いつも通りふたりで晩飯を食い終わるころには、すっかり日が暮れていた。
夜空には雲ひとつなく、天の川がきれいに輝いている。絶好の七夕日和だ。
取ってきた笹を二階のベランダへ運び、雪乃が用意していた飾りを吊るしていく。シンプルだった笹は、あっという間に七夕仕様のデコ笹へと変身を遂げた。
飾りつけが終わったら、次は七夕の醍醐味だ。俺と雪乃はベランダで腰を下ろし、雪乃が用意していた筆ペンで短冊に願い事を書く。
「ねえ、大和。短冊にどんな願い書くつもり?」
「どんなって、普通だけど。〝家族や友達が、みんな元気でいられますように〟って感じのやつ」
「いい子ぶっちゃって、つまんない。もっと他にないわけ? 〝海賊王になれますように!〟とか」
「ほほう、それは漫画の主人公をも恐れない、大それた願い事だな。――で、俺がその願いを書いていたとしたら、お前の反応は?」
「略奪行為を企てている輩がいるって通報したあと、病院を探してあげる」
「うん、そんなところだと思ってた。ちなみに、それやるとお前を世話する人間がいなくなるわけだが、そこんところどうお考えで?」
「ああ、それは考えてなかった。確かにそれは困るかも。じゃあ、間を取って〝立派なハウスキーパーになれますように〟とかはどう?」
「お前、一生俺に身の回りの世話させる気か! 本気でプロになって、きっちり金取るぞ!」
以上、短冊を書きながら交わされた会話である。隙あらば人の将来を誘導しようとするところとか、本当に抜け目ない。意志を強く持って、この無駄に頭がいい幼馴染みの罠にかからないようにせねば……。
なお、人の願いを「つまんない」で切り捨てた当人が何を書いたかというと、〝新しいパソコンが欲しい〟だった。人の願いをどうこう言うつもりはないが、「お前にだけは『つまんない』とか言われたくねぇわ、物欲ヒッキー」と叫びたくなった。
ともあれ、おもしろくなかろうが、物欲にまみれていようが、願い事は願い事だ。ふたつ揃って、笹に括りつける。ピンクと黄色、ふたつの短冊が夜風に吹かれてクルクルと踊った。
笹を飾りつけて、願い事も書いた。七夕としてやることは、これくらいだ。
ただ、これで「はい、終わり!」というのも味気ない。せっかくなので、冷蔵庫から昨日買い置きしておいたわらび餅を取り出してきて、ゆっくり夜空を眺めることにした。
部屋の電気を消し、再びベランダで並んで座り、夜空を見上げる。
車通りが多くない住宅街は、夜になるととても静かだ。それに田舎で光源もそれほど多くないからか、星が意外なほどよく見える。
「あ、てんびん座とさそり座」
雪乃が指で空に線を描きながら言った。
雪乃の両親が天文学者だったこともあって、俺たちは小さいころから星についていろいろと教えてもらってきた。星座を見つけるなんて、お茶の子さいさいだ。雪乃をまねて、俺も指で星々をつなげていく。
「そこがへびつかい座とへび座だな」
「で、あれがはくちょう座とわし座とこと座。デネブ、ベガ、アルタイルで夏の大三角」
わらび餅を食べながら、順番に星座を言っていく。
たまにはこうやってのんびり星空を見上げるのも、悪くないな。心が洗われるとまでは言わないが、少なくとも気が休まる。雪乃の〝七夕やる〟宣言に乗っておいて正解だった。
時計を見ていないから、どれだけ時間が経っているのかも、よくわからない。十分か二十分か、それとも一時間以上経っているのか。
星座もあらかた見つけ終わり、気がつけば俺たちはただ黙って星空を見上げていた。
俺も雪乃も口を開かないが、この沈黙がどこか心地いい。雪乃と一緒に、こうして星を見ていられる。そんな小さなことが、今の俺にはたまらなく幸せに感じられた。
「そういやさ……」
ふと天に向けていた視線を下げる。そこには、あどけなさが残る表情で空を見上げる雪乃の顔があった。
俺の発した言葉に、雪乃は「ん?」と星空に心を奪われたまま応じる。一応耳には届いているようなので、俺も構わずに続けた。
「なんで急に『七夕やる』なんて言い出したんだ? お前、この二年間は誕生日だろうがクリスマスだろうが正月だろうが、まったく気にしなかったじゃん」
