「行ってきま~す!」
アニメの主人公のようにクロワッサンを咥えたまま、自転車に乗るセーラー服の女の子。前カゴを改造してランチプレートを置けるようにしている。振動でこぼれないように工夫されたスクランブルエッグ用のトレー、ソーセージ用ラック、ナイフとフォーク用ホルダー、牛乳パック保冷庫まで装備。手が汚れても大丈夫なようにハンドルグリップには紙ナフキンが巻かれていた。セミロングの黒髪がかかる肩口には紙エプロンがはためく。
自転車で走行しながら食事しても決して下品ではなく、どこか優雅で周囲をほのぼのとした気分にさせる雰囲気は、彼女の生まれ持った天性なのかもしれない。まるで滋賀県の守山市においては当たり前のような、とても絵になる風景なのだ。
セラミックこと瀬良美久は、まだ高校2年生であるが恐竜が闊歩しているジュラ紀に繋がっているという謎の穴、通称“ジュラアナ長野”を探検するために毎日自己流の修行に励んでいる。
彼女の夢は世界初の恐竜料理専門店を開店する事……。
翼竜が年間数百匹も現代世界に飛来する今日では、恐竜の存在はすっかり新鮮味や価値を失ってしまった。逆に人類の安全を脅かしたり、畑を荒らす厄介な害獣扱いに成り下がっている。日本人らしいと言うか、政府が取った政策は意外にも……いや、当然のごとく『食材として利用しよう』だった。
誰かさんが恐る恐る調理して食べて気付いてしまったのだ。
恐竜肉が、とてつもなく美味しい肉である事実を。
鳥類に進化する恐竜、いわゆる竜盤類の中の獣脚類は温血動物で羽毛に覆われており、見た目も行動も鳥そっくりだった。当然肉質も鶏肉そのもの。いや、高級地鶏と比べてもはるかに上質なコクと旨味と脂のノリは、一度でも口にしたら忘れられなくなる夢のような味と食感なのだ。
セラミックの自宅は店舗兼自宅で、父親はカレー店を家族経営で切り盛りしている。黄色い看板にカレー皿のトレードマークは、とあるカレー専門店を彷彿とさせるが、ここは黙っておこう。
彼女の場合、中学生の頃は服にカレーの匂いが染み付いていないか常日頃から気にしていたが、今ではカレー臭をむしろ誇りに思うようになっていた。脱サラした後、独学で料理を学びながら飲食店を起ち上げ、家族を扶養するまでになった父親を心から尊敬しているからだ。
まさか、そんな父親と対立する事になろうとは、登校中のセラミックには知る由もなかったのである。
教室の外は、麗らかな五月晴れ。春に花を咲かせた桜の木は、代わりに生き生きとした青葉を風に揺らしている。ゴールデンウィーク明けの気怠い空気を吹き飛ばしてしまうような陽気だ。
「美久、今日の放課後、ヒマしてない?」
教室前の廊下でセラミックは、同級生の佳音に買い物に誘われた。昼休みに隣の教室から、ひょっこり顔を覗かせたのだ。
肩までの黒髪を艶やかになびかせる彼女は所謂、近所の幼なじみで、セラミックと小学生からの付き合いである。性格は真逆で慎重派、保守的、地味、運動神経ゼロ。なのに彼氏アリという結構したたかな面も持っている。それもそのはず松上佳音は外見だけで言えば学年一の美少女という噂。ちなみに二番はセラミックなので、二人して街を歩いていると田舎町なのに好ましからざる野郎どもからよく声を掛けられるという。
「ごめん、今週末はダイブの日なんだ。色々準備に忙しくてね」
「そういえば、お兄ちゃん……連休明けの土日は恐竜ハントに出かけてくると言ってたような……」
「そう! 正にそれよ! 私は佳音のお兄様に便乗して“ジュラアナ長野”にダイブ予定って訳」
「美久~、よくやるわね。まあ、お兄ちゃんもお兄ちゃんだけど……。好き好んで超危険なジュラ紀に飛び込むなんて気が知れないわ」
「いやいや、私には一人前の恐竜ハンターになって恐竜専門料理店を開くって夢があるからね。今からコネを作っとかないと」
「卒業したら、恐竜ハンター専門学校に入学か……。結構ハードだねぇ」
