真上家を出るころには、夜の十時を回ってしまっていた。
 自分の家に戻った俺は、玄関にほったらかしにしていたのこぎりや軍手を片づけ、さっさと風呂に入った。今からお湯を張るのも面倒なので、今日はシャワーで済ませてしまう。
 風呂から上がって髪を乾かしたら、キッチンで麦茶を一杯飲んで、自室に戻る。
 勢いのままベッドに倒れ込むと、そのあまりの心地よさで一気に睡魔(すいま)が襲ってきた。
「……ああ、いけない。まだ、やることがあった」
 眠気を払うように声を出し、ベッドから下りる。一度あくびをして眠気を払った俺は、机の上に置いたままのノートを開いた。
 傍らのボールペンを手に取り、ノートに書かれたとある文章に完了を示す線を引いていく。
 文章に線を引き終えた俺は、あらためてそこに書かれていた自分の字を目で追った。【七月七日、雪乃が引きこもり脱却を宣言する】という、その文章を……。
 そう。俺は……今日、雪乃が自分を変えると宣言してくることを知っていた。
 なぜなら俺はすでに一度、ほぼ同じことを経験済みだからだ。
 無言のまま、視線を机の横へとずらす。そこには、壁掛けタイプのカレンダーがあり、二十八日に黒いマジックで丸が打ってあった。
 その丸を目に焼きつけて、再びノートへと目を落とす。ノートには、これから二十八日までに起こる主な出来事を箇条書きで記してある。
 そして……その最後の行には、こう書いてあった。

【七月二十八日、雪乃が天根市展望台で飛び降り自殺する】

 自分で書いたその文章を、俺は拳を固く握りしめたままにらみつける。
 七月二十八日――今日からちょうど三週間後のこの日に、雪乃は自殺したのだ。それも、俺が見ている目の前で……。
 雪乃の自殺を意識した瞬間、頭を空っぽにしたわけでもないのに、例の発作が起こった。
 赤黒く染まった月。薄闇に染まる空。雪乃の疲れ切った笑顔。見えない時計。風にあおられて宙に広がる長い髪。血の海に沈む……変わり果てた幼馴染みの亡骸(なきがら)
 激しい動悸と息切れを起こしてめまいがする中、その光景だけはすべて鮮明に思い出すことができる。
 気がつけば、ノートに玉の汗が(したた)り落ちていた。震える手でノートに落ちた汗を(ぬぐ)い、机に手をついて息を整える。
 そうだ。このままでは、あとたった三週間で、雪乃はこの世からいなくなってしまう。
 それを阻止(そし)できるのは、この未来を経験した上で七月一日まで戻ってきた俺だけだ。
「この〝二度目〟の七月で俺がやるべきことはふたつ。〝歴史を極力変えずに二十八日まで過ごす〟と〝雪乃の自殺の原因を探り、自殺の実行を阻止する〟……」
 この一週間考えてきたルールを、口に出して復唱する。
 歴史を変えないようにするのは、その影響がどのように及ぶかわからないからだ。極端に言えば歴史が変わった結果、雪乃が二十八日より早く、もしくは俺の手の届かないところで自殺してしまう可能性がある。そうなったら目も当てられない。
 もっとも、俺はそこまで記憶力がいいわけではないから、やり直し前の――〝一度目〟の七月とまったく同じ行動を繰り返すのは不可能だ。現に今日の雪乃との会話だって、〝一度目〟のときに交わしたものとは微妙に違っていた。というか、〝一度目〟の七夕のときは、あそこまで自爆しなかった。
 だから最低限できることとして、この期間に俺と雪乃の周りで起こった主な出来事とその結果は変えないように行動していく。それだけでも、大きな歴史の変化は防げるはずだから。
 その上で、なぜ雪乃が自殺したのかを探っていく。
 幸い、これについてもひとつ大きな心当たりがある。だからそこを中心に探っていき、俺なりに自殺の原因を取り除く。ここに関わる部分だけは、歴史の改変もためらわない。もし原因を取り除くことがかなわないなら、ひとまず二十八日の自殺を阻止する。そのあとは、雪乃がバカな行動を起こさないよう、見張るなり説得するなりを重ねていけばいい。
「……お前にどんな事情があるのかは知らない。これが、俺の自己満足だってこともわかってる。――けど、俺の前でもう二度と死なせたりしないからな、雪乃」
 ノートを閉じながら、誰に聞かせるでもない決意を口にする。
 この事実を知っているのは、俺だけ。だから、他の誰にも頼ることはできない。俺ひとりの力でやり遂げるしかない。どれだけ難しくても、ひとりでやるしかないんだ。
 短冊には書かなかったが、俺も雪乃と同じく、あいつをこの手で助けることを天にまたたく星たちに誓った。