雪乃が引きこもり出してからの日々を、ふと思い出す。
こいつ、家から出ないせいで月日や曜日の感覚が抜け落ちたのか、基本的にこの手の記念日的イベントにはまったく反応しないんだ。
一度誕生日にサプライズパーティを仕掛けたときなんて、なぜか「なんか学校でつらいことでもあったの? 家でゆっくり休みなさい」とガチで心配されてしまった。あれは……うん、サプライズを仕掛けるつもりが、逆にサプライズかまされた気分だった。ショックのあまり、ちょっと本気で泣きたくなったよ。
「なのに、今回はお前からのリクエストだったから、驚いたっていうか……。まあ、個人的にはいいことだと思うんだけどな!」
なんか暗に「お前には似合わない」って言っているみたいになってしまったので、あわてて最後にちょっとおどけた感じの言葉を加えておいた。
そうしたら、雪乃はくすりと笑いながら空を見上げるのをやめた。俺と同じく視線を下げた雪乃は、そのまま筆ペンと予備の短冊を手に取り、何かを書き記し始めた。
「本当は、もうちょっとしたらこっちから切り出すつもりだったのに……。あんたには、いつも都合やら予定やらを狂わされてばっかよ」
「いや、『都合やら予定やらを狂わされて』って、どの口がそれをほざくかよ。今の俺の人生、わりとお前を中心に回ってますよ?」
「うっさい! 知ってるわよ、そんなこと。独り言にツッコミ入れてくんな。どんだけ野暮なのよ」
笑顔を引っ込めて言い返してきた雪乃に、「へいへい。悪うござんしたね~」と誠意のかけらもない謝罪を入れる。
筆ペンをサラサラとよどみなく動かしつつ、こちらのツッコミにもきっちり噛みついてくるとは、相変わらず器用なものだ。
それと、俺をこき使っていることを自覚している点は、ひとまず水に流しておいてやろう。感謝しろよ、雪乃。
「それで、『切り出す』って、何をだよ。明日の晩飯のリクエストか?」
「んなわけないでしょうが! なんで短冊書きながら、晩ごはんの希望出さなきゃいけないのよ。いいからちょっと黙ってなさい!」
もともとつり目気味の目をさらにつり上げて、雪乃がキレた。言われた通り、おとなしく雪乃が短冊を書き終えるのを待つことにする。
かなりたくさんのことを書き込んでいるようで、雪乃の手はなかなか止まらない。筆ペンを巧みに操るその表情は、真剣そのものだ。
そんな雪乃の横顔を眺めていると、不意に筆ペンを持つ手が止まった。どうやら願い事を書き終えたらしい。
筆ペンを置いた雪乃は、短冊を大事そうに持って立ち上がる。そして精一杯背伸びして、短冊を笹の一等高い場所に括りつけた。
笹の一番高いところに吊るされた短冊は、他の飾りと同じく夜風にはためく。
「どうして七夕をやりたいなんて言ったか、だけどさ……」
くるりとこちらに振り返った雪乃が、やや張り詰めた表情で座ったままの俺のことを見下ろした。澄んだ黒い瞳が、俺を映しているのがわかる。
ボサボサ頭とダボダボのスウェットは変わらないのに、星空を背負ったその姿はどこか幻想的だ。七夕チックに言えば、まるで織姫みたい……というのはさすがに盛りすぎかもしれないが、少なくともきれいだとは思う。雪乃相手に認めるのは悔しいんだけど、一瞬胸が高鳴ってしまった。
「正直なところ、七夕自体はどうでもよかった。笹に願い事吊るすだけのイベントに、大した思い入れなんてないしね」
「それじゃあ、なんで……」
「固めた決心を明かすには、ちょうどいい感じのイベントだったから、かな……。せっかくなんで使わせてもらった」
「……決心?」
「そう。心を決めると書いて、決心」
俺が首をかしげると、雪乃は短冊を書いていたときと同じく真剣な面持ちで、こくりとうなずいた。
雪乃が、今この瞬間にも変わろうとしている。何か、自分の殻を破ろうとしている。普段より大人びたこいつの表情に、そんな予感を覚える。
「あんた、さっき言ってたでしょ。『今の俺の人生、わりとお前を中心に回ってますよ』って」
