次の日の午後、学校から何事もなく帰宅したセラミックは、自分の部屋でセーラー服をハンガーに掛けると、そのまま何も身に付けなかった。約束通り早速、下着姿のまま生活するつもりだ。
昨日は感情の昂ぶりに任せて堂々と脱いで『裸宣言』を家族の前で告知したが、一日経過して冷静になってみると、かなり恥ずかしく、みっともない事態だと改めて思った。
とにかく落ち着かず、スースーとする。夏場でよかった……いや、暑い季節でなければ、思い至らなかった宣言なのかもしれない。
そうだ……水着なんだと、ビキニで生活すると思えばよいのだ。無意識の内に防衛本能が働いたのか、今日の下着は原色の分厚い生地の物を選んでいた。上はオレンジ色のスポーツブラ、下は同色の陸上選手が穿くようなローライズのブルマっぽいデザインの物だ。
勢いよく部屋のドアを開けると廊下で弟の公則とすれ違った。彼は見ても触れてもいけない物のようにセラミックから視線を逸らし、気まずそうに下を向いたのだった。生意気にも思春期の奴は、姉が本気でブラとパンツのままで歩き回るのかどうか、わざわざ確認しに来たようにも思えた。でも一目見るなり失笑されなくてよかったと、ほっとしたのも事実。
だめだ、だめだ! 恥ずかしそうに振る舞うと、逆に収拾が付かなくなりそうな予感がする。セラミックは自分の髪を掴んで左右にかぶりを振った。
そのまま度胸を試すように半裸で勇ましく下の階まで降りていくと、洗濯物を取り込み中の母親は、頬に手を添えて呆れたように言ったのだ。
「あら、まあ~。本気でパンツ一丁で過ごすつもりなの? その頑固な性格は正に父親譲りね。いいわ、私はもう何も言わない。美久が言った覚悟に対する本気度を、この目で見届けさせてもらうわ」
セラミックの心が、爪楊枝でツンツンされたように、ほんのちょっぴり疼いた。母親の良識で、この珍妙な状況を止めさせて欲しいと内心期待していたのかもしれない。だが、初日から逃げたりすれば自分の信条を否定し、家族の前で意思の弱さを露呈してしまう事になるのでは?
「いや~、この開放感……最高! 涼しくて身軽で気分が清々とするわ。ママも私と一緒に裸になってみたら?」
スポーツブラに包まれた豊かな胸を覗かせながらセラミックが言うと「裸にエプロンなんて父さんが卒倒するわ」などと、ビジネスライクな口調で手短に答えたのだった。
その後、ブラパンツにも慣れてリビングルームで欠伸しながらテレビを見ていると、自宅兼店舗のカレー屋を切り盛りする父親が休憩に入ってきたようだ。セラミックは、わざとらしくソファーで俯せになって両足を交互に曲げたり伸ばしたりしながら、お尻をフルフルさせてみた。
父親が一瞬、うな垂れて溜め息をついたのが何となしにキャッチできたのだ。
「風邪ひくんじゃねえぞ、馬鹿娘」
テレビの音に混じって雲散霧消してしまうような小声だったが、セラミックには確かにそう聞こえた。
悩ましい夜が明けて、再び日常的なスクールライフの1ページが刻まれる。
教室のセラミックはアンニュイな表情で黒板の白い汚れを凝視しながら、頬杖をついて固まっていた。それはまるで校舎内に佇む夢想家のようでもあり、周囲の者達は若干引いていたようである。
松上佳音が休み時間、教室にやって来て肩を叩くと風船のように溜め息混じりの声が出た。それでも、お構いなしに佳音は親友に語りかけてきたのだ。
「んん~、どうしたの? 昨日何かあったのかな~?」
前髪を弄りながら、セラミックは『あは~』と愛想笑いを返した。
「いや、ちょっと家庭的な事情で……」
まさか、あのような破廉恥そのものの事態になっていようとは、親友といえど相談し辛い。ちなみに本日のセラミックが密かに着けている下着は、上下共に黒いレース生地の極小ブラ&紐パンであった。オマケにガーターベルトで制服のスカート下に黒ストッキングを吊っている。なぜこのようにギリギリまで攻めたかと言うと、自分でも昨日は姑息な格好だと思ったからに他ならない。
やはり水着っぽくては恥ずかしさも半減で、家族の前では気合いを入れなくても歩き回れる雰囲気である。つまり対人地雷原を歩くような緊張感が不足していた。そこで文化祭の罰ゲームで有無を言わせず無理矢理に押しつけられた“淑女のナイトウェアセット”なる物をタンスの奥から引っ張り出し、『そいや!』という掛け声と共に着用してみたのだ。幸いにも、ぶかぶかで貧相という体たらくに至りはしなかったが、鏡越しに見える彼氏なし女子の姿としては、正にありえないムードを醸し出していた。