それから佳音は最近彼氏とうまくいっていないような話をした。美久を遊びに誘ったのも、親友に色々と愚痴を聞いて貰いたかったのかもしれない。
何でも進路の事で最近喧嘩したらしい。その話を耳にした時、セラミックはもう高校生活も半分を過ぎちゃったのかと、しみじみ思った。友人の進路か……彼氏彼女で同じ大学に行くって、あまり成功談を聞いた事がないような。
「美久みたいに卒業後に何がしたいとか、何になりたいとか、しっかりとしたビジョンができてる人は羨ましいよ」
「う~ん、そうかな……」
セラミックは、むしろ何も考えていないというか、好きな料理の道で生きていくために手っ取り早く高額収入が見込める恐竜狩猟調理師を選んだだけだった。食材のルート確保のために自分で恐竜を狩ってこなくてはならないのが極めて特殊過ぎる世界ではあるが。
恐竜狩猟調理師になるには国家資格がいる。国が実施する国家試験に合格し、免許を取得しなくてはならない。有資格者以外はその業務を行えない業務独占資格でもある。
「まあ、いいや。お兄ちゃんにも、改めて伝えておくよ。じゃあね、美久!」
佳音はちょっと残念そうにセラミックに別れを告げた。
そうだ、彼女の兄には大変お世話になっているのだ。少々クセがあって難儀しているが……。
セラミックは隣の教室に消えていく佳音の背中を、少し申し訳なさそうな表情で見送った。
現世と同じ空を見ているはずなのに何かが違う。酸素濃度云々も違うと聞いた事があるが、人類の生産活動とは無縁にある大気汚染のない青空は薄気味悪いほど透明で純粋、蒸留水のように混じりっ気なしだった。
ジュラ紀、正確には白亜紀にも近いとされる太古の世界は、生物相が現代と似ても似つかずギョッとする。這い回る虫がとにかくデカい! ゴキブリはグローブほどの大きさがあるし、赤い百足は1メートル級、6枚羽で飛翔するカゲロウも鳩ぐらいだ。ジャングルを構成する木々も銀杏やソテツ以外はなじみが薄く、背の高い蘆木の一種は将来石炭になるのかな、と考えると感慨深い。
サソリを食うドブネズミっぽい人類の遠い祖先も見た。翼竜が落としたのだろうか、道端に転がっているアンモナイトの螺旋状の殻を見付けてポケットにしまい込んだ。面白い土産となるだろう。
軍隊レベルでないと生き残れない過酷な世界と言われているが、“ジュラアナ長野”に命懸けのダイブが始まって以来、未だに死亡者や行方不明者は奇跡的に一人も出ていない。誰が最初の犠牲者になるのだろうか……世界中にいる不届き者から注目されているのが妙に腹立たしい。その第一号は当事国の能天気な日本人に違いないというのが大方の予想。
セラミックはジュラ紀で死亡した最初の人間として名を残す事は絶対に避けたかった。同じく迷子になって、単独でこの世界に置き去りにされる事態など、背筋が凍るようで想像だにしたくはなかった。
「お~い! セラミックちゃん。ペース落ちてるよ。これぐらいで音を上げてちゃあ、置いてけぼりを食らっちゃうよ~」
4人チーム最後尾の松上晴人は先頭から2番目のセラミックを大声で、まくし立てた。チームリーダーである彼は鹿命館大学院の自然科学研究科の研究員にしてセラミックの親友、松上佳音の兄である。ボーイスカウト風のカーキ色の探検服に身を包み、頭に巻く目立つ黄色のバンダナは汗で湿っている。
普段は眼鏡をかけて物静かな美青年を演じているが、一旦ジュラ紀に潜ると性格が豹変し、ハイテンション・イケイケ・スケベ野郎に変身する。まるで酒に酔っているのかと思うくらいに饒舌となり、現代日本で会った時の暗い印象とあまりにギャップが生じるので、二重人格者じゃないかと疑うほどだ。
どちらが本当の性格なんだろう……ジュラ紀突入時の生死に関わる緊張感からアドレナリンが過剰に分泌され、そうなってしまうのだろうか。お堅い仕事に抑圧されていた精神が、古代では原始人ばりに解放されてしまうのだろうか。親友の実の兄に対して失礼だが、本当にこの人は大丈夫なのか思わず心配してしまう。
