窓から見える太陽は、まだ高いながらも南から西の空に傾いてきている。
 時刻は午後三時十五分。最後の教科である国語の終了まで、残り十分だ。試験中のため声はないが、誰もができる問題を大体解き終え、どこかふわっとした空気が流れている。担任も六日連続勤務の疲れが出ているのか、眠そうな顔であくびをしながら試験の監督をしていた。
 学生になってから何度となく経験してきた、妙に気がゆるむ間だ。俺も大多数のクラスメイトたちと同じく肩の力を抜きながら、窓の外を眺め――。
「――ッ! ……くそ」
 唐突に襲ってきためまいと不快感に口もとを押さえて、誰にも聞こえないほどの声でうめきを漏らした。
 朝もそうだったが、最近患った発作(・・)だ。
 赤黒く染まった月。薄闇に染まる空。――の疲れ切った笑顔。見えない時計。風にあおられて宙に広がる長い髪。血の海に沈む……変わり果てた――。
 いくつかのイメージが俺の頭の中を揺さぶり、三半規管(さんはんきかん)をマヒさせる。手足の先が冷え、椅子に座ったまま平衡(へいこう)感覚(かんかく)を失い、車酔いでもしたみたいに猛烈な吐き気に襲われる。そして、激しい動悸の苦しさで、全身に嫌な脂汗が浮かんだ。
 ……完全に油断していた。
 発作と言っても、俺のそれは体の不調じゃない。もっと精神的なもの――嫌な記憶のフラッシュバックだ。情けないことこの上ない話だが、ぼんやりして思考停止状態になったりすると、無意識にとある記憶を思い出してしまうのだ。寝ているときに夢に出てくることもあるから、たまったものではない。
 とりあえず気を強く持つことでフラッシュバック自体は打ち消せたけど、頭に残る嫌な感じは消えない。
 こういうときは、なんでもいいから別のことを考えていた方がいいだろう。ひとまずは目の前の模試のことでいいか。
 大きく深呼吸し、机の上に置かれた問題冊子と裏返した解答用紙へ目を落としながら、今日一日のテストを振り返る。
 模試の出来は、どの教科もぼちぼちだった。前回(・・)のときに本腰を入れて復習していなかったことで、今回も似たり寄ったりの出来になったと思う。
 気がかりがあるとすれば、英語のリスニングがいまいちだったことか。なんだかリスニングについては、前よりも少し悪くなった気がする。英語の聞き取りはどうにも苦手だ。このままだと受験本番で足を引っ張りそうだし、ちょっと本腰を入れて(きた)えた方がいいかもしれない。
 ……よし、いい感じだ。だいぶ持ち直してきたぞ。
 この勢いのまま、前方――洋孝の方へ目を向ける。俺の三列前に座る洋孝は、開始一時間も経たないころから頬杖をついて居眠りを始めていた。大胆なことだ。あいつのことだから、おそらくわからない問題はすべてスッパリあきらめたのだろう。「部分点なんぞ要らん!」と言わんばかりの思い切りのよさは、ある意味尊敬する。
 一方、俺の右斜め前方、廊下側最前列に座る夏希は、解答の見直しをしているみたいだ。横顔を見るに手応えありって感じだから、今回はかなりの好成績を叩き出すかもしれないな。
「……よし。こんなところか……」
 小さなつぶやきを漏らしながら、ほっと一息つく。
 矢継ぎ早にいろいろ考えたおかげで、気分の悪さはほとんど消えた。平常運転だ。あまりうれしくないことだけど、発作への対応もこの一週間でだいぶ慣れてきた。
 同時に時計が三時二十五分を差し、教室に試験終了のチャイムが鳴り響いた。

「そんじゃあな、大和。お勤め、頑張れよ~」
「雪乃によろしく言っといてね、忠犬ヤマ公」
「お勤めじゃねぇよ。それと忠犬でもねぇっての! いい加減怒るぞ、夏希!」
 別れの挨拶代わりに俺をイジりながら去っていく洋孝と夏希を、文句交じりに見送る。あいつら、顔を合わせる度に俺をからかわんと気が済まんのかな。おそろしく迷惑な話だ。