無論、体育などで着替えがない日である事は前もってチェック済みである。後は通学途中の自転車で立ちこぎしている時や、トイレ休憩時に油断して誰かに見られなければ大丈夫だ。多分バレなければ問題ないと自分に言い聞かせた。
不安要素としては万が一、交通事故に巻き込まれるなどして救急車で搬送される事となったら……病院のICUなんかで脱がされてしまうはずだから、気を付けなければならない。ナースやドクターに際どいエロ下着を見られては、本人にとって非常に好まざる憶測を生じさせかねず、彼らの昼休みにおける与太話のいいネタにされるだろう。
少しブルって佳音を見上げると、見目麗しい彼女は屈託なく言った。
「明日だけどさ、美久の家に行ってもいい? 実は兄貴から荷物を預かったんだ。何でも、ささやかなお詫びの印らしいよ」
「そんなぁ、お詫びの印なんて……」
松上晴人からのお詫びの品って何だろう? 高級菓子詰め合わせセットや女子の喜びそうなグッズを想像した。
「いいよ! 明日の晩にでも家においでよ……て言うか、いつでも歓迎する」
「おし! よく言った」
慣れないレースの黒下着は、肌の弱いセラミックにとってあらゆる意味で刺激が強すぎ、白い柔肌に赤い跡を付けて痒みを生じさせるのだった。佳音の前でも、あちこちペン先で掻いて彼女から色々と訝しがられたかもしれない。
放課後になって帰宅すると、えも言われぬ緊張感が漂い、思わず武者震いした。褌を締め直すという言葉があるが、セラミックの場合はパンツの紐を締め直して自らを鼓舞したのだった。
さあ! 今夜は逃げも隠れもしないぞ、と月夜に誓い黒下着のまま勢いよく自室のドアを開けると早速、弟の公則と目が合った。彼の視線が顔から腰の方へと徐々に下がってゆくにつれ、顔色にみるみると変化が見られたのだ。血圧と心拍数が急上昇しているのが手に取るように分かる。
次の瞬間、上気して顎を上げた公則の両外鼻孔から鼻血が霧のように噴出した! 漫画でしか見た事がなかったが、まるでホームセンターで売っている赤のカラー缶スプレーというか血飛沫そのものである。
「ね、姉ちゃん……アホか。何ちゅう格好してんだよ……! 素っ裸よりもいやらしいぜ……」
中学生の彼は、生で初めて見る黒のガーターベルトと、はち切れんばかりのエロいデザインのブラに釘付けとなっている。つまんだ鼻の隙間から紅い熱情の花を止めどなく、点滴のようにボタボタと床に落とし続けた。
「うふふ! 何、興奮してるのよォ、公則ィ~」
弟は呪いの言葉を姉に残すと、フラフラしながら階下へ消えていった。セラミックは何だか笑いが止まらなくなり、おへそ丸出しのお腹を抱えて胸を揺らせたのだ。
恐るべき事に、そのまま夕食の時間となり、黒レース下着のまま食事する異様な光景が展開された。瀬良家はパンツ一家で、男性陣は夏場にTシャツ・トランクスのみで生活するスタイルを謳歌しているが、それでも今日のセラミックの姿は際立っている。
テーブルに向かい合わせで座る弟は、鼻の穴に詰めたティッシュのせいでハンバーグの味がぼやけてしまった。彼の焦点も若干ぼやけているような……心ここにあらずといった表情だ。
エプロン姿の母親も最初は両目を見開いて驚いていたが、堂々と食事するセラミックの肝っ玉に呆れると、もう笑うしかなかった。
「馬鹿ね~! その高そうな下着、どっから持ってきたのよ。まさか自分で買ったの?」
「そんな訳ないじゃん。どんなセンスの持ち主よ! おふざけの貰い物だからママにあげるわ」
「残念だけど、私には無理だわ」
丁度その時、ダイニングを通りかかったのは父親。ハンバーグを咀嚼するブラック・ブラ・ショーツ・ストッキング娘を見かけるなり、口に含んだ麦茶を霧吹きのように噴射して苦しげに咳きこんだ。
それでもセラミックは怯まずに、勝ち白星をあげた力士のような態度でふんぞり返っていると、父親は娘を無視してテーブルの端に付いた。キッチンの母親は苦笑いして弟に向かって言う。
「公則、服に付いた鼻血をお風呂で洗っておくように。それと美久、明日のパン代をここに置いておくから忘れないでね」
姉の方は、どこ吹く風で優雅に食事を堪能している。そして何を思ったか、卓上のパン代と思しき千円札をパンツの紐に挟むと、これ見よがしに家族の前でヒラヒラと踊った。もう極小下着姿にも慣れて順応してしまったのだろうか……情熱的なベリーダンサーのようでもある。
