「昨日は、私の突拍子もない提案を受けてくださって本当にありがとうございました。それと……色々と至らない点ばかりで、本当に申し訳ありませんでした」
あのあと、ビーフシチューを見事に完食した傘姫は、源翁に化けたぽん太に改めてお礼を言って、変化を解くように申し出た。
『もう十分、夢のような時間を過ごさせていただきました』
結局、傘姫と源翁が対峙したのは夕食時のほんの一時間だけで、その後も傘姫が何か特別な要望を口にすることはなかった。
夜、ひとりになった花は闇の中に浮かぶ月を見て考えた。傘姫と源翁を会わせたことは、本当に正解だったのだろうか──と。
「あの、傘姫様、私──」
「ずっと……心に引っかかっていたの」
そのとき、花の手から和傘を受け取った傘姫が、とても静かに口を開いた。
「え……?」
「私ね、源翁様が息を引き取られるときに……。本当は、源翁様のお願いに、頷くことができなかったんです」
突然の傘姫の告白に、花は驚いて目を見張った。
「源翁様がいない世界など、生きていても意味はない。だから今すぐ私の器を壊して、私も一緒に常世へ連れて行ってと……病床に伏す源翁様に、駄々をこねたの」
眩しい光を覗き込むように目を細めた傘姫は、ふふっと声を零して小さく笑った。
「そうしたら源翁様は、"大切な君を、自分の手で壊すことなどできるはずがないだろう"って……。"そんなことをしたら僕は後悔に心を心を覆われて、君とはもう二度と会えなくなってしまう"って涙を溢したの」
「源翁様の涙を見たのは、それが最初で最後だった」と続けた傘姫は、羽のように長いまつ毛を静かに伏せた。
「……あれからもう五十年。何度あのときのことを後悔したかわからない。なぜあのとき嘘でもいいから、"わかりました、あとのことは任せてください"と言えなかったのか……。先に常世へ旅立つ源翁様を、安心して逝かせてあげることができなかったのか……ずっと、弱い自分を恨んでいたの」
「傘姫様……」
「だからね。たとえ本物の源翁様でなくとも、源翁様の前であのとき言えなかった言葉を言わせてもらえたことが、嬉しかった。その上、美味しいお食事も一緒に食べることができたのだもの。こんなに幸せな日が来るなんて……この五十年、想像したこともなかったわ」
そう言うと傘姫は、花を見て今までになく穏やかな笑みを浮かべた。
「素敵な一日を、どうもありがとう。あなたのおかげで昨日という日が、とても素敵な日になりました」
優しい声は、まるで新しい朝を告げる小鳥のように美しく、花の目には自然と涙が滲んでいた。
「わ、私は、何も……っ。傘姫様のためには、本当に何もできなくて……。力不足で、本当に申し訳ありませんでした……っ」
なんとか振り絞った声は濡れていた。
花は必死に瞬きを繰り返して涙が零れないように抗ったが、何をしたところで取り繕うことはできないだろう。
「すみません、私……っ。お客様の前で酷い顔を……」
「ふふっ、大丈夫ですよ。やっぱり、あなたはとても優しくて、素敵な方。これまで長く生きてきた甲斐がありました。今度はあなたに会いに……つくもに来ます」
小さく笑った傘姫は、そう言うとそっと花の手を取った。
「──大丈夫。八雲さんなら、あなたをきっと今以上に幸せにしてくれます。そしてあなたなら、きっとこの場所を温かく包み込む、陽の光のような素晴らしいお嫁様になるでしょう」
繊細な指は花の手を優しく撫でたあと、蝶が飛び立つように離された。
思いもよらない傘姫の言葉に花は目を見開いたが、傘姫は再び目を細めてから静かに笑った。
「ひとりでは決して乗り越えられないことも、この人となら乗り越えられるような気がする。結婚とは、そういうふうに想い合うふたりが、ひとつの傘を持つようなことだと私は思うの」
「ひとつの傘を……」
「ええ。ひとりが傘を持てないときは、もうひとりが傘を持てばいい。たとえ、ふたりともが傘を持てなくて濡れてしまっても、顔を見合わせたら笑い合える。そして八雲さんとあなたなら……きっと、それができるふたりになれるわ。だから安心して、ふたりで幸せになってくださいね。──八雲さんも、どうか花さんのことをお守りくださいませ」
凜とした声は、花の後ろに立つ八雲へと投げられた。
