「――ごめん、大和……。わたし、もう疲れちゃった」
展望台の端に立ち、雪乃は弱々しい笑みで、そう言った。
雪乃の背後には、地球の陰に隠れた赤黒い月が浮かんでいる。皆既月食を背にしたその姿は、儚いのにどこか美しく、俺は思わず息を呑んでしまった。
だけど……今は幻想的な光景に見惚れている場合じゃない。
幼いころ、いや、赤ん坊のころから一緒に育ってきた幼馴染み。たとえ何があろうとも守りたいと思った、もうひとりの家族のような存在。
そんな女の子が、すべてをあきらめたような目で、俺のことを見ている。言葉の通り疲れ切った声音で、俺に語りかけている。
目に見えるすべて、耳に聞こえるすべてが、俺の胸を苦しいほどに締めつけた。
「雪乃……。お前、いったい何言って――」
「来ないで!」
すがるようにつぶやき、歩み寄ろうとした俺を、雪乃は鋭い声で制した。はじめて受けた、こいつからの完全なる拒絶だ。踏み出しかけた右足が、金縛りにあったかのように止まる。
俺が足を止めたことを見て取り、雪乃は安心したようにほほ笑んだ。
「……もう、時間ね」
雪乃の視線が、俺の斜め後ろに向かう。そこには時計塔があるはずだ。時刻を確認した雪乃は、俺の方を向いたまま一歩下がり、転落防止用の柵に寄りかかった。
瞬間、嫌な予感が俺の中を駆け抜ける。取り返しのつかないことが起こりそうな、震えるほどに鳥肌が立つ感覚だ。背中から冷や汗が噴き出し、顔から血の気が引いたのがわかった。
「本当は、ひとりでこのときを迎えるはずだったのに……。あんたは、なんでわたしを見つけちゃうかな……」
決心が揺らいじゃったらどうするのよ、と雪乃は再びあきらめ切った顔で笑う。そして、空を見上げるように、柵を軸にして体をそらした。崖下から吹き上がる風が、雪乃の長くてやわらかい髪を揺らす。
「ゆ……きの……」
強烈な寒気に奥歯をカチカチと鳴らしながら、名前を呼ぶ。
雪乃はもはや俺の方を見ることもなく、まるで独り言のように空に向かってつぶやいた。
「こんなことに立ち合わせちゃって、本当にごめん。でも、こうするしか方法がないの。わたしは……結局勝てなかった」
「勝てなかったって、誰にだよ。お前、何言って……」
「あんたが知る必要はない。あんたは……何も気にしなくていい」
強い意志と俺への思い遣りがこもった口調で、雪乃が会話を打ち切る。
同時に、狙い澄ましたかのようなタイミングで一陣の風が吹き、俺は目をすがめた。
「じゃあね、大和。さようなら」
まるで家の前で別れるように気楽な挨拶が、俺の鼓膜を震わせる。
――それは、本当に一瞬の出来事だった。
俺が目をすがめたその瞬間、地面を蹴った雪乃の体が柵を軸にして回転し、その先にある崖の方へと傾いていった。
「雪乃!」
意識するよりも早く、腹の底から叫び声が出ていた。
助けようと足に力をこめ、手を伸ばすが――数メートルの距離があっては届くはずもない。俺の手の先で、雪乃の体が崖の向こうに消えていく。
脳が異常な動作を起こしているのか、頭が熱い。音が消え、目に映る光景がコマ送りのようにスローモーションになっている。
そんな中で、皆既月食を背景に落ちていく雪乃の姿を、俺は涙に歪む視界でとらえ続けた。
「ゆ……!」
雪乃の姿が視界から消えたところで、正常な時間が刻まれ始める。間髪置かずに、崖下から何かが壊れる音がした。
力が抜け、震え始めた足でよろよろと崖に近づく。
やめとけばいいのに、俺は柵から身を乗り出し、持っていた懐中電灯で崖の下を照らした。
丸い光が照らす中、俺が目にしたのは……月よりも赤黒い血の海に沈む、変わり果てた幼馴染みの姿だった――。
カーテンのすき間から差し込んだ朝日が、まぶたを刺激した。閉じていても目に刺さるその光が、俺の意識を急速に浮上させていく。
「う……ん……」
喉の奥から絞り出されたうめき声とともに、俺はまぶしすぎる光から逃げるように寝返りを打った。
夏の太陽は、朝から容赦ない。まだ七月上旬だというのに、カーテンのすき間から差しているとは思えない圧倒的な光量と熱量で、こちらの安眠を妨害してくる。
「…………。だ~、くそ! 暑い!」
二度寝をあきらめ、再び寝返りを打って仰向けになり、ベッドの上で大の字になる。暑さを自覚した瞬間、全身から汗が噴き出てきた気がした。
これだから、夏の朝は好きになれない。このうだるような暑さは、もはや太陽からのいじめだと思う。これから数か月に渡ってこんな朝が続くかと思うと、それだけで気が滅入ってくる。
最終的には目覚ましアラームに起こされるわけだから、それまでは心安らかに寝かせておいてほしい。それくらいのワガママは、許されてもいいと思うんだけどな。
そんなことを考えていたら、〝じゃあ起こしてやろう!〟と言わんばかりに、枕もとでスマホのアラームが鳴り始めた。
「はいはい、もう起きてますよ~」
誰に対して言っているのかわからない返事をしながら、スマホのアラームを切る。スマホの画面には、【7月7日 6:20】と表示されていた。
大きなあくびをして、のそりと体を起こす。心なしか、体が重い。
当然か。カレンダー通りなら、今日は本来休みであるはずの日なのだから。
今日はこれから、土曜日にもかかわらず学校で模試を受けなければならないのだ。つい三日前に期末テストが終わったばかりだというのに、これでは気が休まるヒマもない。学校側としてはそれが狙いなのかもしれないけど、もう少し配慮があってもいいと思う。
「さっさと準備すっか……」
