尾崎紅葉の小説、金色夜叉に登場する貫一とお宮の像が建つ観光名所『熱海サンビーチ』。
夏は海水浴場として賑わいを見せ、観光客にも人気の熱海定番スポットとして知られている。
ヤシの並木通りは地元の人たちからも愛される散歩コースだ。夜になると色とりどりの光でライトアップがされ、幻想的な景色を楽しむこともできた。
熱海海上花火大会が行われる日などは県外からも多くの人たちが訪れ、交通渋滞が起きることも常である。
その、どこまでも続く青い海を背にして国道135号を渡ると、建ち並ぶホテル群の左手に某大手コンビニチェーンを見つけることができた。
隣にはパーキングがあり、更にその左手には【干物】と書かれた食事処があるのだが──狭間にある小道に気づく人は、一体どれほどいるだろう。
一本隣の熱海銀座商店街とは対象的に、車一台が通るのもやっとであろうその道を行くと三本に枝分かれした道にたどり着く。
真ん中の道を選んで歩いていく。
ぐんぐんぐんぐん、真っすぐに歩いていくと、人ひとり通るのがやっとというほどの細い道が現れ、突き当りに【小さなお宿】を見つけることができた。
──そこは、現世と常世の狭間にある温泉宿。
二階建ての木造の建物は重厚かつ趣のある佇まいをしており、古くからこの地に息づく歴史を感じさせた。
瓦屋根につけられた木製の看板には流れるような達筆で宿名が描かれ、年季の入った紺色の暖簾の向こうから漏れる灯りが、お客様を温かく出迎える。
一見すると、歴史情緒あふれる老舗旅館のようである。
けれど、このお宿にやってくるお客様は、周囲の宿に訪れるお客様とは少々毛色が違っていた。
「いらっしゃいませ、ようこそお越しくださいました」
ほら……ご覧なさい。
今日も日々の疲れを癒やしに、【人ではないもの】がやってきた。
忙しい日常を忘れたいと思うのは、"人"だけではなく"もの"とて同じなのです。
「ああ〜、疲れた疲れた」
全国の【付喪神】の皆様、今日もお勤めご苦労様です。
働きすぎな自分へのご褒美に、ここ【熱海温泉♨極楽湯屋つくも】へ、息抜きにいらっしゃい──。
一泊目 ♨ 手鏡と、まご茶漬け
「世も末だわ……」
どこまでも続く黒い水平線を眺めながら、丹沢花は独りごちた。
東京駅から【こだま】に乗って、わずか四十五分。首都圏からほど近い温泉地【熱海】は今、活気に満ち溢れている。
日本三大温泉と呼ばれる熱海は長い歴史を持ち、湧き出る良質な源泉の湯量も豊富。
海、山があり、海産物に恵まれているうえに首都圏からも近いというのは、観光地としては珠玉の条件と言えるだろう。
しかし、熱海が現在の賑わいを見せるまでの道のりは、決して平坦とは言えなかった。
バブル崩壊後、ゆるやかに客足が遠のき、廃墟化した大型ホテルや旅館がメディアに取り上げられた時期がある。
結果として熱海には衰退した温泉地という印象がつき、客足は減少の一途を辿った。
熱海を、長らく低迷していた日本を代表する温泉地として知る人は少なくないだろう。
熱海は一度、崖っぷちに立たされた。けれど今、確実にかつての熱気を取り戻しつつあるのだ。
観光客は増え、シャッターの降りていた店は新しく生まれ変わり、カフェや老舗店は幅広い客層で賑わっている。
カメラ片手に市内の観光スポットを巡る若者も多く、SNS映えする場所を求めて訪れていた。
たくさんの人の情熱により、熱海は苦境を乗り越え、再び人気観光地に返り咲いたのだ。
その要因のひとつとも言える熱海サンビーチの夜は、今日もライトアップにより幻想的な美しさに包まれていた。
「ハァ〜〜……」
ただし、そこに立つ"花"の心は夜の海よりも相当に暗い。
つい数ヶ月前までは天にも登る気持ちでいた花は今、地べたをほふく前進で張っているような心持ちだった。
「もうほんと……なんであんなことになったんだろう」
独りごちた花は、散歩道に飾られた置物であろう【信楽焼のたぬき】の隣に、ズルズルと脱力しながら座り込んだ。
花が落ち込んでいる原因は、あまりにありがちな失恋だった。
けれどただの失恋ではない。
泥沼の、それはそれは地獄のような失恋を、花は齢二十五にして味わったのだ。
──ことの始まりは、こうだ。
四年制の公立大学を卒業した後、都内で名の知れた大手不動産会社に就職した花は、仕事に追われながらも順風満帆な日々を送っていた。
新人の頃はただガムシャラに仕事をこなし、休日返上も当たり前。靴のヒールが三ヶ月でボロボロになるほど、花は営業に勤しんだ。