ハッとして花が振り返ると、数メートルほど離れた後方に八雲が立っていて、傘姫に向かって音もなく頭を下げた。
「それではみなさま、ご機嫌よう」
着物の裾が、ふわりと揺れる。
そのときだ。まるで、この瞬間を待っていたかのように、降り続いていた雨が止んだ。
「雨が──、」
つくもの外に出た傘姫は開こうとした和傘を持ち直すと、しばらく立ち止まったままで、青に染まる空を見上げた。
どこまでも続く青空の彼方には、薄っすらと虹の橋がかかっている。それを見て顔を綻ばせた傘姫は、手にした傘を閉じたまま真っすぐに、来た道を帰って行った。
「また──またのお越しを、心よりお待ちしております……っ!」
傘姫は、一度も振り返らなかった。
石畳の向こうに消えていった凜とした背中に向かって花は精一杯声を張り上げると、空に向かってあげた右手を、そっと強く握り締めた。
「……傘姫、笑っていましたねぇ」
そんな花の斜め後ろでぽつりと声を零したのは黒桜だ。
「雨の降っていない道を歩いて帰る傘姫を見たのは、初めてじゃのぅ」
続けて、花の隣に並んだぽん太が言葉を添えて、尻尾を揺らす。
「私がしたことは、正しかったんでしょうか……」
見えなくなった傘姫の後ろ姿を思い浮かべながら、花は胸の前で拳を強く握り締めた。
結局、本当の意味で傘姫の心を救えたかと言われたら、頷くことはできないだろう。
傘姫はこれからも、愛する人のいない世界で付喪神として生き続けなければならないのだ。
いつ終わりが来るかもわからない場所で……たったひとりで、愛する人を想い続ける日々が始まる。
「傘姫は……本当に今回の滞在に、満足してくれたんでしょうか」
「──この晴れやかな空を見れば、答えは自ずとわかるだろう」
と、背後から声が聞こえて弾かれたように花が振り返ると、こちらを真っすぐに見つめる八雲の瞳と目が合った。
「八雲、さん……」
思いもよらない答えに、花の声が僅かに震える。また鼻の奥がツンと痛んで、花は堪えるように胸の前で拳を強く握り締めた。
「……今回は、よくやったな。お前の想いはきちんと傘姫に届いていたはずだ」
「──っ!」
そう言った八雲は花を見て、とても綺麗な笑みを浮かべた。
目元にたたえられた微笑みは、今までに見たこともないほど柔和なもので、花は思わず狐につままれたような顔をして固まった。
(……っていうか、)
八雲の笑顔を見るのは、これが初めてだった。
これまでは基本的には無表情か仏頂面ばかり見せられていたせいで、振り幅の広さに狼狽えずにはいられない。
(い、色男の不意打ちの笑顔、殺傷力抜群……!)
花は慌てて赤くなった頬を誤魔化すように、視線を足元へと逸らした。
握り締めた拳を解いて、自身の口元を隠すように手の甲を当てれば、僅かに息が震えていることに気がついた。
「そ、それなら良かったです。というか私も傘姫みたいに、生涯を捧げようと思える相手にいつか巡り会いたいなぁ〜」
それは完全に照れ隠しのために出た言葉であったが、赤が差した顔は言葉では隠せない。
「また不倫などという、道ならぬ恋に落ちないといいな」
「は、ハァ⁉ 今なんて言いました、八雲さん⁉」
咄嗟に声を上げると、八雲はクスクスと声を零して楽しげに笑った。
またその無邪気な笑顔が珍しいもので──花は怒りも吹き飛ぶほど真っ赤になって固まり、続く反撃の声を上げることができなかった。
「まぁ、健闘を祈る」
クスリと笑みを残して踵を返し、八雲は颯爽とつくもの中へと入っていく。
その背中を見送りながら、花は動くこともできずにたった今、傘姫から言われた言葉を頭の中で反復させた。
『大丈夫。八雲さんなら、あなたをきっと今以上に幸せにしてくれます』
『八雲さんも、どうか花さんのことお守りくださいませ』
八雲は明確に、否定も肯定もしなかった。
もちろんそれは、花が本当は嫁候補ではないことを悟られないためだとわかっているが、しがない乙女心のせいで花の胸は勝手にときめいてしまう。
「ぜ、絶対っ、イイ男を捕まえてやるんだから……っ」
花は煩悩を振り払うように息巻いた。
そうしないと、八雲の笑顔ばかりに頭の中が埋め尽くされてしまいそうだったのだ。
「それなら花さん、我々、是非おすすめの男性がひとりいるのですが……」