ため息交じりに頭をバリバリとかきながら、とりあえず朝飯のメニューを考える。
今、この家には俺ひとりしかいないんだ。岩石を研究する地質学者の両親が、一週間前から毎年恒例のフィールドワークに出ているから。いつもは勤めている大学の夏休み期間に行くんだけど、今年は〝サバティカル〟とかいう研究用の休暇をもらったらしく、一か月前倒しで出掛けていった。「八月半ばまで帰らん!」とのことだ。
そんなわけで、今は家の中のことを全部俺がやらなくちゃいけない。もちろん、食事の準備も。
とりあえず制服に着替えたら、まずは顔を洗うために洗面所へ行く。鏡に向かうと、眠そうなせいで人相が三割増しで悪くなった自分と対面した。
ナチュラルといえば聞こえはいいけど、実際は無造作にとかしてあるだけの黒髪。やや日に焼けた、これといって特徴らしい特徴のない顔立ち。まごうことなき、十七年近く見慣れた俺の顔だ。
ふと気まぐれに、鏡の前でさわやかさを意識してほほ笑んでみるが……うん、にやにやしている顔が普通にキモい。
おとなしく真顔に戻って、それほど冷たくもない水を顔に引っかける。たいして気持ちよくもないけど、それでも目ははっきりと覚めた。
顔やら意識やらがさっぱりしたら、キッチンで朝食の用意をする――ことはせず、俺は通学カバンを持って家を出た。玄関のドアを開けると同時に、蝉の大合唱と熱気が俺の体を包み込んだ。
一応言っておくけど、朝食を抜くことにしたとか、コンビニで済ませることにしたとか、そういうことじゃない。ただ、うちのキッチンでは朝食を作らないというだけだ。
〝連城〟という表札がついた門扉をくぐり、家の前の道路に出た俺は、そのまま隣に建つ一軒家へ入る。同じ建売り分譲住宅なので、外観は我が家とそっくりだ。太陽から逃げるように玄関先にたどり着いた俺は、家主から預かっている合鍵を使って家の中に入った。
家に上がり込むと、うちとまったく同じ造りのキッチンに直行し、慣れた手つきで冷蔵庫を開ける。今朝は洋食の気分なので、朝食のメニューはピザトーストとカットしたバナナを入れたヨーグルト、スクランブルエッグとウィンナーに昨晩の残りのポテトサラダだ。あとは彩りにプチトマトも加えておく。
「うっし! 完成っと」
それをふたり分用意し、ひとり分を冷蔵庫へしまって、朝食と書いたメモを貼りつける。それができたら、自分の分をリビングに運んだ。
テレビをつけ、朝のニュース番組を流しながら、でき立ての朝食を平らげていく。
我ながら、今日も上手にできました!
――なんて、自画自賛をしていたときだ。
《続いては、こちらの話題です。今月二十八日に迫った皆既月食! 各地の天文台では、夏休み期間中の天体ショーとあって、観測イベントに申込者が殺到しているようです!》
テレビで女性キャスターが、ハキハキとニューストピックを読み上げる。
つられてテレビに目を向けると、映像が切り替わって赤黒く陰った月が映し出された。
瞬間、俺は食べたばかりの朝食を吐きそうになり、あわててテレビを消した。動悸が激しくなった胸を押さえ、全力で走ったばかりのように荒い息をつく。
「……っ。んっ……。……危ねぇ。マジで吐くところだった……」
おさまってきた動悸と吐き気にほっとしつつ、ソファーに深く座って息を整える。
朝からひどい目にあった。あの番組と女子アナが悪いわけじゃないってわかっているけど、ちょっと勘弁してほしい。
「……おはよ、大和」
俺が恨みがましい視線を黒い画面に向けていると、静かになったリビングに寝ぼけた感じの声が響いた。
声のした方に振り返ると、痩せ気味のちっこいやつが、目をこすりながらこっちを見ていた。
「おっす。なんだ雪乃、今日はえらく早起きだな」
「ん……。ちょっとあんたに用あったから……、起きて……。…………」
しゃべっている途中で、立ったまま寝やがった。だから夜更かしはほどほどにしろって、いつも口をすっぱくして言ってるのに……。
こいつは、真上雪乃。赤ん坊のころから一緒に育ってきた同い年の幼馴染みで、この家の主だ。顔立ちはいいのに、伸ばし放題でボサボサの髪にネット通販で買ったダボダボのスウェット姿、化粧っ気とは無縁なすっぴん顔という、ちょっと残念な出で立ちの女である。
ちなみにこいつ、現在は高校に進学せず、絶賛引きこもり中。この二年間、一度も家から出ていない。
よって、食材の買い出しなんかは、ずっと俺がやっている。ついでに炊事洗濯掃除も……。俺がこの家の合鍵を持っていて、こっちで朝食を作ったのも、これが理由だ。
おかげで俺の家事スキルは、この二年でメキメキ上昇。ありがたくないことに、今や母親から花嫁修業免許皆伝と言われるまでになった。
「おーい、雪乃。起きろー。こんなところで立ったまま寝たら、怪我するぞ」
「……む」
頬を軽く叩いてやったら、ようやく少しだけ目を開けた。けどこれ、またすぐに寝そうだな。
「とりあえず顔洗ってこいよ。それと朝飯はどうする? すぐ食うなら、用意するぞ?」
「ごはんはいい。あとで食べる。顔も……べつにいい。用件言ったら、すぐ寝るし」
「さよか。なら、用件とやらをさっさと言ってくれ」
登校までそんなに時間もないので、急ぐように促す。
すると雪乃は、のっそりした動きでふたつ折りにしたメモ用紙を差し出してきた。ひとまず受け取っておく。
「……よろしく」
「――って、おい! それだけかよ!」
雪乃はメモを渡しただけで、のそのそとリビングから出ていった。説明などは一切なし。眠いからって、手抜きしすぎだろ!