「松上さん、これでも日が暮れないうちに戻れるよう、精一杯がんばってるんです!」
板チョコが最後尾の男から届けられた。体温で溶けかかっているのが残念だ。
「巨乳人間の化石として将来発掘されないように気を付けて。現代の物をこの時代に残して帰る事は厳禁だからね」
「セクハラだ-」
セラミックはサファリハットから止めどなく流れてくる汗をタオルで拭いながら必死にペースを守る。白いタンクトップシャツに迷彩カーゴパンツのみのラフな服装だが、温暖な気候は盛夏を思わせるほど暑い。濡れたシャツから下着が透けて見えてしまっている。
シダ植物の森は見通しが悪く、いつ恐竜達が襲ってきてもおかしくないような状況で、短くしたショットガンを握る手にもついつい力が入ってしまう。たとえ前方にベトナム戦争時のアメリカ兵を思わせる一流の恐竜ハンターを従えていてもだ。
チームの先頭を担当し、マチェットで草木を薙ぎ払いながら進む恐竜ハンターは、アレクセイ。馴染みのハンターが海外出張のため急遽、リーダーがどこからか引っ張ってきたピンチヒッターだ。
この服装がベストマッチなんだとデジタルパターン迷彩の戦闘服を着こなす格闘家風の人物。その割に意外と優しい顔立ちの三十路男で、セラミックのような年下の女性にも気遣いを忘れず、さりげなくリードしてくれる。
「松上サン、セラミックはまだ学生なんデスよ。少しは考慮してあげてくだサイ」
「なーに言ってんだか。こちらとしてはタダで同行させてやっているんだ、文句が言える立場じゃないよ。これでも妹の友人として格別の待遇なんだぜ!」
「別に特別扱いしてくださらなくても結構! 私は早く一人前になりたいんです」
後ろでセラミックの強がりを聞いた若いハンターの真美さんが言った。
「あら、まだ高校生にしては偉いじゃない。私がこの子と同じ歳の頃には、色々と遊び回ってばかりだったわよ」
真美さんは恐竜ハンター専門学校を卒業したばかりの女性ハンター。体力勝負の世界ゆえ、アレクセイと同じような迷彩服姿だが、自慢の肉体はアスリートのよう。ショートヘアで、何となくバレーボール選手を彷彿とさせる。
いつも凜とした表情と強気な態度を崩さないが、女性らしさも決して忘れない素敵な女性だ。正にセラミックの理想を体現するような憧れの人でもある。
「君達ね~、何でもいいから僕を困らせず、死なない程度に頑張ってね」
松上は鼻から溜め息を噴射した後に心を落ち着かせるため、歩くたびに揺れる真美さんのプリプリとしたお尻を目で追ったのだ。
ガン見しながら松上は考えた……本来チームの誰かが不参加だったりすると安全重視のため、恐竜ハントは即刻中止すべきであると。だが今期に担当する研究のため、どうしてもサンプル恐竜が必要だった。ジュラ紀へのダイブは予約がギッシリと詰まっており、一度チャンスを逃すとなかなか機会が回ってこない事情もある。おまけに煩雑な手続きも必要で、松上が頭を抱えていた時に声を掛けてくれたのが助っ人アレクセイという訳だ。
彼は恐竜ハンター協会でも顔が知られていない新顔だが、シベリアで熊猟の経験もあるという。頼もしい限りである……彼がいれば百人力だ。
「いつもの通り中生代エレベーター基地から半径1キロ範囲までが狩猟許可地域だ。今回の猟の目的は恐竜界の牛、テノントサウルスを確保する事~。しかも制限時間の2時間以内に」
リーダーの松上が大声で念を押すように繰り返す。セラミックは真美さんに言う。
「狩猟してもいい区画や頭数も、厳しく管理されているんですね」
「そうよ、自由に制限無く恐竜を狩りまくってたら、その結果世界はどう変わってしまうのか、誰でも予想できるよね。巡り巡って人類誕生にも悪影響を及ぼすかも知れないわ」
呑気に歩きながら1億年ほど前の風景写真を撮影する松上リーダーが口を挟んだ。
