「いゃああああああ! うおおおおおお! 絶対に許せねえ! 瀬良美久ゥゥゥ!」
スケルトン壁掛け時計の円盤上を永久に周回する短い方の針が天頂の12を過ぎる頃、静かな暗闇に包まれた高級住宅街の窓からは、煉獄から響いてくるような禍々しい女の声が漏出してきた。
「私の……私の松上晴人様に何をしたの? 何が起こったの? 何をされたの? あ~ッ、声に出してしまうほど、くやしいィィィ!」
輸入ベッドの上でセンスの良いキャミソールが、はだけるほど転がりまくった森岡世志乃は、高級羽毛枕に沈む美しくも歪んだ顔を暫く浮上させる事ができなかった。
事の発端は、世志乃がαチームのリーダー、松野下佳宏からβチームの遭難エピソードを秘密裏に聞いた夕方から。
「――ここだけの話だけど、“ジュラアナ長野”で事故が起こったらしい。それもあの松上晴人率いるβチームだってんだから、ちょっと驚いたよ。アロサウルス狩りに意気揚々と出発したのはいいけど、ジュラ紀で何日か音信不通になってたらしいぜ」
「ええ?! 全員無事だったんですか?」
「ああ、幸いにも行方不明になってた2人は救出されたらしいけど、現場は大騒ぎになってた」
「2人……? 誰と誰だったのですか? まさか松上晴人さん?」
「そのまさかだよ。不意打ちを食らって崖下まで転落したのは、松上リーダーとセラミックちゃんだそうだ」
「セ、セラミック! よりによって彼女と!?」
「2人仲良く1億年前の世界でサバイバル生活を送ってたらしい……何でも怪我したのは松上だけで、セラミックちゃんは軽傷だったそうだ。彼女はホント強運の持ち主だね」
日焼けしたクールビズ姿の松野下佳宏は、3秒後に思わず目を見張って固まってしまった。
αチームが拠点にしている事務所のソファで、猫顔のスタイリッシュ美女、森岡世志乃が豹変する瞬間を目撃してしまったからだ。
『まずい』、『無神経に煽ってしまったか』と後悔した時には、すでに手遅れだった。
「ふ、2人っきり……。若い男女が危機的な状況の中で、お互いに助け合いながらピッタリと寄り添って脱出する場面なんて……。後はもう、恋に落ちて終わるハッピーエンドの展開しか……考えられない! そう! そうじゃないですかああああああ!?」
「わあああ?! 落ち着け、落ち着くんだ世志乃さん!」
森岡世志乃が、嫉妬に狂うのは無理もない。彼女がセラミックと同じく恐竜狩猟調理師を目指したのは、少しでも憧れの松上晴人に近付きたいがため……。大学の非常勤講師として何度か見かけたその日から、いや聴講する度に、松上が放つ不思議な魅力の虜となったのだ。
恋に落ちた彼女は、ありとあらゆる手段を用いて彼にアプローチしたが、恐竜にしか興味を示さない変人を振り向かせるには、もはや自身が恐竜ハンターになるしかないように思えた。
名のある大手銀行の頭取の娘である森岡世志乃は、本物のお嬢様育ちであり、親の期待に応えるべく英才教育も施され、将来を嘱望される存在だったのだ。そんなエリートの彼女が危険で体力勝負の恐竜狩猟調理師を目指すと周囲に公言した時、両親が受けたであろう多大なる精神的ショックは計り知れない。
彼女がリスキーな恐竜ハンターを続ける理由とモチベーションの源泉は、松上晴人様を手に入れるためだと言い切っても過言ではないのだ。パッと出のセラミックごときに彼を奪われる事は、長年思い続けてきた世志乃のプライドが許さないのは当然の事なのであった。
そんな森岡世志乃の渦巻く情念を知ってか知らずか、変に刺激してしまった松野下リーダーは、荒ぶる彼女を静めるために(周りに誰もいなかったとはいえ)土下座まで披露してしまった次第である。
「……どうしたの?! 世志乃さん? 何かあったの?」
はっと我に返ると、自室のドアの向こうから心配そうな母親の声が聞こえてきた。
「ううん、大丈夫。いいえ! 何でもありませんわ、お母様!」
森岡世志乃は、引っ張りすぎて少し破けてしまった羽毛枕から飛び出したダウンを掻き集めるのに夢中となり、チェストの角に足の小指をぶつけて悶絶した。