父親の箸を持つ右手が小刻みに震えている。『もう勘弁してくれ』と言いそうになっていたのだろう。ようやくセラミックは我に返った。これでは……まるで家庭内露出狂ではないか。大いに反省すると、照れくさそうに両手をクロスして屈んだ。
「いや~ん! もう、恥ずかしい……」
夕飯もそこそこにトランクス姿の父親は黙って席を立ち、風呂場へと向かい頭を掻きむしる。同じ格好の公則もそそくさと自室に消えて、もう出てこなくなった。
何だかよく分からない達成感と満足感に、セラミックは包み込まれてゆくのを感じた。そして勝利宣言の代わりに明日の予定を友人の佳音にメールで伝えたのだ。
いつの間にか3日目の朝が訪れていた。裸宣言は3日間の約束だったので、今日が最終日となる。
両親――特に父親は娘の根性と、恐竜狩猟調理師になるという夢を認めてくれるのだろうか。巌のごとき固い決意は、全くもって揺るぎない事を身を挺して示したはずである。たった数日間ではあるが、心に深く刻み込ませたと自分では思う。
家族だからこそ理解して欲しかった。消防士など、危険と隣り合わせの職業は、あまたに存在しているのだ。リスクを十分に認識した上で誇りを持って仕事をこなせば、無謀で無鉄砲なだけの職業選択ではない事を証明できるはずである。
……3日目にしてネタが尽きたので、本日はごく普通の生々しいブラとショーツを身に付ける事にした。これが自分にとって、見られると一番恥ずかしい下着だ。勝負パンツでもなく日常的に穿きこなしている地味な類いの一品。近所の量販店に売っているレベル。カジュアルで数回洗濯した感じの、お気に入りっぽい印象。シンプルなデザインで無地の白。そこには緊張感もなにもない。
悶々とした気持ちで授業をこなした後、あっと言う間に昼休みとなる。いつものように隣のクラスから松上佳音がセラミックの様子を伺いにやって来た。昨日より達観しているような諦観しているような、ある意味腹をくくった覚悟ゆえの落ち着きを見せるセラミックに佳音は安心したようだ。
「よう、今日は大丈夫そうだけど、昨日はずいぶん酷かったよ」
「へ~、何が? って表情の事かな? どんな風に?」
「そうね、まるで何かに怯えているような……毛を刈り取られる前の羊さんみたいだった」
鋭い洞察力だ、とセラミックは目を見張った。
「別に何でもないよ。今日の夕方、家に来てくれるんだよね?」
「そう、またメールするわ」
肩の力が抜けた……今は極めて自然体だ。午後の授業も未曾有の集中力で聞くことができた。それにしても松上晴人のお詫びの品というかプレゼントって何だろう? とても気になるセラミックであった。
自転車で寄り道もせずに帰宅すると、いつものように振る舞う。
あまりに芸がないと思いつつ、下着姿のまま自室のドアをバンッと開けたが、弟の公則はいなかった。少々肩すかしを食らったが、今日はいつもと違う。そう……もうすぐ松上佳音が尋ねて来るのだ。昨日、一昨日と幸いにも来客がなく宅配便の荷物受け取りもなかったが、今日は親友が来る。とうとう佳音にこの状況を告白できずにいたのだが、本当にどうしよう。
当然ルールを厳守するならば、裸で佳音と会わなくてはならない。この時だけ体裁を気にして服を着る事は、おそらく許されないだろう。弟の公則が目ざとく見付けて報告するかもしれないし、こういったケースも想定した前提で約束した事だ。だからこそ固い決意に意味がある。
生半可な覚悟ではない事を示すのだ。さすがに対外的にあまりに非常識ではドクターストップならぬマザーストップがかかるだろうが、佳音とセラミックの長い付き合いや関係性を熟知している母親からは問題なしの判定が下るだろう。昔は一緒に風呂に入っていたほどの仲なのである。
いそいそとリビングに向かい、親友にこの格好の経緯をどう説明するか、ぐるぐると考えを巡らせた。
洗面台に向かい、セラミックは自分の全身を鏡に写してみる。いつもと同じだ、風呂に入る前の下着姿……佳音と会う前に、せめて新しい上下に替えようか……よく見るとパンツに毛玉が……。
突如、玄関のインターホンが鳴りセラミックは我に返った。思っていたより少し早すぎると思いつつ、訪問者が誰なのかモニターで確認する。
「こんばんは~! 美久! 松上佳音が来ましたよぅ」
小さな画面上からでも分かる整った顔立ち……佳音がもう来た!