「ああ……。あ、もしかして気にしたのか? べつに俺が勝手にやっていることだから、お前が気にする必要はないぞ。代わりに勉強だって教えてもらってるから、俺の方こそ助かってるくらいだ」
正直なところ、さっきの発言はほとんど悪ノリで言ったものだ。それがもしも雪乃に罪悪感を抱かせてしまったなら、きちんと否定しておかなければいけない。
確かに俺の生活は学校と雪乃を中心に回っているけど、俺はそれを嫌だと思ってなどいない。
むしろ、今の生活の在り方を心地よくさえ思っている。両親が不在のことも多い俺にとって、雪乃と一緒に飯を食ったりしていると、疑似的にでも家族の団欒を感じることができるから。
俺にとって、雪乃との生活は拠り所なんだ。夏希や洋孝とは違う、俺が自分らしく安らげる、大切な場所と時間……。
「でも、わたしのせいであんたに時間がなくなっているのも事実よ。今日だって、わたしのワガママがなければ夏希たちと遊びにいけたんでしょ?」
まるで俺の思考を読んでいるかのように、雪乃が痛いところをついてくる。
いや、実際に俺の表情から思考を読んだのだろう。こいつ、頭がいい上に、よくも悪くも周囲の注目にさらされてきたから、人の顔色を読むのが得意なのだ。
というか、それ以前に余計なことを言うんじゃなかった。ほんと、俺のバカ! あのとき自分が取った態度を考えると、この状況で否定はできない。
俺が黙っていると、雪乃はどこか申し訳なさそうに話を続けた。
「お父さんとお母さんが死んでから二年間、わたしはずっと大和の厚意の上にあぐらをかいていた。家庭教師をやってるだけじゃ返し切れないくらい、ずっと大和に甘えてきた」
「いや、べつにそんなことは……ないとも言い切れないが……。確かにけっこう、あごで使われてきたが……」
勢い込んで割って入ってみたけど、結局何もかける言葉を見つけられない俺。超かっこ悪い。
雪乃からは、「無理しなくていい」と呆れ混じりの苦笑を向けられてしまった。
「だから今日、天の上のバカップルに短冊を叩きつけることで、決心を固めることにした。天国にいるお父さんとお母さんにこれ以上心配かけないよう、自分を変えることにした」
そう言い切った雪乃の瞳は、一切の揺らぎもなく澄み切っていて……。
雪乃は自身が固めた決心を、正しく宣誓するように、よどみなく俺に告げた。
「わたし、もう家に閉じこもるのは……やめにする。きちんと、外の世界とつながっていけるようになる。それに、家事もきちんと自分でやる。大和に迷惑をかけないように、自分のことは自分できちんとできるようになる」
雪乃の言葉が、俺の耳の奥にこだまする。
赤の他人がこれを聞いたら、「何をそんな当然のことを」と言うかもしれない。実際、それが正論なんだろうし。
けど、そんな当たり前の正論なんか、知ったことじゃない。もうひとりの当事者であり、今まで雪乃と一緒にいた俺だけは、この決心の重さを知っている。
雪乃は普段から、考えすぎなくらいに熟考を重ねるやつだ。今回の決心だって、心の折り合いをつけるために、自分自身と長く対話してきたに違いない。そして対話を続けた末に、こいつは殻から抜け出る恐怖に負けることなく、足を踏み出すことに決めたんだと思う。
だったら、俺がきちんと真正面から受け止めてやんなきゃダメだろう。
「大和、今まで迷惑をかけてごめん。それと、わたしのことをずっと助けてくれて、本当にありがとう」
雪乃は、俺に向かって深々と頭を下げた。
俺はその謝罪と感謝の言葉を、うれしいような、それでいて寂しいような、なんとも言えない感情のまま受け取った。
雪乃が前を向いて一歩を踏み出したことは、幼馴染みとして素直にうれしい。けれど同時に、雪乃が俺の助けを必要としなくなっていくことが、勝手なこととわかっていても寂しかった。
結局俺は、夏希が言う通り〝雪乃の忠犬〟だったようだ。なんてこった! ……いやまあ、さっき〝拠り所〟とか言っちゃった時点で、「なんてこった!」も何もないんだけど。
それでも、ここで俺が言うべきことはひとつしかない。雪乃は、意思を示した。なら、俺も幼馴染みらしく、こいつの背中を押してやろう。
「お前の決心は、よくわかった。お前がそう決めたなら、俺は全力でお前を応援する」
