稲荷がある通りを少し東に行ったところに松乃屋は店を構えている。店舗兼住居である木造二階建ての建物は、この辺りでもかなり古いほうだ。
 通りに面した店の入り口では、創業時から掲げている看板が、その歳月を無言で語っていた。

「すみません。遅くなりました」

 走って戻った信吉が、裏口から作業場に飛び込む。

「どこほっつき歩いてんだっ!とっとと仕事にかかりやがれ!」

 間髪入れず、源造のどすのきいた声が飛んでくる。

「はい、いまっ!」

 藍染の前掛けを着け、懐から手ぬぐいを取り出すと、素早く頭に巻いた。
 それを見咎めた源造が、またも怒鳴る。

「なに、ちんたらやってんだ。そんなチャラチャラした髪なんざ、さっさと切っちまえって言ってんだろうが!」

 ほかに三人いる職人仲間は、みんな坊主や角刈りだ。

「これだから、学のある坊ちゃんは――」
「父さん、いいかげんにして! 表まで怒鳴り声が聞こえて、お客さんが怖がっちゃうじゃないの」

 店内へと続く暖簾をあげて、娘が顔を覗かせた。

「信吉さん、ごめんなさい。ちゃんとお昼はとれた?」
「はい、澄江お嬢さん。賄い、ありがとうございました。おいしかったです」
「良かった!」

 信吉がぺこりと頭を下げると、澄江の顔がほころんだ。

「澄江! ちょっと手伝ってちょうだい」
「はーい、姉さん。すぐ行きます!」

 表からの呼ぶ声に応え、おさげ髪を跳ねかせながら踵を返す。ところが澄江は、思い出したように振り向いた。

「がんばってね」

 はにかむ澄江の背後に目を移していた信吉は、慌てて笑顔でうなずいた。
 そんなやりとりを、仲間が意味ありげな笑みで見守り、源造がわざとらしく大きな舌打ちを鳴らす。

「賄いなんざ、ここにいる全員が食ってるじゃねえか」
「まぁまぁ、源さん。年頃の娘をふたりも持つ親父の気持ちが、わからないでもねぇけどよぉ」

 一番古株の清司が、笑いを堪えながらとりなしている。いつもの松乃屋の風景だ。
 しかめっ面で作業に戻った源造の手元に注意を払いながら、信吉も自分の仕事を始めた。

「信吉さん、はりきってますね。なにか良いことでもありました?」 

 一番年下の正が、肘で脇をつついてからかう。
 さっき、社でだれかとなにかを話した気がするのだが、信吉の記憶は靄がかかったようにはっきりしない。それなのに、なぜだか心の中はすっきりと晴れていた。
 自然と前向きになり、餅を捏ねる手にも力が入る。

「うん、たぶんね」

 信吉は照れ笑いで答えた。