「お千代や。カキ氷というものは、聞くほどよいものではないな」
「そうなんですか? お婆は食べたことがありませんけど」

 雑巾がけする手を休めずに、千代が答える。

「餡子の浮かんだ、ただの甘ったるい水じゃったぞ。あの餡なら松乃家のほうがうまい」

 信吉たちがカキ氷だと言って椀を置いていったのだが、あれは違うものなのか。
 しきりに首をひねるあかねに、千代が笑いを堪えて教えてくれた。

「それはきっと、溶けてしまったんじゃありませんかね。氷を削ったものですから」

 この陽気だ。ここまで持ってくる間に、もとの水に戻ったのだろう。せっかくの珍品だったのにがっかりである。

「しかし人も面倒なまねをするものよ。氷なんぞ、わざわざ作らんでも冬まで待てばよいものを」
「それでは寒くて、とても食べられませんでしょう」

 さもあらん。あかねはお揚げを丸飲みする。
 
「冬は湯豆腐に限る。あれに餡子をつけたらうまいだろうか」 
「それはどうですかねえ」

 千代が顔をシワを増やす。その表情で、あかねは冒険を断念した。
 熱々の豆腐にかけるのは、とろりと甘辛い(きのこ)の餡のほうがうまそうだ。

 境内では鳩たちがしきりに地面をつついているが、そこになにがあるのか、あかねにはとんとわからない。

「つまらんのう」

 毎日のように食べていた菓子が減って、甘味が恋しいと愚痴を溢すあかねを、千代がからかうように笑った。

「あかね様が待っていたのは、お菓子ではなくて信吉さんだったんじゃあございませんか?」
「ち、違うぞ。妾は、餡子が食べたいだけで……」

 願いを叶えた信吉は、もうあかねのことなど忘れてしまっただろう。
 それで良い、とあかねは思う。
 なにかにすがらなければ叶わない願いなど、ないに越したことがない。
 
「のう、お千代。他人(ひと)の幸せを願い事にした者は、それが自分の想いをころして叶ったとしても、うれしいものなのだろうか」

 それはあかねが、澄江に聞けなかった疑問。
 千代が少し悩んでからゆっくり口を開いた。

「そうですねぇ。この世はしがらみがあって、なかなか難しいことですけど。皆が皆、自分以外のだれかの幸せを思いやれたら、きっとよい世の中になるんでしょうね」
「ふぅん。人間とは、ほんにややこしい生き物じゃな」

 あかねが空を見上げると、ぽつりと雨粒が落ちてきた。
 もうじき、梅雨に入る。



   【 あんこ慕情 完 】