「わしらのイチオシの男は、色男な上に将来有望な老舗温泉宿の跡取りじゃぞい」
そんな花を前に、ス……ッと背後から顔を出したふたりが、真っ赤な顔で鼻息を荒くした花に耳打ちをする。
それにハッと我に返った花は大きく息を吸い込んで、
「八雲さんとは結婚しません!!」
と、青い空に通る声を響かせた。
四泊目 ♨ 大楠神社と、麦こがし
「え、宿泊キャンセルですか?」
まだ冬の名残があるつくもの庭で、春の訪れを告げる鶯が鳴いた。
朝から玄関へと続く石畳の掃き掃除をしていた花は、ふらりとやって来た黒桜の言葉に目を見張る。
「はい……。なんでも腰を痛めてしまい、来るのが難しいとか……。当日キャンセルのお客様は、久しぶりです」
残念そうに肩を落とす黒桜の隣で、ぽん太は「まぁそんなこともある」と言いつつ相変わらず呑気に茶をすすっていた。
「付喪神様でも腰を痛めるとかあるんですね……」
「みんな年じゃからのぅ」
「あちこち、身体にガタがきているものは少なくないのが現状です」
やれやれといった様子で息を吐くぽん太と黒桜を前に、花は思わず苦笑した。
百年以上使われているものなら当然ガタがきていてもおかしくないが、それが神様だと思うとやや残念に思えるのはどうしてだろう。
「それじゃあ今日は、お客様はいらっしゃらないんですね」
呟いて、花はふと考えた。
花がつくもで働くようになってから早一ヶ月が過ぎたが、週末にお客様の予約がないというのは初めてだった。
平日にお客様が泊まりに来ることもままあるが、やはり基本的には週末が忙しい。
だから週末に向けておもてなしの準備を整えるのが常となっているのだが……。肝心の週末にお客様が来ないのなら仕方がない。
今日も一日、また次のお客様のための宿泊準備をして過ごすしかないだろう。
「そしたら私は、今日お客様が泊まる予定だった部屋を明日のお客様用に──」
「ああ、そうじゃ。そうしたら花、お前さん、今日は八雲と一緒に大楠神社に行ってくるといい」
そのとき、花の言葉をぽん太が切った。
唐突なぽん太の提案に、花はキョトンとして首を傾げる。
「大楠神社、ですか?」
「ああ。大楠神社はのぅ、熱海ではとても有名な神社で、古くから大楠明神様とも呼ばれておるんじゃ」
「熱海郷の地主の神様がいらっしゃるのですよ」
「熱海郷の地主の神様……」
花が「ほぅ」と頷くと、黒桜がニッコリと笑って言葉を続けた。
「はい。それに大楠神社は、樹齢二千百年とも言われる大楠があることでも有名です」
「え……樹齢二千百年ですか⁉」
驚いた花は素っ頓狂な声を上げた。
そんなに昔からある大楠など、聞いたこともない。
以前、ぽん太とちょう助と一緒に熱海梅園へ行ったときには、樹齢百年の梅の木があると聞いて驚いたが……。
今回は、樹齢二千百年。
約二千年前といえば弥生時代、静岡市民にはおなじみの登呂遺跡が現役だった頃だろう。
子供の頃に遠足で登呂遺跡へ行くというのは静岡市民の定番だが、当時はあまり関心が持てなかった。
しかし、大人になった今なら二千年も前のものが、現代に残っていることがどれほど貴重で素晴らしいことか、よくわかる。
(約二千年前から生きている木……)
付喪神の百年以上生きているという話を聞いただけでも壮大な話に思えたのに、二千年もの間、自然の中で生きてきたものがどのような姿形をしているのか想像するだけで花は胸が踊った。
「この熱海でわしより長生きしとるのは、大楠殿くらいだらぁ」
フォッフォッとぽん太が軽快な笑い声を響かせる。
そう考えると呑気に茶を飲むこのぽん太も、貴重な存在に違いないのだ。
ぽん太がどれくらい生きているのか花は以前に本人に聞いたことがあるのだが、「そんなもんは忘れた」とはぐらかされてしまって深く掘り下げることはできなかったけれど……。
「とりあえず、すごい神社なんだってことはわかりました。でも、その大楠神社に、なんで私が八雲さんと一緒に行かなきゃいけないんですか?」
花の問いに、ぽん太と黒桜が不自然に目を泳がせた。その反応を見て思わず目を細めた花は、疑いの眼差しをふたりへ向ける。
「……もしかして、また嫁うんぬんの話ですか?」
このふたりは花がつくもに訪れてからというもの、なんとかして花を八雲の嫁にしようと企んでいるのだ。