セラミックは誰もいないリビングで途方に暮れた。母親か弟に代理で迎えに出てもらう事もかなわない。当然父親も店舗の方で仕事の真っ最中だ。
「はーい! ちょっと待ってね、佳音!」
どうしよう、裸のままで出て行くべきか。言い訳を考える前に親友が来てしまった。とっさに服を着ようかと思ったが、タイミング悪く弟の公則が帰ってくる予感がする。
「ええい! 一瞬だから、もういいや。なんせ佳音なんだし……」
無人のリビングで独り言を漏らした。自分に言い聞かせるように、やや大声で。
すぐに玄関から呼び込んで、自分の部屋で話そう。彼女なら裸ギャグのように軽く笑い飛ばしてくれるはずだ。悪い冗談と思ってくれるか、パンツ一丁のそそっかしいセラミックとして間違いなく大ウケするだろう。うん、そうに決まってる!
入口の玄関まで急いだセラミックは、もう一度立ち止まった。どう行動すれば彼女を一番ビックリさせないか、自分に置き換えてシミュレーションしてみた。
親友の佳音を待たせないため、服を着る時間も惜しんで裸のまま飛び出した、あわてんぼうで、お茶目な美久ちゃん。その後二人で大笑い――の図式が最も無難で理想的な流れだろう。これで、おそらく大丈夫だ……多分。
「は~い! 佳音、いらっしゃ~い! ごめん、ごめん。今取り込み中で、まだ服着てないんだな~これが。あははっ!」
あえて物陰に隠れたりせず、ドアの鍵を開け堂々と佳音を迎え入れた。親友の方へと振り返り、仁王立ちのごとく両手を腰に当てるポーズで朗らかに笑った。
「――!! 美久! ……何やってんのよ!」
両手で口を覆った佳音は、驚きのあまり声も出ない。……これは予想外のまずいリアクションだ。
「お、お久しぶり……かな? 瀬良美久さん。……あ~、この度は誠に申し訳なく、え~と、不測の事態のお詫びに……」
制服姿である佳音の隣から聞き覚えのある男性の声がした。
セラミックの中で何かが壊れる音がする。それはまるでガラス細工でできた豚骨ラーメンの替え玉が、ザルから地面に落ちて粉々に砕け散るような切ない破裂音。
その場の空気が一瞬にして南極か北極点のように凍り付いた。
スローモーション的な時間の流れの中で、残念ながら佳音の方は渾身のギャグと受け止めて大笑いなんかしていない。
恐る恐る親友の隣に立つ人物の方へと視線を移した。
細身のスーツを着こなす眼鏡の男性は、紛れもなく佳音の兄。つまり松上晴人その人だった。努めて無表情を装ってはいるが、湧き起こる苦笑いで動揺を誤魔化しきれていない。
セラミックは刹那に事態が飲み込めず、唖然としたままだ。そして震えながら再び自分の身体の方をまじまじと見た。ブラジャー丸出し。白いショーツ丸出し。しかも学校から帰ってきてシャワーも浴びていないような、ありのままの姿だ。
「い、いやあああああああああああああああああああああああああ――!!」
その後どうしたのか……セラミックはあまり覚えていない。
曖昧な記憶をたどると、家中に響いた叫び声にも臆する事なく、松上晴人はセラミックに淡々と説明を始めたはずだ。
「美久さん、実はαチームから美味しいと評判のプシッタコサウルスを余分に分けて貰ったのです。これは是非とも美久さんに、と思ったので妹と一緒に持ってきました。恐竜狩猟調理師を目指す君なら、きっとすごい料理にアレンジしてくれることでしょう」
松上佳音は兄の両眼を後ろから両手で覆い隠して、セラミックのエッチな下着姿を見せないように必死だった。長身である晴人の背中に飛びついて何か喚いていたはずだ。すぐにその場から逃げればよかったのに、セラミックは『はい、そうですか』と玄関にへたり込んで彼の話を聞いていたような気がする。