ともあれ、ひとまずメモに目を通す。どうやら昨日の夜のうちに用意してあったようで、しっかりとした文字で用事とやらが書いてあった。内容は……ちょっとしたおつかいだ。
「はいよ、了解」
雪乃が上がっていった二階に向かって、苦笑のまま返事をしておく。
メモを制服のズボンにしまった俺は、食器を洗って歯を磨き、リビングのソファーに置いてあったスクールバッグを手に取った。
「そんじゃあな、雪乃。行ってきます!」
返事がないのはわかっているが、雪乃に呼びかけて真上家をあとにする。
時間は朝八時を回ったところだというのに、空を見上げれば太陽はかなり高い位置で輝いている。まだ梅雨は明けていないはずだけど、雨どころか曇りになる気配さえない。
《今月二十八日に迫った皆既月食! 各地の天文台では――》
うちに戻って車庫から自転車を取り出していたら、ふとさっき聞いた女性キャスターの声が頭をよぎった。
「あと、三週間か……」
空を見上げながら、ぽつりとつぶやく。同時に、喉の奥がうずいてきた。
それ以上考えるのをやめた俺は、普段より軽いスクールバッグを自転車のカゴに放り込み、陽炎立つ道へと漕ぎ出した。
天根市立山住高校。俺の家から自転車で十五分ほどのところにある公立校で、俺が通う高校だ。偏差値は市内の進学校の中では真ん中よりやや上といったところか。取り立てて特徴はないけど、進学校のわりに自由な校風が売りの学校だ。
青々とした木の葉が茂る桜並木を自転車で通り抜け、校門をくぐる。運動で火照った体に当たる風が心地いい。
徒歩通学の生徒の間を縫って、駐輪場の方へ自転車を走らせていく。今日の模試は全学年が受けるものだが、三年生は半年後の受験本番を見据えて近くの大学へ行っている。おかげで、駐輪場はいつもよりも空いていた。
寄り道していたので予鈴五分前に教室へ入ると、そこはクラスメイトたちによる雑多な声に満ちあふれていた。
入り口付近の男子集団と軽く挨拶を交わしながら、自分の席まで行く。俺の席は、窓際の前から五列目。この時期は太陽からの容赦ない光と熱にさらされるので、昼間はかなり地獄だ。早く席替えしたい。
机にスクールバッグをかけながら、なんとなく耳を澄ましてみる。
眠い。六日目の朝はきつい。テストのあとにすぐテストとか、ありえねぇ。一日休んでまた学校なんて、やってらんねぇ。その他もろもろ。
聞こえてくるのは、土曜日登校と模試に対するグチばっかりだ。
俺も起き抜けに似たようなことを思ったし、やっぱりみんな、考えることは同じか。進学校とはいえ、受験までまだ一年以上ある二年生の身の上では、直接成績に響かない模試にそこまで真剣にはなれないもんな。
席で頬杖をついてそんなどうでもいいことを考えていると、不意に頭の上に影ができた。
「おい、大和! 朝から何を辛気くせぇ顔してんだ」
「無言で何度もうなずいているとか、かなり不気味よ」
声につられて顔を上げる。両方とも、聞き覚えがありすぎる声だ。そこには予想通り、よく見知った男女の顔があった。
「おはよう、洋孝、夏希」
「ウィッス!」
「おはよう、大和」
洋孝はノリよく、夏希は軽くほほ笑みながら、挨拶を返してきた。
こいつらは、碓氷洋孝と久野夏希。一、二年ともに同じクラスで、いつも俺がつるんでいる連中だ。
洋孝とは、この学校に入学してからのつき合いだ。何がきっかけだったのかは覚えていないけど、なんとなく話すようになり、いつの間にかつるむようになっていた。たぶん、どこかで馬が合うんだと思う。
よく日に焼けた肌に、がっしりとした体格、すっきりとした短髪と、この男はさわやかスポーツマン然とした風貌をしており、ノリもかなり体育会系だ。その見た目通り運動神経も抜群で、背だって一七〇センチの俺と比べて頭半分くらい高い。ただ、部活に縛られる生活は性に合わないらしく、本人は自由気ままに帰宅部をやっている。
加えて底抜けに明るい性格なので交友関係も幅広く、青春リア充街道まっしぐらといった男である。
対してもうひとりの友人である夏希は、小学校六年のころからの腐れ縁だ。雪乃とも親友で、中学のころは三人で一緒にいることも多かった。
ちなみに見た目は、肩のあたりで切り揃えた髪とナイロールの眼鏡が特徴の、いわゆる〝知的な美人〟というやつだ。
実際、夏希は昔から頭がいい。その学力は、山住高校どころか県内一の進学校でだってトップ争いができるレベルだ。全国模試でトップ一〇〇に入ったこともある。