もちろん今は花自身も地獄行きを避けるために、自ら嫁候補役を買って出ているが、このふたりはあわよくばそのまま花を、八雲に嫁がせようと考えているのが見て取れた。
「まさか……そこに行ったらいきなり正式に結婚! とかじゃないですよね?」
さらに険しく目を細めた花を前に、ぽん太は「いやいや」と慌てた様子で首を横に振った。
「弁天岩が、八雲の嫁になる女を見せろと言ってきたんじゃよ」
「弁天岩……?」
「ああ、古い顔馴染みなんじゃが……。八雲がようやく嫁を娶る気になったということを知り、顔を見せろときかなくてのぅ」
ふぅ、と短い息を吐いたぽん太は、手の中の湯呑みの茶をスズっとすすった。
それにしても弁天岩とは何者なのか。その花の疑問には、ぽん太の代わりに、今日も全身真っ黒な着物に身を包んだ黒桜が丁寧に説明をしてくれた。
「大楠神社には弁財天様もいらっしゃるのですが、そのすぐそばにある大きな岩が弁天岩と呼ばれているんですよ」
つまりその名の通り、【岩】らしい。
「古くからぽん太さんと親交があるそうで、八雲坊も子供の頃からお世話になっているということです」
「八雲さんも……」
チクリと花の胸が痛んだのは、傘姫が訪れた際に八雲から聞かされた、八雲の子供の頃の話を思い出したためだ。
『あやかしの血を引く境界家』という理由で爪弾きにされた八雲は、子供の頃から自分と同じ人よりも、付喪神たちに深く心を寄せていた。
「それで、その弁天岩殿が少し前に使いを寄越して、八雲坊と嫁になる女性を挨拶に越させるようにと仰っていたのです」
「そうなんですね……。でも、そもそも私はあくまで名ばかりの嫁候補ですし……。大楠神社には行ってみたいけど、挨拶となると気が重いです」
それでも行かなければ、弁天岩には「なぜ来ないのか」と、怪しまれる可能性がある。
果てには「本当は嫁候補でもなんでもない」とバレたら花はつくもにいられなくなり、死後の地獄行きが決定してしまう。
「でも気は重いけど、行かないと納得してもらえないなら行くしかないですよね?」
「俺だけで行ってくるから、お前は来なくていい」
と、悩みに悩んで出した花の答えを、不意に現れた八雲の声が遮った。
「や、八雲さん?」
花が弾かれたように振り向くと、涅色の着流しをまとった八雲が凜と立っていた。
均整のとれた二重瞼の目に見つめられると、花は自分の心臓が甘く高鳴るのを感じる。それは傘姫の一件で、八雲の笑顔を初めて見て以来酷くなる一方で……。
(お、落ち着け、私の心臓……)
花は邪念を振り払うように首を横に振ると、胸の前で拳をキュッと握り締めた。
「ちょうどいい機会だ。これから、ひとりで行ってくる」
「で、ですが八雲坊がひとりで弁天岩殿を訪ねても、嫁になる女性の顔を見せろという弁天岩殿の要望に答えたことにはなりませんよ」
割って入った黒桜が説得を試みるが、八雲は頑として首を縦に振ろうとはしなかった。
「弁天岩には適当に誤魔化してくるから問題ない。嫁は人見知りが激しい性格で来られないとでも、なんとでも言えばいいだけの話だ」
けれど、それを聞いた花は黙ってなどいられなかった。
「私が人見知りが激しいって……。それじゃあ、なんだか私が弁天岩さんに会いたくないって言ってるみたいじゃないですか!」
声を上げた花は、キッと八雲を睨みつけた。
睨まれた八雲は虚をつかれたように片眉を持ち上げると、口を噤んで花を見る。
【巷で噂になっている八雲の嫁の話】は、今では尾ひれがつきすぎて大変なことになっているというのは、先日つくもを訪れた付喪神から花自身が聞かされた話だ。
『あの傘姫に負けず劣らずの美しい娘だと聞いていたのだが……。う〜む、これは少々、噂が独り歩きしすぎとるかのぅ』
花の顔を見るなりそう言った付喪神は、『まぁ、ドンマイドンマイ』と笑ったが、当事者である花自身は引き攣った笑顔を浮かべるので精一杯だった。
まず、失礼千万も甚だしい。
次に、花があの天女のような美しさを持つ傘姫と並ぶ美女だなんて噂は、有難迷惑にもほどがあった。
(虎之丞を言い負かした女だとか、大食漢の大女とか、絶世の美女だとか……)
そこへ来てまた、花が『人見知りが激しい』などと吹聴されたら、今度はどんな解釈をされるかわからない。