の実演もやっているとか――疑問は全く解消されてくれない。ここに至るまでの話の中で、関連する要素が全く見当たらなかった「お笑い」という単語に、むしろ混乱の度合いが増長する。
お笑いの仕組みの「研究」をしている――。
実演していたわけではなく、実験で――。
もう少しで完成が見えて――。
身振り手振りでそのような意味の説明を必死に投げつけてくる。実演でも実験でも、そんなの、やられる側にとってはどちらでも同じではないか。
ステージでは次のグループの演奏が始まった。サークルの先輩達のユニットで、ボン・ジョヴィの「夜明けのランナウェイ」のキーボードのイントロが流れて来る。じっくり観たいと思っていたのに――
これ以上ない、僕のしかめっ面の極限状態を感じたか、カジ谷君は懇願するように言い迫ってきた。要するに「どうして面白いのか、メカニズム徹底的に解明し、逆にそのメカニズムに則って面白いお笑いの再構築ができるところまで持っていきたい」ということらしく、
「やっと、その段階にたどりついたんです」と言う。
昨夜のは、その研究結果の実証実験だったと?
まともに考えるのも拒否したい気分ではあったが、かなり断言してもいいレベルの一般論としては、学術的に研究して面白いとされた方法で、はたして誰もが実際に笑いを起こせるものなのだろうか。
笑いが、どのような仕組みで可笑しかったかを真面目に解明したとして、それは研究成果としては価値があっても、そこからお笑いを生み出すのはまた別の問題というか、才能が必要なのではないか。文学研究者が優れた文学を書けるだろうか。音楽評論家がヒット曲を生み出せるだろうか。お笑いの研究者が笑いを取れるものなのか。
「だからこその実証実験だったんです」とカジ谷君は言う。いや、もし仮に実験だとしたら、大失敗だ。なぜなら、これっぽっちも面白くなかったからである。まあ、そんな中で強いて一番面白かったのは最後の財布のくだりかな――
「あれは、演技じゃなかったんですが」
「ますますダメじゃないか!」
「そうなんです。どこがダメだったか、一度詳しく解説していただきたくて」
どうやら、僕があの場で逐一的確な「ツッコミ」もしくは「駄目出し」をしたことに痛く感銘を受けたというのが、彼が今ここに居る理由らしい。
的確な、と言われても、昨夜は理不尽さに囚われて、感情に任せた思いつくままを言い放っただけなのだが。
「是非とも協力していただけませんか」
カジ谷君は更に寄せてくる。なんだろう、この、ある意味純粋な突進力は。
嫌だ、と言いたい気持ちが99%――なのだが、昨夜の出来事に関連しては別枠で気になることがあった。
「今日のステージ、見てたんだよね。どうだった?」
「はぁ。綺麗な方ですねぇ」
「そうじゃなくて、演奏内容とか、歌とか――」
僕の突然の問いかけに、しばらく目を閉じて顎に手を当てていたが、やがて先ほどと同じような身振り手振りで語りだした。
「女性の方は自然体で、声が心地よく伝わってきましたけど――あなたの方は、ちょっと窮屈そう、というか無理しているというか。こう、うまくこちらに伝わってこなかったですね。感じたのは、なんというか、声が外に向かってじゃなくて自分の中に迷い込んでいるいるような――」
――もう十分。
その通りだった。深川先輩の声は真っすぐに体の真ん中から偽りなく発せられたものなのに、僕の声はちゃんとそれに向き合えていなくて、上辺を取り繕っただけ。
「だって、昨夜の声の人とは別人だと思っていました」とカジ谷君は言う。
間近で見て、やっと僕を昨夜見た同一人物と認定したとのことである。
生のライブはほとんど観たことがない、というカジ谷君。僕の歌を初めて聴いた、恐らくは真っ正直な感想だろう。
そう。僕の歌は深川先輩までも届いていない。現状の精一杯を出し切ったつもりでも、僕の歌なんてそんな程度だ、と納得しようとしていたけれど。いや、ギターではそうは感じない。ちゃんと先輩の歌やフルートと対話ができている感触があるのに――。
「わかった。一度だけなら付き合おう」
カジ谷君は、痛い所を的確な言葉で突いてきた。それに、実は気付いたのである。昨夜からカジ谷君相手だと、なんとなくあの「通る声」に近いイメージで話が出来ていることを。おまけに、ステージ脇のかなりの騒音の中で、である。
それより――これは偶然なのだろうか。
体を左右に小刻みに揺らして無邪気に喜びを表現しようとしているカジ谷君に少し興味がわいてきたかもしれない。
要領の悪い疫病神にしか見えないカジ谷君の申し出を受けようと思ったのには、決め手になった理由があった。
カジ谷君の言葉で何より驚いたのが「自分の中に迷い込んでいる」という、このフレーズである。これが偶然とは思えなかった。まさか、ここでこのキーワードを聞くことになるとは思わなかったのだ。
僕は深川先輩との「Re:Person」とは別にもう一つ、「北窓」という同級生とのデュオを結成していた。こちらも、新入生自己紹会を機に結成したものである。相棒の北山は同じジャンルの別グループの大ファンで、デュオという演奏形態が同じことから互いの思惑が一致し、結成の運びになったのであった。
「北窓」という名称は、二人の苗字からそれぞれ一部を抜き出して合わせる、安直だが正統的なやり方をちょっと捻ったものである。昔からよく間違われるのだが、初対面の時、北山が僕の苗字「真堂」を「まどう」と読んで以来、僕のことをそう呼ぶようになって――今では同学年の連中の間でも、その呼び名が定着しているのだが――そこから、「きたやま」の「きた」と「まどう」の「まど」を合わせた「きたまど」に、語感の良い漢字を当てた、というのが正式な由来だ。最初、僕は「北山堂」を提案したのだが、骨董品屋みたいで嫌だ、と即時却下されたのである。僕はいいと思ったのだけれど。
当然、活動も「北窓」がメインになるはずだったのだが――。
北山はひょろりとした体形の長身で、男前なんだけれど、猫背で覇気がないというか意気地がない。普段は穏やかだが酔うと暴れる、人格が変貌する系の優男だ。けっこう僻みっぽく、卑屈になりがちな欠点もある。絶望的観測から入るのが人生のセオリーだ、などと、歌の世界からの受け売りのモットーを口癖にしている奴だ。あの新入生自己紹会では、誰もが知るフォークソングの「泣ける名曲」の、二番の歌詞を「ど忘れ」して演奏が止まってしまい、五秒間ほど金魚のように口をパクパクさせて右手を振り回していたが、結局思い出せず一番をもう一度歌いはじめ、その最中に今度は急に二番を思い出して、歌詞がごちゃ混ぜの意味不明な自分にパニック状態となり、最後は訳も分からず絶叫で締めくくるという、伝説のパフォーマンスを打ち立てた猛者でもある。あれは地獄だった、といまだに事あるごとにこぼしているし、その後、何曲か作った彼のオリジナル曲に二番の歌詞がないのはそのせいらしい。