すると三年が経った頃に功績が買われて、本社に二年間の出向を言い渡されるまでになった。
夢にまで見た出世コース。
人生は頑張ったら頑張っただけ報われるのだと、このとき花は確信した。
(ようやく、実家で一人暮らしをしているお父さんを安心させてあげられる……)
幼い頃に母を亡くした花にとって、父は唯一の肉親だ。
静岡市内で小さな電気屋を営む父との暮らしは、決して裕福とは言えないどころか絵に描いたような貧乏生活であったが、親子二人三脚で今日までなんとか生き延びたのだ。
だからこそ、上司に出向を言い渡されたときには天にも登るような気持ちだった。
父に電話で報告したときにも、父は電話口で娘の花が引くほどの男泣きをしていた。
『私、がんばるから! それでいつか、お父さんを日本一周旅行に連れて行くからね!』
日本全国を行脚したいというのは、昔からの父の夢だ。
花は近い未来で必ず、父の夢を叶えてあげたいと思いながら本社の敷居をまたいだ。
……ところがどっこい。
これがとんでもない地獄への入口へ繋がっていたとは、このときの花はまさか知る由もなかった。
「はじめまして。今日から君の指導係を務める杉下です」
本社で花の指導係になった杉下は、絵に描いたようなエリートイケメン上司だった。
高学歴、高身長。気遣いもできて人当たりもよく、指導も丁寧で容姿端麗とくれば、花でなくとも恋に落ちるのは簡単だ。
(これは、上司という名の相棒が杉下さんなだけに某有名な刑事ドラマ……ではなく、何かの恋愛ドラマのはじまり?)
そして期待を裏切らず、呆気なく杉下という名の恋の罠に嵌った花は出向からわずか三週間で、ふたりで食事に出掛けるまでの仲に進展した。
『……今日は、朝まで帰さない』
杉下からそんな甘いセリフを吐かれたのは、花が本社勤務になってから、ちょうど四十九日を迎えた頃だった。
憧れの上司である杉下と手を繋ぎ、夜のホテル街を闊歩する花の緊張は言うまでもなく最高潮。
これまで男っ気のなかった花にとっては、すべてが初めての経験だった。
(だけど相手が、杉下さんなら……)
花は、すべてを杉下に捧げる覚悟を決めていた。
しかし、今になって思えばあまりにトントン拍子に事が運び過ぎていたのだ。
挙げ句の果てには、この時点で花は杉下に告白すらされていなかったのだが、恋に浮かれる純情乙女に冷静かつ客観的な判断は難しい。
「──アンタ、なに人の旦那とラブホテルに湿気こもうとしてんのよ‼」
そして結果として、花は地獄を見ることになった。
天国から地獄とは正にこのことだ。
花は杉下とホテルに入ろうとしたところを、突然背後から張り倒され、受け身を取る間もなく地べたに勢い良く転がった。
「い……っ! た……っ」
花は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
ただ、擦りむいた膝には血が滲み、ストッキングは伝線して無残な姿に成り果てていた。
「怪しいから鞄にGPSを仕込んでみたら案の定だったわ! アンタ、この人と同じ会社の女でしょ!? 人の旦那を寝取ろうなんて、いい度胸してんじゃないの、クソ女!!」
「ヒトノ……ダンナ?」
花は人生で初めて自分の耳を疑った。昔から地獄耳で有名だった花は、小銭の落ちる音を聞き逃したことはなかったというのに、だ。
地べたに両手をついたまま花が顔を上げれば、閻魔大王を思わせる迫力の女性が仁王立ちしている。
「あ、あの……ヒトノダンナ、とは……?」
「しらばっくれてんじゃないわよ! つーか、知らないとか言わせないし! この人はね、去年私と結婚したばかりなの! それなのにその幸せをアンタが壊してくれたのよ! アンタは必ず地獄に落ちるわよ! いいえ、今すぐあの世に送ってやるから覚悟しな!!」
元号は令和に変わり、世の中は物騒になったものだと花は思う。初対面の女性にまさか、あの世に送ってやると糾弾されるような生き方を花はこれまでしてきたつもりはなかった。
(っていうか、結婚してるって……)
つまり花はそこで初めて、杉下が既婚者であることを知ったのだ。
社内では杉下に言われた、「会社の奴らにバレると茶化されそうだから……」と言う言葉を信じて関係を内密にしていたのだが、まさかあの言葉にこんな裏が隠されていたなんて、思いもしなかった。
「アンタがやってることは、恋じゃない! ただの不倫だからね!」
(え……ナニコレ? 嘘だよね? 悪い夢だよね?)