「その結果、歴史の教科書が変わったり、人類を代表する秀才の僕もセラミックも生まれてこないかもしれない。考えれば考えるほど、恐ろしいよね~」
自分で自分の事を秀才って言ってやんの……しかも冗談ではなく結構、本気で思っていそう! 自己評価が高すぎる奴にロクな奴はいない。セラミックは子供っぽい松上を心の底でアカンベした。親友の兄でなかったら、弟にするように『何言うとるねん!』というツッコミと共に尻を引っ叩いていたかもしれない。だが松上の方はというと、そんなセラミックの思いなど、どこ吹く風である。
「アレクセイ! 困った事にどうしても目的のテノントサウルスが発見できない。このまま行くより水場を探す事にしよう。地図を見ながら、そっちに向かってくれ。急がないと肛門にキーを刺してエンジンをかけちゃうぞ!」
先頭の大型ナイフを持つ男は後ろを振り返りもせず、薄く髭の生えた口元を尖らせると、レミントンM870ショットガンに持ち替えた。
「もうエンジンはかかってますヨ~」
真美さんとセラミックは同時に脱力した。やはり凄い発想の持ち主だ、この人は……。
「ところでテノントサウルスってどんな奴なんですか?」
前日に予習はしてきたが、どうしても真美さんに訊いてみたかったのだ。
「動画も見たでしょう。縞々の尻尾が長~い草食恐竜よ。大人しいけど、クチバシに噛まれないようにね」
化石になると分からなくなるが、テノントサウルスはシマウマのように派手な縞々恐竜だった。主に4つ脚で歩き、体長は6メートルを超えて体重は1トン近くにもなる。中生代へのダイブは今回でやっと3回目となるが、セラミックは幸運な事に生きた恐竜を結構目撃している。いずれも数が多い小型草食恐竜で、デカい奴にはこちらから近付かず、鳴き声を遠雷のように聞いただけだった。
「セラミックはまだ肉食恐竜を見た事がないよね。今回水辺に行くのなら……ひょっとすると出くわすかもしれないわね!」
「ええ~、会いたくないなぁ。肉食恐竜って狩って食べても不味そう。現代でもネコ科やイヌ科の肉食獣は誰も料理して食べないでしょう」
真美さんは呵々と笑った。セラミックが肉食恐竜を避けるのは、襲いかかってくる恐怖心からではなく食材として価値がないと平然と言ったからだ。
「ははは、食われるどころか逆にこっちが食ってやるのね。いいわ~、その意気で進みましょう!」
先頭のアレクセイは眉間にしわ寄せ、明らかに緊張した面持ちだ。松上は背負った愛用のライフル、黒光りする豊和M1500を両手にした。
「吉田真美さん、そろそろ目的地の沼が見えるよ。恐竜がウジャウジャいるから油断しないでね」
シダ植物の林の向こうにどんよりとした雰囲気を醸し出す、濁った緑色の水溜まりがあった。巨大トンボが2匹合体したまま水面に卵を産み落とし波紋を広げる。
アレクセイが周囲に気を配りながら松上に合図した。双眼鏡を覗いた瞬間、古代ワニ・サルコスクスがぱしゃりと水面を弾いて飛び込んだのだ。
「なに! あのデカくて長い白ワニは! 恐竜じゃないの?」
セラミックが大きな目をまん丸くする。
「しっ! あそこを見て……スイカが水を飲んでるわよ」
真美さんが指差す水際の方向には、更に大きな四つ脚の生物が立ち上がって様子を伺っていた。
黄色がかったグリーンのボディに黒い縦縞模様……テノントサウルスは正にスイカだ。
「噂通り尻尾が長いんですね、綺麗な恐竜……」
松上は皆に頭を引っ込めるよう合図すると、二脚伏せ撃ちでテノントサウルスを狙った。極めて無防備な状態になるので、周囲の警戒は他の3人の役割だ。彼愛用のライフル銃はバーミントハンティングモデルで、恐竜を倒すには威力が弱すぎて到底無理のはずだが、急所を一撃で狙うことによって弱い弾をカバーしている。
「静かに。ヘッドショットして苦しませず倒すのが、せめてもの心遣い」
沈黙する隊に運悪く無線が入った。