その上スタイルも抜群にいいので、男子からは高嶺の花的な憧れの存在となっている。そして一緒にいることが多い俺は、たまにその男どもから刺すような視線を向けられる。そのうち本当に刺されるんじゃないかと、ちょっと心配。
ともあれ、こいつらは揃って別方向に目立つふたりというわけだ。
何気に俺、人の縁には恵まれている気がする。このふたりが近くにいるおかげで、本来なら地味な俺もクラスの背景にならずに済んでいるし。
「……さっきからどうしたの? まじまじと私たちの方を見て」
無言でふたりを見上げていたら、夏希から訝しげな視線を向けられてしまった。
「いや、べつに。お前らがいると、いろいろ助かるな~って思ってさ」
「は? 朝から何寝ぼけたこと言っているの? そんなんだと、模試で偏差値落とすわよ」
わりとまじめに答えたつもりだったのだが、夏希に呆れられてしまった。
実際、本当に助かってんだけどな。こいつらとだべっていると、余計なことを考えないでいられるし……。気持ちを伝えるのって、難しいもんだ。
あと、ため息をついて首を横に振っているだけの動作なのに、夏希がやると妙に様になるな。さすがは美少女優等生。
そして洋孝は、深く考えることなく「そいつはよかった!」と笑っている。
こいつのいい意味で大らかなところは、同性の俺から見ても好ましい。……大らかすぎて宿題の期限をぶっちぎりまくり、俺に泣きついてくるところが玉に瑕だが。
「まあいいわ。それよりも大和、今日の放課後、時間ある? 洋孝と、帰りに『ミルキーウェイ』に寄っていかないかって話していたの」
「今日、七夕じゃんか。今朝、あの店の前を通ったら、今日は特別サービスやるって看板が出ててさ。なんと、短冊に願い事を書いたら、タダでスコーンがもらえるんだと! こりゃもう、行くっきゃねぇだろ!?」
机に手をついた夏希と洋孝が、声を弾ませながら口々に言う。ふたり揃って俺のところに来た理由はそれか。
夏希たちが言うミルキーウェイってのは、天根駅の近くでひっそりと開いている喫茶店だ。知る人ぞ知る隠れた名店で、高校生にも優しい値段でおいしいコーヒーやデザートを味わえる。アンティーク調の内装もおしゃれで、俺ら三人の行きつけの店だ。
あそこのスコーンがサービスでもらえるというのは、確かに魅力的だ。
「……あ~、すまん。今日は用事あるから、俺はパスしとくわ。ふたりで行ってきてくれ」
ただ、俺はふたりに詫びながら、その誘いを断った。後ろ髪を引かれまくるけど、先約があるので仕方ない。
俺が断ると、夏希がおもしろくなさそうな表情を見せた。ノリが悪いと言いたげだ。
「まったく、もう……。相変わらず、ノリが悪いったらありゃしない」
と思ったら、その通りに言われた。こういうときだけは以心伝心だな。素直になんでも言えるのは夏希の美点だけど、できればもう少しオブラートに包んでほしい。
ちなみに洋孝の方は、俺の「ふたりで行ってきてくれ」発言に、まんざらでもなさそうな表情を見せている。
何を隠そう、こいつも夏希に惚れている男のひとりなのだ。性格に似合わず意外と奥手なために告白はしていないが、正真正銘ベタ惚れである。
なお、本人は俺以外にはバレていないつもりらしいが、感情が表情に出やすいからクラスメイト全員が知っている。唯一こいつの好意に気づいていないのは、惚れられている夏希本人だけだろう。
今も夏希は洋孝の幸せそうな表情に一切気づかず、呆れた顔で俺の方を見ていた。
「それで、〝用事〟って、また雪乃関係?」
「まあな。今朝、頼まれちまって」
頬を人差し指でかきながら、苦笑交じりに正解と告げる。
それで夏希はあきらめてくれたのか、「はいはい、ごちそうさま~」と投げやりに言いながら、手をひらひらと振った。どうでもいいけど、のろけ話でも聞いたかのような反応をするのはやめてほしい。
「雪乃ちゃんって、あれだろ? 大和の幼馴染み。本当にマメだよな、大和は。甲斐甲斐しいっつうか、なんつうか」
「こういうのは、単に尻に敷かれているって言うのよ。本当に、すっかり雪乃の忠犬ポジションが板についちゃって……。情けないったらありゃしない」
「いやいや夏希よ、そこはあれだろ。大和としては、上に乗られたその重みがまた気持ちいい的な? たとえ尻に敷かれようとも、頼りにされることに喜びを感じるんだって」
「それって、ただのドMじゃない。本気でそんなこと思っていたら、ちょっと引くわ」
「……さっきからお前ら、言いたい放題だな!」
黙って聞いていれば、好き勝手言ってくれやがって。
とくに夏希、誰が忠犬でドMだ! 俺は雪乃のペットじゃねぇ!