「大和……」
顔を上げた雪乃が、ふわりとほほ笑む。安心しきった子どものような表情だ。こいつのこんな顔を見るのは、いつ以来だろう。胸の真ん中が、ぼんやりとあたたかくなる。
けど、俺はそこで、あえて「でもさ……」と言葉を継いだ。
「自立するのはいいけど、実際のところどうするつもりだよ。外に出るのはいいとして、家事のやり方、お前わかるのか?」
「そんなの、やろうと思えばなんとかなるでしょ。実際、あんただって普通にできるようになったじゃない」
俺の素朴な疑問に、雪乃がさも当然のように答える。
いやまあ、確かにやろうと思えば、そこそこなんとかなるんだけどね。それでも例えば掃除とか、この家や家具に合わせたやり方なんかもあったりするんだよ? これでも俺、家事についてそれなりに研鑽を積んできたんだよ?
――てなことを説いてやったら、雪乃はめんどくさいという感情がにじみ出た呆け面になった。
ダメだ、こりゃ。ほっといたら、ひどいことになる気がする。
「まあ、そこら辺は俺が教えてやるよ。その方が、一から自分で調べて覚えるより早いだろ?」
「は? いや、それはダメでしょ。大和に迷惑かけないように自立するのに、教えてもらってたら意味ないじゃん」
「いいんだよ。自立に向けての支援は、迷惑とは言わん!」
「けど、あんたに教わるとか、わたしのプライドが……」
「二年間散々だらしないところ見せといて、今さらプライドも何もあったもんじゃねぇだろうが。第一、こうでもしないと――ッ!」
会話の流れで思わず出そうになった言葉を、あわてて飲み込む。
危なかった。今の俺、とんでもなく恥ずかしいことを口走るところだった。
「こうでもしないと……何よ」
しかし、残念ながらうちの幼馴染みは、そんな俺の隙を見逃してはくれなかった。「だらしない」と言ったことに対する仕返しのつもりか、〝吐け〟と端的に目力で訴えかけてくる。
こちらも最後の抵抗とばかりに頬をかきながら視線をそらしたが……あきらめずそらした先に回ってのぞき込んできやがった。喰いついたら離さない。スッポンみたいなやつだ。
「男だったら言いかけたことくらい、はっきり言ったら? 中途半端に隠し事されるのって、すごいストレスなんだけど」
「いや、隠し事ってのはオーバーな……。べつに大したことじゃ……」
「言え」
この幼馴染み、最後はこちらのセリフをさえぎりつつ、女の子にあるまじきドスを利かせた直球で来ました。こいつの目力、さっきから半端ないな。逃がす気ゼロだわ。これ以上の抵抗は、残念ながら無駄っぽい……。
「ええと、家事を教えるとかでもないと……」
「でもないと?」
「俺がこっちに来る理由がなくなってしまうというか、なんというか……」
せめてもの抵抗でまた視線をそらしながら、ボソボソとさっき言いかけた言葉の続きを告げる。
すると雪乃は即座に怪訝そうなお顔をされ、心底冷たい声で「……は?」と漏らした。なんだろう。雪乃の視線がチクチクと、いや、ザクザクと突き刺さってくる。正直、心が痛い。
「だって仕方ないだろう! なんだかんだ言って、最近はお前と晩飯食うのとかが習慣化しちまったし。今さらあのだだっ広い家でぽつんとひとり晩飯とか、なんか寂しいだろうが!」
そのあまりのいたたまれなさのためだろうか。知らんうちに口をついて、言い訳が飛び出していた。
俺の冷静な部分が、「余計なことを……」とつぶやきながら頭を抱えている。
本当に何言ってんだろうね、俺。べつにこっちへ来るだけなら、今まで通り勉強教えてもらうためとか理由はいろいろあるだろうに、よりによって「寂しい」とか……。
ほら、雪乃の表情が、だんだんゴミでも見るような感じになってきて……。
「うわ……。あんた、意外と女々しいこと考えてんのね。普通にキモいんだけど。さすがに引くわー……」
「わかってるっての! 自分でもちょっとやばいんじゃねぇかって思ってるよ! だから言いたくなかったんだ!」
自分の体をかき抱いてこちらの心をえぐってくる雪乃に、勢い任せでがなり立てる。夜中に近所迷惑? 知るか、そんなもん!
