「放課後の幽霊って、どうして出るようになったんだと思う?」

いつもの待ち合わせの渡り廊下。生徒が行き交う中庭を見下ろして、彼女が言った。幽霊探しを開始するまでのおしゃべりも今日で最後だ。

「それは俺も何度か考えてみたよ。見ると願いが叶うってところがポイントだと思うんだけど」
「そうだね。そこをどう解釈するか。ありそうなのは、自分の代わりに……ってところかなあ?」
「俺は悲しい話よりも幸せな理由の方がいいなあと思ってて」

彼女が小さく微笑んだ。それに促されて先を続ける。

「一番気に入ってるのは、空気がつくり出したっていうやつかな」
「空気?」
「そう。空気っていうか、雰囲気? いや、やっぱり空気かな。歴代の先輩たちが過ごしてきた楽しかった気分とか、この学校への愛着、そういうものが校舎にしみ込んでいて、それが形をとって現れる……みたいな」
「ああ」

彼女の瞳が理解できらめく。

「幽霊って呼ばれてはいるけど」
「そう。それは実体が不明だから名付けられただけであって、ほんとうに誰かの霊ってわけじゃない」
「うん。いいね、それ」

満足そうな笑顔につられて俺も思わず微笑んでしまう。――と。

「尾張くんらしい。ちょっとロマンティックで」
「え? ロマンティック?」

思わぬ評価に面食らう。あまりにも意外な言葉で、喜ぶべきなのかどうかもよく分からない。しかもそれが「俺らしい」なんて。

「そうだよ。『楽しい気分が校舎にしみ込んでる』なんて聞くと、昔の生徒の笑い声が聞こえてくるような気がする。木漏れ日とセピア色の景色も目に浮かぶ。それが今のわたしたちに幸せをもたらすなんて、ロマンティック」
「いやそれは……、なんか、俺に間違ったイメージ持ってない?」

彼女が「ふふっ」と笑った。それからあのちょっと得意気な、そして挑戦的な顔をして。

「イメージは見たひとが判断するものだよ。だから、わたしがどう思っても自由でしょ?」
「それはそうだけど」

だからといって、ロマンティック? きのうは癒し系なんて言われたし……。

「ご不満ですか?」
「いや、べつに不満ではないけど……」

強いて言えば、ちょっとくすぐったい、というところか。自慢できるような気もするけれど……加賀が聞いたら爆笑するだろうな。

「そろそろ始めようか」

中庭を確認した彼女が言った。俺も隣から中庭を見下ろす。

「今日で最後だね」

「うん」とうなずいた彼女は、決意を示すように口許をきつく結んだ。





『西階段に到着』
『東端OK』

返信して目を上げる。

目の前に続く長い廊下。この奥の階段で彼女が見張っている。今日は北側の校舎に絞って連携して見張ることにしたのだ。今、俺は1階の東端にいる。

『上から男子1』

彼女からのメッセージ。少しすると、制服姿の男子生徒が廊下の向こう端に現れた。

『確認』

ふたりとも別なタイミングで確認できたということは、彼は消えていない。つまり幽霊ではないという判断だ。

突き当たりの壁に寄りかかってスマホをいじっている俺は、たぶん、彼の眼中にないだろう。正面だけれど、かなり距離があるから。思ったとおり、彼は俺をちらりとも見ずに渡り廊下へと曲がって行った。

北校舎の1階は教室3つ分くらいの図書館と、何に使われているのか分からない部屋が並んでいる。生徒の出入りがあるのは渡り廊下のこちら側にある図書館だけだ。それ以外は「教材室」「書庫」などの表示はあるものの、戸のすりガラスの中はいつも暗くて、俺はなんとなく、蜘蛛の巣の張った荷物置き場を想像している。廊下は校舎の北側をまっすぐ通っていて、窓からはテニスコートや小グラウンドが見える。

今年の春までは俺もあのテニスコートを走り回っていた。そう思うと、温かいなつかしさと同時に自分の青春が終わってしまったような淋しさも感じる。こういう気分も幽霊のもとになるのかも……なんて思ったり。