クーラーボックスの中には小型恐竜であるプシッタコサウルスの食肉処理された物が丸々一頭分詰められていた。ご丁寧にも尻尾の背側に付いている、身を守るためのトゲトゲしい剛毛も取り除かれている。
――佳音と部屋で遊ぼうと思っていたのに……なぜ今、服を着ていないのか説明しようと思っていたのに。
その時、タイミング悪く弟の公則が部活動を終えて帰宅してきた。
「ただいま……ってお客さん? 佳音姉ちゃん? 久しぶり~! ――うわ! まさか、うちの姉ちゃん裸のままで!」
公則は信じられないシチュエーションに、また興奮気味となり鼻血を片方から噴出させると、慌てて小鼻をつまんだのであった。
それから営業が終了した後の厨房に籠もったセラミックは、何かに取り憑かれたように料理を始めた。
恐竜界の豚と呼ばれるプシッタコサウルスから丁寧に肉を削ぎ落とし骨だけにする。これだけでも彼女の細腕一本では大変な労力だ。オウムのようなクチバシと角張った特徴のある頭も捨てずに熱湯にくぐらせておく。ひたひたまで水を入れた寸胴に砕いた大量の骨と頭骨を入れ、香味野菜と共に何時間も煮込んで恐竜ガラのスープを作るのだ。
下着にエプロン姿のセラミックは、額に滲む汗をタオルで拭きながら一心不乱に何かを棒でかき混ぜ続ける。その視線の先には寸胴の中で、ぐつぐつぐらぐらと地獄の釜のように沸き立つスープの海が広がっていた。見事に乳化白濁し、良質の脂とコクが溶け込んでいるように見えるのだ。
暑い厨房で一休みすると同時に、モモ肉と胸肉から作ったロースト肉の塊を軽くスモークした。そしてタコ糸で縛り、昆布と鰹節を効かせた醤油ダレに漬け込んだ。ついでに半熟状態の煮卵も隙間に浮かべてみる。
ふと、人の気配を感じたセラミックは、目を丸くして店の奥の方に振り返った。
「……美久、俺の負けだ。お前は約束を守り通して、やり遂げたんだ」
父親が腕組みをして頷いた。仕事着を脱いでいない料理人の格好だ。
「あなたホントに頑固者ね。一度こうと決めたら意思を曲げないというか……ちょっと怖いわ。でもそれが美久の良い所でもあるし、心配も多いけど大人として認めざるをえないわね」
母親は溜め息をついて髪をかき上げた。両親と離れた場所に座る弟が、お互いに顔を見合わせるのだ。
「美久、自分のなりたい人になりなさい。自分のしたい仕事に就きなさい。ただし約束して……無理無茶は、もうしない事! これからは自分の言動に今以上に責任を持ちなさい。これが我々からのアドバイス!」
自宅兼店舗の休みの日を利用し、セラミックは厨房でプシッタコサウルスを使った料理を完成させた。
ほとんど迷わずに思いついた料理は、自身が大好きなラーメンである。さすがに麺まで手打ちで用意するのは無理があるので、行きつけのラーメン屋の口利きで紹介してもらった製麺所から特別に1箱30食ほど分けてもらった。しかも彼女のスープに合うように小麦の配合も太さもオーダーされたものだ。
2日かけて仕上げた拘りのスープは、店のカレー鍋の横でトロ火にかけられて出番を今か今かと待っている状態である。
「――! いらっしゃい!」
セラミックは、貸し切り店舗のドアから一番に入ってきた人物の顔を見上げた。αチームのリーダー、松野下佳宏だ。今回の食材となったオウム顔の小型草食恐竜――プシッタコサウルスを提供してくれた人物である。
「セラミックちゃん、今回は何を食べさせてくれるのかな? 何か新作料理を完成させたというから飛んで来たぜ!」
年齢にそぐわない、少年のような笑顔を綻ばせる彼の傍には、見慣れない若い女性が連れ添っていた。
「初めまして……かな? 私はαチームのメンバーの一人、森岡世志乃です」