ちくしょう。本当にちくしょうだよ……。プライド云々を言うなら、確実に俺の方がズタズタだっての。なんだよ、この羞恥プレイ。
さすがに精神的ダメージが大きすぎて、その場で膝を抱えてしゃがみ込む。穴があったら静かに入りたい……。
ただ、そんな俺の様子がおもしろかったのか、頭の上から雪乃のおかしそうな笑い声が聞こえてきた。
「お前、この場面で笑うとか、さすがに性格悪すぎないか?」
「ごめん、ごめん。でも、あんたの自爆と情けない顔がおかしくて」
「うん。この期に及んで追い打ちかけてくるとか、俺もびっくりだわ。お前、俺に対してだけは本当に容赦ないな!」
こんなのの面倒を二年間も見てきたとか、俺、どんだけお人好しなんだろう。忠犬すぎるにもほどがあるだろう。
恨みがましく雪乃を見上げるも、この性悪は大笑いを続けるのみだ。
さっきまではシリアス気味のいい感じな場面だったはずなのに、一分足らずでなんだこの急展開。決意表明の場が一転して赤っ恥公開処刑(俺の)とか、普通ありえんだろ! 自業自得だけど、俺がかわいそうすぎる!
「はあ~、笑った……。でもまあ、そういうことなら仕方ないか。恩人の幼馴染みを寂しがらせるのもかわいそうだし」
「かわいそうな子扱いするな!」
目もとの涙を指ですくう雪乃に、逆ギレ気味のツッコミを入れる俺。なんかもう、ダメダメでグダグダだ。
「あんたがそこまでわたしに会いたいっていうなら、わたしも恥を忍んであんたに家事を教わってあげることにしましょう。感謝しなさい」
偉そうにふんぞり返るチビヒッキー。教わる側の態度じゃねぇだろ、それ。
「……さっきはああ言ったが、俺はそこまで豆腐メンタルじゃねぇ。あと、なんで俺が感謝せにゃならんのだ」
「照れない、照れない。だから、まあ、その……」
雪乃が、不意にこちらから目をそらした。髪の毛の先をクルクルと指に巻きつけたりして、妙に挙動不審だ。つい今し方の俺っぽい。
急にどうしたのかと思っていると、雪乃は親愛がこもった口調で、こう言った。
「……いつまでになるかわからないけど、これからもよろしく」
俺に対しては傍若無人な雪乃らしからぬ口調と言葉に、思わずその顔を見上げる。
さっき俺は、満天の星空を背負ったこいつを、少なくともきれいだと思った。けれど、今のこいつは――天真爛漫にほほ笑んだこいつは、まぎれもなくきれいだと、心から素直にそう思えた。
その笑顔に当てられたまま、足腰に力を入れて再び立ち上がる。
今さらかっこつけようとしたって滑稽なだけだけど、それでも精一杯取り繕って、俺は雪乃にほほ笑み返した。
「まあ、これも幼馴染みの好みだ。ここまで来たら、とことんつき合ってやるよ」
「はいはい、〝好み〟ね。そういうことにしといてあげるから、慣れないかっこつけなんかやめとけば? 寂しがり屋」
「うっせえよ、引きこもり」
互いのことをけなし合いつつも、それ自体がおかしくて、どちらからともなく笑い合う。
笑いながら見上げた星空は、さっきまでよりも少し輝いて見えた。
真上家を出るころには、夜の十時を回ってしまっていた。
自分の家に戻った俺は、玄関にほったらかしにしていたのこぎりや軍手を片づけ、さっさと風呂に入った。今からお湯を張るのも面倒なので、今日はシャワーで済ませてしまう。
風呂から上がって髪を乾かしたら、キッチンで麦茶を一杯飲んで、自室に戻る。
勢いのままベッドに倒れ込むと、そのあまりの心地よさで一気に睡魔が襲ってきた。
「……ああ、いけない。まだ、やることがあった」
眠気を払うように声を出し、ベッドから下りる。一度あくびをして眠気を払った俺は、机の上に置いたままのノートを開いた。
傍らのボールペンを手に取り、ノートに書かれたとある文章に完了を示す線を引いていく。