花は自分の頬をつねってみた。
すると、ピリとした痛みが頬に走る。
続いて花は縋る気持ちで杉下へと目を向けたのだが、杉下は縮み上がって奥様らしき彼女の後ろで固まっているだけだった。
「この件はすべて、会社に報告させてもらいますから! あと、慰謝料請求もさせてもらうわ! アンタみたいな泥棒猫、社会的に抹殺してやるから今に見てなさい!」
激昂した奥様の行動力は相当なものだった。
結果、その言葉の通り、翌日には花と杉下が不倫関係であったということが会社の上層部に報告された。
しばらくして杉下は別部署に転属。花は周囲から白い目で見られることに耐え兼ねて、結局本社に出向後わずか三ヶ月で自主退職まで追い詰められた。
退職するまでの数週間は、名前をもじられ周りに【脳内お花畑女】とまで呼ばれて心を病む手前だった。
不幸中の幸いと言ってはなんだが、メッセージのやりとりから花は杉下が結婚していることは知らなかったということだけは奥様に証明できて、多額の慰謝料を支払うことは回避できた。
だけど残念ながら、職と恋だけでなく、社員寮住まいだったために住む家まで三つ巴で失ったのだ。
そんなこんなでとりあえず、父の住む静岡市内の実家に帰ることになった花は今、帰る前に失恋&失業旅行でここ、熱海の地を訪れていた。
「はぁ〜……これから、どうしよう」
幸い、幼い頃からの貧乏生活のおかげで倹約が染み付いており、貯金の残高はそこそこある。
だけど生活のためにはすぐにでも新たな職を見つけなければならないし、良い年をしていつまでも実家にお世話になるわけにもいかないと花は頭を悩ませていた。
「消えたい……」
父にはまさか不倫未遂事件に遭ったとは言えず、職場で起きたトラブルの責任を取るために自主退職することになったと報告をした。
花が次の職が見つかるまで実家のお世話になってもいいか尋ねたところ、父は快く受け入れてくれたが、声のトーンが大分下がっていたことに娘の花が気づかないはずもない。
(お父さん、あんなに喜んでくれてたのに……)
父を、ガッカリさせてしまった。それもこれもすべて、ゲスの極み杉下のせいだと恨まずにはいられない。
「本当に、どうしてあんな奴に引っかかっちゃったんだろう……」
しかし、花の不幸はこれだけに留まらなかった。
一月の夜の海は、身が凍りつきそうなほど寒い。コートの襟に口元を埋めてズズッと鼻を啜った花は本来、日の出ている時間にこの地を訪れる予定だった。
今日は社員寮の引き上げ日。本来ならば昼過ぎに東京を出て、せめてもの自分への労いのために明るいうちに熱海観光をしてから実家に帰るつもりだったのだ。
それなのに引越し業者が約束の時間から大幅に遅れ、部屋の引き渡し作業にも手こずり、人身事故で電車が遅延した結果、熱海に着いた頃には二十時半を廻っていた。
バスに乗ってようやく着いたお目当ての海鮮料理屋は、まさかのお休み。
仕方なく近くの熱海サンビーチまで歩いてきたのだが、ムードたっぷりなライトアップは今の花には眩しすぎた。
「風邪を引く前に帰ろう……」
独りごちて、花は静かに立ち上がった。ここまで不幸が重なると、いっそ清々しい。
そうして花は、隣でずっと愚痴を聞いてくれた信楽焼のたぬきへと目を向けた。
どうして熱海サンビーチに信楽焼のたぬきの置物があるのかは謎だが、今は理由を探すことすら億劫だった。