「……他のチームが肉食恐竜らしき姿を目撃したらしい。βチーム警戒を怠るな」
「…………」
スコープを覗く男の左耳イヤホンに嫌な情報が届く頃、一際大きな銃声が水面を伝播すると同時に吸い込まれるように響き渡った。
テノントサウルスは、ビックリしたように水面から頭を上げて警戒音を出すと、一目散に森の中に消え失せた。後には泥の上に特徴的な足跡だけが残されたのだ。
「何をするんだ、アレクセイ! 恐竜が逃げちまったじゃないか!」
松上が怒るのも無理はない。いつの間にかタバコを咥えたアレクセイが、空に向かって一発ショットガンを発砲したからだ。
「何考えてんだ! 追いかけて捕まえてこい!」
立ち上がって激怒する松上を全く意に介さず、アレクセイは彼の額にショットガンの銃口を当てると、タバコの煙を犬歯辺りから吐き出して言った。
「武器を捨てろ松上サン。ダヴァーイ! 吉田サンとセラミックもデス!」
あの優しかったアレクセイの顔が歪み、今は映画に出てくる海賊のようだ。セラミックは、あまりのショックで泣き出しそうになったが、5秒で冷静になってショットガンを地面に降ろした。
真美さんも、しばらくどうするか考えた後、言われた通りカスタム化された89式小銃を捨てる。
「ちょっと、アレクセイ! これは一体どういう事? 私達を裏切る気なの? 雇って貰った恩を仇で返すつもり?」
「そうだ、こんなマネをしたら信用を失って、二度と中生代へダイブできなくなるぞ!」
2人の声にも耳を貸さずアレクセイは3人分の武器を背負い、無線機も全て奪い取った。
「私はワイルド・シェパードの一員デス。悪く思わないで下サイ」
ワイルド・シェパードといえば過激な環境保護団体で、彼らによると恐竜絶滅は人類の干渉と乱獲が原因らしい。生物進化の根幹を揺るがす、許されざる行為として恐竜ハントに大反対をしている連中だ。世界中の金持ちから寄付金を募り“ジュラアナ長野”にテロまがいの破壊工作を仕掛けたあげく、国際指名手配となっている者も多い。
だが恐竜ハンターの資格を持つアレクセイは本当にノーマークだったのだ。
「あなた達は、丸腰でここに置いていきマス。そのうち恐ろしい肉食恐竜が現れて、美味しいランチの時間が始まるかもしれまセン。記念すべき人類初の恐竜による犠牲者はあなた達の誰かになりマス。ひょっとしたら3人共になるかもしれませんが……。アハハハ!」
アレクセイは、そう言うと指の間の吸い殻を地面に捨てて靴底で踏みにじった。
「あんた、セラミックも置き去りにするつもり? あんなに可愛がってたじゃない。まだ未成年の女学生なのよ」
真美さんの言葉にアレクセイは、いやらしい笑顔を浮かべた。
「それがどうかしましたか? ここはジュラ紀で人間の思想や力は及びまセン、そして法律も通用しまセンヨー!」
リュックからザイルを取り出すと、松上を銃口で小突いて吉田真美とセラミックの2人を縛るように命じた。松上は、ため息をついてアレクセイを見上げる。
「恐竜を救うために我々を見殺しにするつもりか……アレクセイ、君も人類の一員なんだろ? 全くどっちの味方なんだ? 本当に何様のつもりなんだい?」
「ウルサイ!」
「松上研究員の言う通りよ、死傷者が出ても『ジュラアナ長野』は閉鎖されたりしないわ。人類の探究心は、その程度で潰えたりはしない。冒険に命の危険は付き物なのよ。中生代へのダイブは、今後ますます盛んになっていくと思う」
「ヤカマシイ!」
「アレクセイさん、ひどい! 私より恐竜の方が好きなんですか? 本当は優しい人だと分かっています。こんな事は今すぐ止めて下さい」
「ダマレ! ダマレ! お前ら静かにしないと今すぐ撃ち殺すゾ!」
アレクセイは大声で叫ぶと、冷静さを取り戻すために水筒の水をガブ飲みする。だが背中合わせに縛られて座る真美さんとセラミックを目の当たりにすると、ますます興奮してきた。縄が艶やかな柔肌に食い込んで、大きな胸を強調しているのだ。
