「――ごめん、大和(やまと)……。わたし、もう疲れちゃった」

 展望台の端に立ち、雪乃(ゆきの)は弱々しい笑みで、そう言った。
 雪乃の背後には、地球の陰に隠れた赤黒い月が浮かんでいる。皆既(かいき)月食(げっしょく)を背にしたその姿は、(はかな)いのにどこか美しく、俺は思わず息を()んでしまった。
 だけど……今は幻想的な光景に見惚(みと)れている場合じゃない。
 幼いころ、いや、赤ん坊のころから一緒に育ってきた幼馴染(おさななじ)み。たとえ何があろうとも守りたいと思った、もうひとりの家族のような存在。
 そんな女の子が、すべてをあきらめたような目で、俺のことを見ている。言葉の通り疲れ切った声音で、俺に語りかけている。
 目に見えるすべて、耳に聞こえるすべてが、俺の胸を苦しいほどに締めつけた。
「雪乃……。お前、いったい何言って――」
「来ないで!」
 すがるようにつぶやき、歩み寄ろうとした俺を、雪乃は鋭い声で制した。はじめて受けた、こいつからの完全なる拒絶だ。踏み出しかけた右足が、金縛(かなしば)りにあったかのように止まる。
 俺が足を止めたことを見て取り、雪乃は安心したようにほほ笑んだ。
「……もう、時間ね」
 雪乃の視線が、俺の斜め後ろに向かう。そこには時計塔があるはずだ。時刻を確認した雪乃は、俺の方を向いたまま一歩下がり、転落防止用の柵に寄りかかった。
 瞬間、嫌な予感が俺の中を駆け抜ける。取り返しのつかないことが起こりそうな、震えるほどに鳥肌が立つ感覚だ。背中から冷や汗が噴き出し、顔から血の気が引いたのがわかった。
「本当は、ひとりでこのときを迎えるはずだったのに……。あんたは、なんでわたしを見つけちゃうかな……」
 決心が()らいじゃったらどうするのよ、と雪乃は再びあきらめ切った顔で笑う。そして、空を見上げるように、柵を軸にして体をそらした。崖下から吹き上がる風が、雪乃の長くてやわらかい髪を揺らす。
「ゆ……きの……」
 強烈な寒気に奥歯をカチカチと鳴らしながら、名前を呼ぶ。
 雪乃はもはや俺の方を見ることもなく、まるで独り言のように空に向かってつぶやいた。
「こんなことに立ち合わせちゃって、本当にごめん。でも、こうするしか方法がないの。わたしは……結局勝てなかった」
「勝てなかったって、誰にだよ。お前、何言って……」
「あんたが知る必要はない。あんたは……何も気にしなくていい」
 強い意志と俺への思い()りがこもった口調で、雪乃が会話を打ち切る。
 同時に、狙い澄ましたかのようなタイミングで一陣の風が吹き、俺は目をすがめた。
「じゃあね、大和。さようなら」
 まるで家の前で別れるように気楽な挨拶(あいさつ)が、俺の鼓膜を震わせる。

 ――それは、本当に一瞬の出来事だった。

 俺が目をすがめたその瞬間、地面を蹴った雪乃の体が柵を軸にして回転し、その先にある崖の方へと傾いていった。
「雪乃!」
 意識するよりも早く、腹の底から叫び声が出ていた。
 助けようと足に力をこめ、手を伸ばすが――数メートルの距離があっては届くはずもない。俺の手の先で、雪乃の体が崖の向こうに消えていく。
 脳が異常な動作を起こしているのか、頭が熱い。音が消え、目に映る光景がコマ送りのようにスローモーションになっている。
 そんな中で、皆既月食を背景に落ちていく雪乃の姿を、俺は涙に(ゆが)む視界でとらえ続けた。
「ゆ……!」
 雪乃の姿が視界から消えたところで、正常な時間が刻まれ始める。間髪(かんぱつ)置かずに、崖下から何かが壊れる音がした。
 力が抜け、震え始めた足でよろよろと崖に近づく。
 やめとけばいいのに、俺は柵から身を乗り出し、持っていた懐中電灯で崖の下を照らした。
 丸い光が照らす中、俺が目にしたのは……月よりも赤黒い血の海に沈む、変わり果てた幼馴染みの姿だった――。