あと洋孝も、〝オレはわかってるぜ!〟的な理解者面でサムズアップしてくるな。その親指へし折るぞ!
さっきの「いろいろ助かるな~」ってやつ、取り消す。こいつらといると、余計なことを考えるヒマもないくらい疲れる!
「ともかく! そういうわけで、今日は無理! わかったか!」
「はいはい、わかりました。あなたは、心行くまで雪乃の尻に敷かれてきなさい。ミルキーウェイのスコーンは、私と洋孝のふたりでいただいてくるから」
「マジでか! よっしゃ!!」
夏希の仕方ないといった感じのセリフに、洋孝が人目も憚らずガッツポーズを決めた。つい数十秒前まで人をおもちゃにしていたことも忘れて、幸せ絶頂の喜色満面だな。本当にわかりやすいやつだ。
けどな洋孝、今のお前、夏希への好意がだだ漏れだぞ。ここまで露骨だと、さすがにバレるんじゃないか?
夏希の様子を、そっとうかがってみる。
「あら、意外ね。洋孝、そんなにスコーン好きだったんだ」
うん、普通に大丈夫そうだな、これ。洋孝が喜んでいる理由を、明後日の方向に勘違いしていた。心配して損した。
にしても、なんなんだろうな、この優等生。ヒロイン特性みたいものを兼ね揃えているくせに、鈍感さだけはラブコメの主人公並みだ。ここまで露骨にしても気づいてもらえんとか、逆に洋孝が不憫に思えてきたぞ。
と、そんな漫才じみたやり取りを見ている間に、本鈴のチャイムが鳴った。
チャイムが鳴り終わると同時に教室へ入ってきた担任が、「席に着け~」と言いながら、教壇に立つ。
ガヤガヤと騒いでいたクラスメイトたちも、そそくさと自分の席に着いていった。俺たちの雑談も、ここで打ち切りだな。
「じゃあね、大和。またあとで。洋孝も」
「おう。お互い頑張ろうぜ」
俺が応えると、夏希はトリップしたままの洋孝を放置して、軽く手を挙げながら足早に去っていった。
これからテストだというのに、余裕さえ感じられるな。
まあ、あいつの実力なら当然か。本当に、なんでこんな中途半端な進学校にいるのか、不思議でならない。
「――ああ、模試か……。なんでこの世には、模試やらテストやら余計なものがわんさかあるのかな……。神様は、そんなにも俺を補習漬けにしたいのか」
一方、いつの間にか現実に戻ってきたらしい洋孝は、力なく天を仰いでいた。担任が来たことにも気づいていないのか、自分の席に戻ろうとする気配さえない。
こいつの学力は、テストの度に赤点ラインのギリギリ上を低空飛行しているレベルだからな。期末と模試のダブルパンチで、相当こたえているのだろう。
ちなみに俺の学力は、どうにか平均点レベルを保っているので、まだ大丈夫!
「文句言うなよ。いいじゃないか。それが終われば、楽しい放課後が待っているんだからさ。それに、模試に赤点はないから補習もないぞ。――あと、席戻れよ」
「あ、そっか。補習ないじゃん! ラッキー!」
俺がフォローしてやると、洋孝はうれしそうに笑い始めた……その場で。席戻れって部分、聞いちゃいないな。
「んじゃ、サクッと片づけられて、放課後に備えるか!」
「いや、〝片づけられて〟ってお前……。そこは嘘でも〝片づけて〟って言えよ」
「おいおい大和~、あんまりオレを見くびるなよ。相手はこの間の期末テストよりも難しい模試だぜ? やつらの手にかかれば、オレなんて速攻で一捻りだ。抵抗するヒマもないくらい瞬殺だぜ!」
洋孝がとても男前な顔で、びっくりするほどへたれたことを言いやがった。
ある意味名言だな。すっかり自分の席に着いたクラスメイトたちが、尊敬の眼差しで洋孝を見ている。こいつ、将来かなりの大物になるかもしれない。
ちなみに洋孝の意中の人であるところの夏希だけは、呆れた様子で首を振っている。残念だったな、洋孝。
そんな妙に静まり返った空気の中、大きな咳払いが教壇の方から響いた。洋孝と揃って教室前方へ目を向ければ、担任が微妙な表情でこちらを見ていた。
「チャイムが聞こえなかったのか。くだらないことを言ってないで、お前もさっさと席に戻れ、碓氷。話が始められん」
「あれ? 先生、いつの間にそんなところに。気配殺して教室に入ってくるとか、先生もやりますね。全然気づかなかった!」
洋孝が無邪気な笑顔で、担任に「ナイスです!」とサムズアップしてみせる。さっきも俺に向かってやってきたが、これはこいつの癖のようなものだ。一日に最低でも五回くらいやっている。
一方、洋孝からお褒めの言葉をもらった担任は、少し後退気味の額に手を当てて、ため息をついていた。……ちょっとかわいそうに思えてきた。
「お前、そろそろおとなしく席に戻れ。その、なんというか……気の毒だ」
ちらりと先生にいたたまれない視線を送りながら、洋孝に促す。
「おう、そうだな! んじゃな、大和」
俺の言葉の意図を読み取ったわけではないだろうが、洋孝はさわやかな笑顔を残して去っていった。自分は空気読めないくせに、周囲には「仕方ないな」と思わせる空気を作ってしまえるところが、あいつらしい。
