その日、琵琶湖博物館のロビーに森岡世志乃はいた。
館内から見えてしまう琵琶湖の翡翠色した水面は、穏やかな秋風に揺れ、今年の猛暑を伝える一切合切は、まるで幻だったと言いたげに蓮の花を枯らせると、嘘のよう色褪せた花托と丸い葉を育んでいるようだ。
世志乃は黒基調のブラウスとスカートに身を包んでおり、気怠げにしなを作るその身のこなしは、まさに黒猫を思わせる異質な存在感であった。
「ご無沙汰してます。中山健一さん……」
世志乃の視線の先には、ポロシャツ姿でスラックスをはいたポニーテールの中山がいた。IDカードをポケットにしまう学芸員補の彼は、休み時間を利用して世志乃の待つミュージアムカフェに周囲の目を気にしながら着席したのだ。
「お久しぶりと言いたいところだけど……αチームのお嬢さんが、今日は何の用かしら? 休日にでも会えるのに、わざわざここまで来てくれた訳は?」
「まあまあ、居ても立っても居られなくなったっていうのはこちらの事情で……。いや、中山健一さん、メールではどうしても済ませられないような大切な話があって――」
勧められるがままにアイスコーヒーを啜った中山は、なおも表情から疑問の念が払えずにいるようだ。
「電話やメール文書では伝えきれない事って何? αチームのリーダーも通してないって、余程の事情なんでしょうね。ひょっとして、この間のダイブ中に起こった事故に関する事かな? それとも遭遇した恐竜に関係する事? まあいいわ、全部聞きましょう」
「そうこなくっちゃ! 実はお願いがありましてね……」
森岡世志乃は笑顔を崩さず、単刀直入に中山健一に願いを伝えた。
――松上晴人とセラミックの急接近を阻止し、彼と彼女が恋仲になる事を諦めさせて欲しいと。
『βチームのリーダー・松上晴人さんには長年付き合っている彼女がいて、結婚間近なのだと瀬良美久さんにそれとなく伝えて欲しい』
「…………」
「松上さんの彼女は私だという設定でもいいのですが、いかんせん嘘くさくなるようでしたら、どなたか別の女性という事にしていただいても一向にかまいません」
「いや…………何で?」
「う~ん、そう仰ると思っておりました。理由はただ一つ、松上さんがセラミックに奪われてしまう事を、私……絶対に認めたくないからです」
「だからってあなた、事実と違う嘘まででっち上げてやる事~? 大人げないわよ。あなたらしくないわ」
「正直、そこまで追い詰められているのです。――と言いますか中山健一さん、いいのですか?」
「ええ!? 何の事よ~?」
「あなたも松上晴人さんの事が一途に好きなのでしょう?!」
「うっ! そりゃそうだけど」
「だったら協力してください。ここは指をくわえて、成り行きを見守っている場合ではありません」
「う~ん、セラミックちゃんは大事なβチームの戦力でね。かといって彼女がリーダーとくっ付いちゃうのも正直、何だかシャクだわ」
「そうでしょう? 今動かないと、あと一歩で松上さんは落とされちゃいますよ」
「分かった、分かったわ。ただし森岡さん、あなたに協力するためには、ある条件をクリアしてからでどうかしら?」
「……何でしょう? 何でもどうぞ」
「うちのセラミックちゃんと恐竜料理で対決してもらって、見事に勝利を収める事ができたら無条件で力を貸すわ。それでどう?」
「いいですね! 相手にとって不足なしです。……言っておきますが、私は完璧超人であり、料理の腕前もプロ級なのです。メニューは何に致しましょうや?」
森岡世志乃の周囲には目に見えない暗黒の炎が燃え上がり、周囲を焼き尽くすだけでは飽き足らず、悪寒を感じた中山健一の鼻毛をも焦がしながらクシャミを連発させたのである!