「……若くて綺麗な女性がこんな所で2人も死んでしまうのは、あまりに惜シイ。死ぬ前にこの俺が可愛がってあげてもいいのですヨ……」
下衆な台詞を吐く男を前に、美女のペアはゾッとして松上の方を足先で指した。
「いえいえ私達ではなく、彼の方が可愛がって貰いたいそうです」
「こらこら! そんな……まだ心の準備が……」
「ニエット! 気持ち悪いデス!」
アレクセイは頭にきて余分な銃を沼へ向かって力任せにブン投げ始めた。
「あれ~? 環境保護団体のくせに燃えない粗大ゴミをジュラ紀の沼に捨てるんだ」
「ウルサイ! さっきからそう言ってるダロ! お前ら、いいかげんにシロ!」
怒り心頭で叫ぶアレクセイを前にして、松上は怖じ気付いたように後ずさりを始めた。縛られた真美さんとセラミックも急に震え上がって歯をガチガチさせる。
「ハハハ! そんなに俺が怖いのか。簡単に人を信用してはいけまセン。騙されるのは、頭が悪いからデス。つまり危機意識が低くて馬鹿だからデス」
アレクセイの背後に広がる針葉樹の森から大きな影が2つ、いつか見た悪夢のように音もなく忍び寄ってきた。
アレクセイは、松上らの視線が自分越しになっている状況に、ようやく気付いた。
3人に向けたショットガンの狙いは逸らさず、慎重に後ろを振り返った瞬間……アレクセイは心臓と胃の間隙を氷で撫でられたように全身、鳥肌が総立ちになったのだ。
人間の背丈をゆうに超える二足歩行のトンビが、左右から無音で迫ってきていた。
茶色の羽毛は猛禽類にそっくりだったが、頭部の先にはクチバシがなく代わりに鋭い歯がビッシリと並んだ巨大な顎が開いている。おまけに手羽先と足先には鋼鉄の刃物でできたような鉤爪を備えており、特に足の第二指に当たる爪の鋭さたるや、極太の釣り針のようでピーターパンに出てくる海賊フック船長の義手を思わせた。
「ディ、ディノニクスだ!!」
複数の肉食恐竜の接近を許したアレクセイは一瞬でパニック状態に陥った。恐竜ハンターの経験が浅い彼は対処の仕方を誤ったようで、緊急通信の鉄則を破ったばかりでなく単独で戦い始める。
よく映画で恐竜が怪鳥音を発しながら襲いかかってくるシーンがあるが、実際には無音だ。鷲や鷹や梟は獲物に悟られないように音もなく滑空し、気付いた頃には鋭い爪の餌食となっている。ディノニクスも待ち伏せが得意なのか、忍者のような静けさと佇まいだ。
「アレクセイ! 皆に銃を渡せ!」
冷徹な松上の言葉はアレクセイの耳に届かなかった。生餌の物色を数10メートル先から始めたディノニクスに向かって、彼はショットガンをぶっ放す。だが間合いを詰めつつ高速旋回する恐竜には散弾の1発も命中しない。虚しく付近の地面を漆黒に掘り返しただけだった。
「ウージャス! 10番ゲージが効かない!?」
「当たってねーよ!」
背中合わせに縛られた吉田真美とセラミックは息を合わせて器用に立ち上がり、そう叫んだ。
幸いな事に派手な羽毛の1頭は大きな銃声に驚いて森の方に逃げ出した。だが大きな片方は、怯みもせず硬直するアレクセイに向かって飛びかかってきたのだ。
次の瞬間、アレクセイは頭頂部と右肩に尖った爪が食い込む痛みを自覚した。しかも左腕が大顎に万力のように挟まれている。深々と突き刺さった鋭い牙が肉を引き裂き、骨にまで達していた。
「……!」
噛まれた男はあまりの事態に声も出せない。そのまま大腿部に足の鉤爪を打ち込まれ、ディノニクスに地面に引き倒された。
松上は拳大の石を拾うと2、3個恐竜の頭部にぶつけたが効果はない。苦痛に顔を歪めるアレクセイは、かろうじてショットガンを握り締めていたが、左腕に食い付かれているので当然リロードなどできない状態だ。
「馬鹿野郎! 俺のライフルを返せ!」
力任せにライフルを奪い取った松上は、銃床でディノニクスの鼻先を殴りつけた。しかしながら人肉の血と味を覚えたディノニクスは容易に引き剥がせそうにない。ズルズルとアレクセイを森の方まで引き摺り始める。