ともあれ、洋孝が席に戻る間に、担任も心を切り替えることができたようだ。よどみなく、模試の時間割や注意事項を伝えてくる。
それを聞きながら、俺は手早くテストを受ける準備をした。
窓から見える太陽は、まだ高いながらも南から西の空に傾いてきている。
時刻は午後三時十五分。最後の教科である国語の終了まで、残り十分だ。試験中のため声はないが、誰もができる問題を大体解き終え、どこかふわっとした空気が流れている。担任も六日連続勤務の疲れが出ているのか、眠そうな顔であくびをしながら試験の監督をしていた。
学生になってから何度となく経験してきた、妙に気がゆるむ間だ。俺も大多数のクラスメイトたちと同じく肩の力を抜きながら、窓の外を眺め――。
「――ッ! ……くそ」
唐突に襲ってきためまいと不快感に口もとを押さえて、誰にも聞こえないほどの声でうめきを漏らした。
朝もそうだったが、最近患った発作だ。
赤黒く染まった月。薄闇に染まる空。――の疲れ切った笑顔。見えない時計。風にあおられて宙に広がる長い髪。血の海に沈む……変わり果てた――。
いくつかのイメージが俺の頭の中を揺さぶり、三半規管をマヒさせる。手足の先が冷え、椅子に座ったまま平衡感覚を失い、車酔いでもしたみたいに猛烈な吐き気に襲われる。そして、激しい動悸の苦しさで、全身に嫌な脂汗が浮かんだ。
……完全に油断していた。
発作と言っても、俺のそれは体の不調じゃない。もっと精神的なもの――嫌な記憶のフラッシュバックだ。情けないことこの上ない話だが、ぼんやりして思考停止状態になったりすると、無意識にとある記憶を思い出してしまうのだ。寝ているときに夢に出てくることもあるから、たまったものではない。
とりあえず気を強く持つことでフラッシュバック自体は打ち消せたけど、頭に残る嫌な感じは消えない。
こういうときは、なんでもいいから別のことを考えていた方がいいだろう。ひとまずは目の前の模試のことでいいか。
大きく深呼吸し、机の上に置かれた問題冊子と裏返した解答用紙へ目を落としながら、今日一日のテストを振り返る。
模試の出来は、どの教科もぼちぼちだった。前回のときに本腰を入れて復習していなかったことで、今回も似たり寄ったりの出来になったと思う。
気がかりがあるとすれば、英語のリスニングがいまいちだったことか。なんだかリスニングについては、前よりも少し悪くなった気がする。英語の聞き取りはどうにも苦手だ。このままだと受験本番で足を引っ張りそうだし、ちょっと本腰を入れて鍛えた方がいいかもしれない。
……よし、いい感じだ。だいぶ持ち直してきたぞ。
この勢いのまま、前方――洋孝の方へ目を向ける。俺の三列前に座る洋孝は、開始一時間も経たないころから頬杖をついて居眠りを始めていた。大胆なことだ。あいつのことだから、おそらくわからない問題はすべてスッパリあきらめたのだろう。「部分点なんぞ要らん!」と言わんばかりの思い切りのよさは、ある意味尊敬する。
一方、俺の右斜め前方、廊下側最前列に座る夏希は、解答の見直しをしているみたいだ。横顔を見るに手応えありって感じだから、今回はかなりの好成績を叩き出すかもしれないな。
「……よし。こんなところか……」
小さなつぶやきを漏らしながら、ほっと一息つく。
矢継ぎ早にいろいろ考えたおかげで、気分の悪さはほとんど消えた。平常運転だ。あまりうれしくないことだけど、発作への対応もこの一週間でだいぶ慣れてきた。
同時に時計が三時二十五分を差し、教室に試験終了のチャイムが鳴り響いた。
「そんじゃあな、大和。お勤め、頑張れよ~」
「雪乃によろしく言っといてね、忠犬ヤマ公」
「お勤めじゃねぇよ。それと忠犬でもねぇっての! いい加減怒るぞ、夏希!」
別れの挨拶代わりに俺をイジりながら去っていく洋孝と夏希を、文句交じりに見送る。あいつら、顔を合わせる度に俺をからかわんと気が済まんのかな。おそろしく迷惑な話だ。
もっとも、このふたりは俺からの文句なんてどこ吹く風だ。軽く聞き流して、さっさと教室から出ていきやがった。……覚えてろよ。
「にしても洋孝のやつ、顔面ゆるみまくりだったな。浮かれすぎて、下手なボロを出さないといいが……」
スクールバッグに筆記用具を放り込みながら、さっきの洋孝の顔を思い出して笑う。夏希とふたりで喫茶店へ行くだけだというのに、この世の春というか、呆れてしまうくらい幸せそうな笑顔だった。あれ、絶対にいくつかやらかすぞ。その上で、夏希に無自覚スルーされる姿が目に浮かぶ。
「――っと、やばい。俺もそろそろ行かねぇと」
洋孝たちのコントじみたやり取りを想像して、気色悪い笑顔を浮かべている場合ではない。教室の掛け時計に目をやり、急いでスクールバッグをつかむ。
今日の雪乃の用事は、ちょっとした肉体労働だ。道具も必要だから、一度家に帰って準備しないといけない。夏で日没が遅くなっているとはいえ、それなりに急いだ方がよさそうだ。