文章に線を引き終えた俺は、あらためてそこに書かれていた自分の字を目で追った。【七月七日、雪乃が引きこもり脱却を宣言する】という、その文章を……。
そう。俺は……今日、雪乃が自分を変えると宣言してくることを知っていた。
なぜなら俺はすでに一度、ほぼ同じことを経験済みだからだ。
無言のまま、視線を机の横へとずらす。そこには、壁掛けタイプのカレンダーがあり、二十八日に黒いマジックで丸が打ってあった。
その丸を目に焼きつけて、再びノートへと目を落とす。ノートには、これから二十八日までに起こる主な出来事を箇条書きで記してある。
そして……その最後の行には、こう書いてあった。
【七月二十八日、雪乃が天根市展望台で飛び降り自殺する】
自分で書いたその文章を、俺は拳を固く握りしめたままにらみつける。
七月二十八日――今日からちょうど三週間後のこの日に、雪乃は自殺したのだ。それも、俺が見ている目の前で……。
雪乃の自殺を意識した瞬間、頭を空っぽにしたわけでもないのに、例の発作が起こった。
赤黒く染まった月。薄闇に染まる空。雪乃の疲れ切った笑顔。見えない時計。風にあおられて宙に広がる長い髪。血の海に沈む……変わり果てた幼馴染みの亡骸。
激しい動悸と息切れを起こしてめまいがする中、その光景だけはすべて鮮明に思い出すことができる。
気がつけば、ノートに玉の汗が滴り落ちていた。震える手でノートに落ちた汗を拭い、机に手をついて息を整える。
そうだ。このままでは、あとたった三週間で、雪乃はこの世からいなくなってしまう。
それを阻止できるのは、この未来を経験した上で七月一日まで戻ってきた俺だけだ。
「この〝二度目〟の七月で俺がやるべきことはふたつ。〝歴史を極力変えずに二十八日まで過ごす〟と〝雪乃の自殺の原因を探り、自殺の実行を阻止する〟……」
この一週間考えてきたルールを、口に出して復唱する。
歴史を変えないようにするのは、その影響がどのように及ぶかわからないからだ。極端に言えば歴史が変わった結果、雪乃が二十八日より早く、もしくは俺の手の届かないところで自殺してしまう可能性がある。そうなったら目も当てられない。
もっとも、俺はそこまで記憶力がいいわけではないから、やり直し前の――〝一度目〟の七月とまったく同じ行動を繰り返すのは不可能だ。現に今日の雪乃との会話だって、〝一度目〟のときに交わしたものとは微妙に違っていた。というか、〝一度目〟の七夕のときは、あそこまで自爆しなかった。
だから最低限できることとして、この期間に俺と雪乃の周りで起こった主な出来事とその結果は変えないように行動していく。それだけでも、大きな歴史の変化は防げるはずだから。
その上で、なぜ雪乃が自殺したのかを探っていく。
幸い、これについてもひとつ大きな心当たりがある。だからそこを中心に探っていき、俺なりに自殺の原因を取り除く。ここに関わる部分だけは、歴史の改変もためらわない。もし原因を取り除くことがかなわないなら、ひとまず二十八日の自殺を阻止する。そのあとは、雪乃がバカな行動を起こさないよう、見張るなり説得するなりを重ねていけばいい。
「……お前にどんな事情があるのかは知らない。これが、俺の自己満足だってこともわかってる。――けど、俺の前でもう二度と死なせたりしないからな、雪乃」
ノートを閉じながら、誰に聞かせるでもない決意を口にする。
この事実を知っているのは、俺だけ。だから、他の誰にも頼ることはできない。俺ひとりの力でやり遂げるしかない。どれだけ難しくても、ひとりでやるしかないんだ。
短冊には書かなかったが、俺も雪乃と同じく、あいつをこの手で助けることを天にまたたく星たちに誓った。