「こん畜生! 哺乳類を舐めんじゃねーぜ!!」
追いすがってきた松上にディノニクスは全身の羽毛を逆立てると、大口を開けて威嚇してきた。血に染まる鋭角三角形の牙がノコギリのようで、狂った光を反射するのだ。ライフルの安全装置を外す松上に向かってノコギリ歯が迫る。
「松上さん! いやああぁ!」
セラミックは何もできず、松上の名を連呼するだけだった。
乾いた銃声がジュラ紀の森にこだまし、嘘のような静寂が訪れた。
ライフルの肉厚な銃身に噛み付いたディノニクスは前歯が折れ、そのまま口腔内にゼロ距離で銃弾を発射されたのだ。
喉元から後頭部にかけてライフル弾が貫通した直後、凶暴な肉食恐竜は全身の力を失って、アレクセイの上にドサッと倒れた。
「ぐえっ!」
自分より重いディノニクスの下敷きになったアレクセイは、身動きが取れず息も絶え絶えだ。松上はライフル銃のボルトをオープンさせて空薬莢を捨てると同時に回収した。『アチチッ!』……そして怪物が即死した事を確認すると、大きく深呼吸した後に胸をゆっくりと撫で下ろしたのだ。
「どうだ、これが道具と武器を使いこなすホモ・サピエンスの力だ」
「きゃあ――! 松上さん!」
セラミックと吉田真美は縛られたまま松上の元へと駆け寄った。
「あ~、ゴメンゴメン。ほったらかしにしたままだったね。すぐに縄を解いてあげるよ」
自由になったメンバーは、銃と通信機をアレクセイから取り戻すと皆、憤怒の表情で腕組みし足元に睨み付けた。
「アレクセイ! 君が保護を訴える恐竜にマジで食い殺されかけたね。やっぱり奴らは恩知らず……いや、人間様の手前勝手な主義主張なぞ、ジュラ紀の世界に君臨し地球を支配する最強生物には全く関係がないって事なのさ」
「アンタ、まだ腕が胴体に繋がっていて良かったじゃない。松上さんに感謝しな! まあ、腕が食い千切られるシーンなんて私は見たくもないけどね!」
「アレクセイさん、確かに恐竜を無闇に殺すのは良くないと思います。だから、私は命に感謝して美味しく食べてあげるのです……」
最後のセラミックの言葉に、下敷きのアレクセイはハッとした。
「大人顔負けの恐竜料理を作る女学生がいると聞いたが、君の事ダッタのか。セラミック……」
SOSを受診したαチームの救援隊が駆け付けてきた。助け出されて応急処置されたアレクセイは少し悲しそうに呟いたのだ。
「確かに命懸けで仲間を助けてくれるのは人間ダケか……」
「そうだよ! 当たり前の事じゃない」
松上はニッコリした後、早速ディノニクスの解体に取り掛かった。連行されるアレクセイの事など最早、興味もないようだ。
自分の目的だった研究用の脳神経はズタズタになってしまい彼を落胆させたが、他の肉は仲間の分け前となる。今回、恐竜の体内から未成熟の卵がゴロゴロと出てきてメンバーを驚かせた。
「くそっ……つがいの雌だったのか。産卵前でママは空腹に耐えられなかったんだな。道理で必死だった訳だ。う~ん、コイツは撃つ必要がなかったのに! アレクセイの奴、馬鹿なマネをしたもんだ」
回収隊が到着する頃、すでにディノニクスは血抜きされ、胸肉・モモ肉・手羽先・ササミ・レバーなどに素早くバラされていた。臭いが他の肉食恐竜を誘き寄せるので、今回のようにαチームの援軍がなければ、危険な解体冷蔵処理はしないのだが。
セラミックは今回の報酬としてクーラーボックス一杯の手羽先を貰った。むしるのが勿体ないほどの綺麗な羽毛付きである。
「ディノニクスは不味そうだから業界に安く卸されるかもしれないわね。それに危険手当も欲しいわ」
真美さんは中生代エレベーター基地への帰還途中で松上に愚痴を漏らした。それでも高額報酬に変わりはないだろう。恐竜肉はジビエ・ヌーボー用食材としての需要が鰻登りで、その希少価値から世界中で純金並の価格で取引されているのだから。