後輩たちに悔いのない高校生活を送ってほしい。今を十分に楽しんでほしい。あっという間に過ぎてしまう3年間だから。

図書館からふたり組の女子生徒が出てきた。ふたりともリュックを背負い、くすくす笑ったり軽くたたき合ったりしながら歩いていく。ふたり組なら確認不要だと気を抜き、楽しげな後ろ姿に以前の自分を重ねてみる。

ちらりと振り返られて、あわてて視線を下げた。でも、警戒されたらしい。何かささやきあうと、小走りになって渡り廊下へと曲がって行った。

『不審者っぽく見えたかも。移動する』

少しあわてて連絡する。万が一、先生を呼んでこられたりしたら、言い訳が通用するか心もとない。樫村さんが証人になってくれても、違う意味で不審に思われそうだ。

手前の階段を上り始めた俺に、彼女から笑い顔の絵文字三つが届く。

『2階の東端』

居場所を送るとすぐに『了解』と返事が来た。

2階はこちら側に理科系の特別教室が並ぶ。渡り廊下の向こう側は家庭科系の特別教室だ。

手前の教室で活動中の生徒たちの気配がする。ガラス張りのショーケースには鉱石や鳥のはく製、エネルギーや分子の模型。それらはみなひっそりと息を詰めて、何かを待っているように見える。

ずっと向こうの教室からひとり出てきた。どうやらトイレに入ったらしい。

『西側トイレに1人。確認頼む』
『OK』

その後の確認を樫村さんに委ね、俺は階段へと引っ込む。少しすると、彼女から『確認完了』、そして『お醤油の煮物の匂いがする! 料理研究部!』『お腹空く』と立て続けに送られてきた。そう言えば、月曜日は甘い匂いが漂っていたっけ。

2階の廊下に戻ることを連絡し、少し廊下を歩くことにした。

毎日やってきたとおり、のんびりと歩を進める。ときどき窓から外をながめたり、宇宙を解説したポスターを隅々まで読んでみたり。

渡り廊下まで来て戻るか進むか迷い、ふと思った。彼女のところに顔を出すのもいいかも、と。

急に行ったらびっくりさせちゃうかな。でも、それもきっと楽しい。

歩き出すとまもなく、醤油で何かを煮る匂いがしてきた。鰹だしの香りも。理科系教室から漏れてくる控えめな声とは違い、調理室にさしかかる前から、何人もの笑い声や指摘し合う声が聞こえてくる。

――どっち側にいるのかな。

彼女のことを思う。奥の階段の踊り場で見張っているはずで、それは2階の上側か下側か。俺だったら、見下ろす方が楽そうだから上側を選ぶけれど。

「……」

階段の角から顔を出してのぞくと――いた。やっぱり上だ。真剣な表情でスマホを見ている。と、思ったら、俺に気付いた。

「あれ? 来たんだ?」

驚かなかった。少し残念。でも、にっこりしてくれたからいいや。

「今、メッセージ送っちゃったけど、そこですれ違ったよね?」
「――え?」

手の中のスマホが震えていた。画面には彼女の名前、そして。

『走って女子1』

――え?

意味を確認するために彼女を見る。彼女は俺の困惑に気付いたらしい。訝しげな顔をする。

「行ったよね? 今」
「今って、今?」
「うん。たった今」
「いや。見てない」
「そんな」

彼女が階段を駆け下りて、廊下を確認する。俺も一緒に見るけれど、まっすぐな廊下はからっぽのままだ。

「たった今なのに。ここ、曲がってった」

目を見開いて、彼女が訴える。

「確かに通ったんだよ。たたたっと上から下りてきて、わたしの前を通って2階の廊下に出ていったの。通るときに風圧も感じたし、足音もした。間違いなく実体があったんだよ」
「……でも、廊下には誰も出てこなかった」

確かにいたのに、誰もいなかった――。

お互いの顔を見つめ合う。突然、冷たい空気がつま先から這い上ってきたような気がした。