人がまばらな校舎を早足に通り抜け、駐輪場に向かう。
自転車にまたがった俺は、まだ西日が厳しい通学路を進んでいく。少し急ごうと思って立ち漕ぎをしていると、西日にあぶられた体から、あっという間に汗が噴き出してきた。制服が体に張りつく。軽く息が上がるころ、ようやく家が見えてきた。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぎながら、口をついて言葉が出てくる。誰もいないとわかっているのに、なんでいつも言ってしまうかな。不思議だ。
くだらないことを考えながら、Tシャツとジーンズというラフな格好に着替える。
そうしたら玄関まで戻り、折り畳み式ののこぎりと軍手、虫よけスプレーを紙袋に詰めた。
これら三点セットを持って向かうのは、家のすぐ近くにある寺だ。敷地に入ると、ちょうど住職さんが掃き掃除をしていたので、挨拶がてら声をかけた。
「こんにちは!」
「ん? ああ、連城さんとこの……。はい、こんにちは」
俺が頭を下げると、人のいい住職さんは柔和な笑みを浮かべて挨拶を返してくれた。
両親の代わりに参加する町内会の奉仕活動なんかで会う機会も多いから、この住職さんとはすっかり顔馴染みだ。おかげで今回のお願いも頼みやすかった。ご近所づき合い、すごく大事。
「今朝、お願いしていた件で来たんですけど」
「ああ、裏の竹だよね。十本でも二十本でも、好きに取っていっていいよ」
「いや、細いやつ一本で十分ですから。それじゃあ、ちょっと失礼します」
住職さんへもう一度頭を下げて、寺の裏手に回る。寺の裏にはお墓があり、その奥には小さな竹林があった。今日の目的地だ。
もはや言うまでもないかもしれないが、ここに来た目的は単純明快、七夕飾り用の笹の入手だ。今朝、雪乃が渡してきたメモに【今夜、七夕やる。笹一本用意して】と書いてあったので、学校へ行く前にちょっと回り道をして、住職さんに一本くださいと頼んでおいたのだ。
家から持ってきた虫よけスプレーを全身に吹きかけて、竹林の中に入る。たぶん二階のベランダに飾るんだろうから、立派な竹ではなく小さな笹で十分だろう。長さが二メートルもないくらいで、太さは一~二センチくらいがベストかな。
「お! これなんか、いいんじゃねぇか?」
もともとそんなに広くない竹林だ。ものの数分で見て回ることができ、条件にぴったりの笹も見つかった。
軍手をはめて、のこぎりでギコギコと笹を切る。親指程度の太さしかない笹は、俺でもすぐに切り落とすことができた。
「さてと! そんじゃあ行くか」
無事に目的の笹を手に入れた俺は、意気揚々と竹林をあとにした。
住職さんにもう一度お礼を言って寺を出た俺は、ひとまず軍手やらのこぎりやらをうちの玄関にしまい、そのまま隣の家の門扉をくぐった。
玄関に笹を立てかけた俺は、奥に向かって「雪乃!」と呼びかける。玄関先でしばらく待っていると、二階から雪乃が眠たそうに目をこすりながら降りてきた。
「なんだ、お前。昼間から寝てたのか?」
「うっさいな……。さっきまで勉強してたけど、あんたがなかなか来ないから、待ちくたびれて眠たくなっちゃったんじゃない」
雪乃がぶすっとした表情で、俺をにらみつけてくる。半分以上寝ていた朝と違って意識がはっきりしているから、俺に対する内弁慶っぷりも平常運転だ。
一緒に育ってきたせいか、この幼馴染み、俺に対しては言動から何から容赦がないんだよ。今朝みたいに、いきなり変な要求してくることもあるし。そのくせ、昔から外ではいつも俺の陰に隠れる人見知りっぷり。なんというか、なかなかなつかない生意気な家猫のようなやつなんだ。
まあ、根は素直ないいやつなんだけどな。ただ、とことん不器用で恥ずかしがり屋で、感情をうまく表現できないってだけで……。そんで、周囲につっけんどんな態度を取ってしまうだけで……。でなければ、俺も幼馴染みという理由だけで、ここまで世話を焼いたりしない。
それに雪乃が引きこもりなのも、ある意味では仕方がないことだったりする。
こいつ、今でこそダメ人間だけど、中学時代までは学業において神童と呼ばれたほどの才女だったんだ。その学力たるや、あの夏希をも上回っていたほどだから、相当なもんだろう。
そもそも夏希が俺たちとつるむようになったのだって、小六のときにテストで雪乃に挑んで返り討ちにされたことがきっかけだしな。以来、雪乃と夏希は何度もテストで勝負を繰り返したが、両者満点の引き分けを除いて、すべて雪乃の勝ちだった。
ちなみに余談だけど、この才女、引きこもった今も勉強だけはしっかり続けていて、すでに有名国立大に入れるレベルの学力は有している。夜更かし上等な根っからの勉強フリークなんだ。趣味が勉強なんてやつ、俺はこの幼馴染み以外に知らない。夏希は微妙なレベルだが。