 もっとも、このふたりは俺からの文句なんてどこ吹く風だ。軽く聞き流して、さっさと教室から出ていきやがった。……覚えてろよ。
「にしても洋孝のやつ、顔面ゆるみまくりだったな。浮かれすぎて、下手なボロを出さないといいが……」
 スクールバッグに筆記用具を放り込みながら、さっきの洋孝の顔を思い出して笑う。夏希とふたりで喫茶店へ行くだけだというのに、この世の春というか、呆れてしまうくらい幸せそうな笑顔だった。あれ、絶対にいくつかやらかすぞ。その上で、夏希に無自覚スルーされる姿が目に浮かぶ。
「――っと、やばい。俺もそろそろ行かねぇと」
 洋孝たちのコントじみたやり取りを想像して、気色悪い笑顔を浮かべている場合ではない。教室の掛け時計に目をやり、急いでスクールバッグをつかむ。
 今日の雪乃の用事は、ちょっとした肉体労働だ。道具も必要だから、一度家に帰って準備しないといけない。夏で日没が遅くなっているとはいえ、それなりに急いだ方がよさそうだ。
 人がまばらな校舎を早足に通り抜け、駐輪場に向かう。
 自転車にまたがった俺は、まだ西日が厳しい通学路を進んでいく。少し急ごうと思って立ち漕ぎをしていると、西日にあぶられた体から、あっという間に汗が噴き出してきた。制服が体に張りつく。軽く息が上がるころ、ようやく家が見えてきた。
「ただいま」
 玄関で靴を脱ぎながら、口をついて言葉が出てくる。誰もいないとわかっているのに、なんでいつも言ってしまうかな。不思議だ。
 くだらないことを考えながら、Tシャツとジーンズというラフな格好に着替える。
 そうしたら玄関まで戻り、折り畳み式ののこぎりと軍手、虫よけスプレーを紙袋に詰めた。
 これら三点セットを持って向かうのは、家のすぐ近くにある寺だ。敷地に入ると、ちょうど住職(じゅうしょく)さんが掃き掃除をしていたので、挨拶がてら声をかけた。
「こんにちは!」
「ん? ああ、連城さんとこの……。はい、こんにちは」
 俺が頭を下げると、人のいい住職さんは柔和な笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。
 両親の代わりに参加する町内会の奉仕活動なんかで会う機会も多いから、この住職さんとはすっかり顔馴染みだ。おかげで今回のお願いも頼みやすかった。ご近所づき合い、すごく大事。
「今朝、お願いしていた件で来たんですけど」
「ああ、裏の竹だよね。十本でも二十本でも、好きに取っていっていいよ」
「いや、細いやつ一本で十分ですから。それじゃあ、ちょっと失礼します」
 住職さんへもう一度頭を下げて、寺の裏手に回る。寺の裏にはお墓があり、その奥には小さな竹林があった。今日の目的地だ。
 もはや言うまでもないかもしれないが、ここに来た目的は単純(たんじゅん)明快(めいかい)、七夕飾り用の(ささ)の入手だ。今朝、雪乃が渡してきたメモに【今夜、七夕やる。笹一本用意して】と書いてあったので、学校へ行く前にちょっと回り道をして、住職さんに一本くださいと頼んでおいたのだ。
 家から持ってきた虫よけスプレーを全身に吹きかけて、竹林の中に入る。たぶん二階のベランダに飾るんだろうから、立派な竹ではなく小さな笹で十分だろう。長さが二メートルもないくらいで、太さは一~二センチくらいがベストかな。
「お! これなんか、いいんじゃねぇか?」
 もともとそんなに広くない竹林だ。ものの数分で見て回ることができ、条件にぴったりの笹も見つかった。
 軍手をはめて、のこぎりでギコギコと笹を切る。親指程度の太さしかない笹は、俺でもすぐに切り落とすことができた。
「さてと! そんじゃあ行くか」
 無事に目的の笹を手に入れた俺は、意気揚々(いきようよう)と竹林をあとにした。