そして何を隠そう、こいつは俺の家庭教師でもあったりする。家事を引き受ける報酬代わりに、勉強の面倒を見てもらっているんだ。俺が高校で平均レベルの成績を維持できているのも、こいつの指導あってこそだ。
とまあ、そんなふうに雪乃は勉学最強だったんだけど、その才能がこいつに与えたのは、恩恵だけじゃなかったんだ。いや、雪乃からしたら、この才能はただ自分を苦しめるだけの厄介者でしかなかったのかもしれない。
その兆しが現れたのは、小学六年の二学期になったころからだった。中学受験をするやつを中心として、雪乃を妬む連中が少しずつ出始めたんだ。
それまで普通に接してくれていた友人が、雪乃の才能を理由に離れていく。それどころか、ときには嫌がらせさえしてくる。
結局、最後までこいつから離れなかったのは、俺と夏希だけだった。
俺や夏希ができる限りフォローをしていたけど、もともと引っ込み思案な性格だ。雪乃が一握りの人間を除いて心を閉ざすまでに、そう時間はかからなかった。中二になるころには学校を休みがちになり、そこへ追い打ちをかけるような事件を経て、中三の夏から完全な不登校かつ引きこもりとなってしまった。
こんな感じで、こいつもこいつなりに、つらい経験をしているのである。必要以上の才能に苦しむ、かわいそうな少女なのだ。
「……何? 今度は人の顔見ながら、妙に優しい笑顔なんかして。すごくキモいんだけど。キモすぎて軽く鳥肌まで立ってきたんだけど」
「お前はほんと、俺の心をえぐるようなことを平気で言うな」
しかも、変質者でも見るような視線つきで……。てか、自分の体を抱きながら、俺から距離を取っていくな! いくら俺がお前の言動に耐性あるっていっても、さすがにちょっと泣きそうだぞ!
「ああもう、悪かったよ。ただ、お前がどんだけダメ人間として落ちぶれても、俺は見捨てねぇって、決意を新たにしてただけだ。気にしないでくれ」
「……あんた、全然人のこと言えないからね。というか、一発ぶん殴っていい?」
「そんなことより、お前に頼まれてた笹、もらってきたぞ」
怒り顔の雪乃をスルーして、靴箱に立てかけておいた笹を指差す。
歳のわりに小さな拳を握りしめていた雪乃も、頼んできただけあってこれは気になっていたらしい。俺への怒りを保留にし、つっかけで三和土に下りてきた。
同じ高さの場所に立つと、こいつの頭の天辺が俺の鼻の頭くらいにくる。髪はぼさぼさだけど、それでも女の子らしい香りがして、少しドキリとした。
そんな俺の動揺になど気づくこともなく、雪乃が笹の葉に手を触れる。その顔には、満足げなほほ笑みが宿っていた。思わずこちらまで笑顔になってしまう。
「どうだ? お気に召したか?」
「まあまあじゃない? ベランダに置くにはちょうどいいかも」
「そうかそうか。じゃあ、お礼の言葉のひとつでももらいたいもんだね。これでも俺、夏希たちの誘いを断って、こいつを取りにいってきたんだぞ」
わざとらしく得意げに胸を張って、雪乃を見下ろす。
べつに、本気で礼を言ってほしいわけではない。うれしそうなこいつを見ていたら、ちょっとからかいたくなったってだけだ。
案の定、雪乃はとたんに仏頂面に戻り、半眼で俺を見上げてきた。もっとも、それも束の間のことで、すぐに明後日の方を向いてしまった。
意外だ。てっきり「うっさい!」とか言い返してくるかと思ったのだが……。
俺が拍子抜けしていると、雪乃はくちびるをもごもごと動かし、やがて小さく口を開いた。
「その……あ、ありが……とう……」
真っ赤な顔でくちびるをとがらせながら、か細い声でお礼の言葉を口にする雪乃。
一方、俺はびっくり仰天。
「おおう! まさか、本当に言うとは思わなかった。明日は雪でも降るのか? 夏だぞ、今」
「……あんた、本当に一発殴られたいわけ?」
再び拳を握りしめた雪乃が、プルプルと震え出した。
いかんな、そろそろマジ怒りだ。さすがに、からかいすぎたか。このままだと本当に殴りかかってきそうなので、ここは素直に謝っとこう。
「すまん、すまん。なんか珍しくしおらしかったんで、ついな。喜んでもらえたなら、何よりだ。暑い中、せっせと運んできた甲斐があったってもんだ」
「あっそ! どうりで汗臭いと思った!」
すっかりへそを曲げてしまったらしい雪乃が、地味に傷つく言葉を残し、家の奥に引っ込んでいく。そんなに汗臭いかな、俺……。こっそりとTシャツの袖のにおいを嗅いでみる。
「大和、お腹空いた! 早く晩ごはん作って!」
奥から雪乃の不機嫌そうな大声が響いてくる。
体が小さいせいか、俺の何倍も頭いいのに妙にガキっぽいんだよな。あと、虫の居所が悪いからか、声量がいつもの二割増しだ。
俺は思わず笑ってしまいながら、靴を脱いで家に上がった。
「雪乃、今日の晩飯は何食いたい?」
「……オムライス」
「はいよ、了解」
手のかかる幼馴染みの要望を聞き、俺は早速キッチンで料理に取りかかった。