噂に聞くαチームの紅一点はクールな美人だった……黒いチュニックとパンツもよく似合っている。だが見た目からセラミックとそう変わらない年頃だと思われた。おそらく恐竜狩猟調理師の免許も、まだ持っていない見習いだろう。βチームの吉田真美とはまた違うタイプの聡明な印象を持つ、非常に魅力的な女性だ。
「こちらはαチーム版セラミックのヨッちゃんです」
笑顔を振りまく松野下佳宏とは裏腹に、森岡世志乃はあからさまに不機嫌な感情を顔に浮かべた。一瞬ヤバいと思ったほどだ。
「リーダー! とっても失礼ですよ。私は誰のマネもしていない唯一無二の存在です。それにヨッちゃんという呼び方も止めて下さい。リーダーこそ佳宏だからヨッちゃんでしょ」
「ああ! ごめんよ、ヨッシー」
「ヨッシーもヨッちゃんもダメだと言ってるんです。世志乃と呼んで下さい」
セラミックの目の前で予想外の言い争いが勃発した。ハラハラしながら見守っていると、信じられない事に怒りの矛先が彼女にまで向けられてきたのだ。
「あなたがβチームの瀬良美久さんですね。噂はかねがねお伺いしております。今日は新進気鋭の美久さんの実力を拝見しに、忙しい所を無理に時間を割いてやって参りました。宜しくお願いしますね」
猫科のような大きなツリ目を煌めかせながら、森岡世志乃は松野下佳宏を一番良い席に座らせた。リーダーがカウンター越しに馴れ馴れしく話しかけてくる度に、隣の黒猫がさりげなく睨み付けてくるのをセラミックは感じる。値踏みをしてくるような粗探しの視線が痛い。割烹着姿のセラミックの額に汗が流れてくるのは、何も厨房に並ぶ火にかけられた寸胴の熱さだけではなかったのである。
セラミックがそろそろ限界に近付いた時、やっともう一組のペアが店に現れた。
「よっ! 美久~。今日は何を作ったの? 期待してお昼抜きで来たよ」
松上佳音とその兄である晴人が、ほぼ同時に入店した。セラミックは反射的に自分の服装を見直すため、顔を伏せた。
「やだぁ! 何照れてんのよ、美久! おっ!? 先客がいましたか」
佳音の影に隠れるように座った松上晴人は、皆に軽くぺこりと挨拶しただけだった。食事に呼ばれたというのに学会発表するようなスーツ姿で、庶民的なカレー屋のカウンターでは浮きまくる美青年だ。当然と言えば当然だが、あの日の事件は誰にも言いふらしていないようである。
セラミックは驚いた。森岡世志乃が松上晴人の顔を見るなり態度を豹変させたからである。
「ま、松上晴人さん! ご無沙汰してます。αチームの森岡世志乃です。こんな所でお会いするなんて!」
彼女は顔を真っ赤にして席を立ち、松上晴人から視線を外さずに挨拶した。
あ~、セラミックは聞いた事がある。世志乃さんは松上晴人にぞっこんで、彼に憧れて恐竜ハンターを目指したという噂を。妹である佳音の方は、少し狼狽して兄の前に立ちはだかった。
「あなたはどちら様で? 兄と話すときはマネージャーの私を通して下さい」
「おいおい……いつから俺のマネージャーに」
松上晴人の困った顔を目の当たりにして、松野下佳宏は悪戯っぽく笑った。
「お~意外とモテるなぁ、βチームの松上さんは~。隅に置けないねぇ」
「ちょっと、リーダー! 茶化すのは止めて下さい!」
森岡世志乃はまんざらでもない様子でリーダーの背中をポカポカと叩いた。蚊帳の外に放置されたセラミックは暫く事の成り行きを見守ったが、気を取り直して寸胴にかけた火をMAXにした。世志乃さんの表情がクールビューティーのそれから少女に変わった事に苦笑しつつも、複雑な思いが湧き起こる心の奥底に胸が締め付けられるような痛みを覚えたのだ。
その時2階から弟の公則が手伝いに降りてきて、挨拶もそこそこに水をテーブルの上に置いたり、皆のサービスに大忙し。
「姉ちゃん、俺も腹減ってしょうがないよ。お昼はとっくに過ぎてんだぜ」
わざとらしく顔をしかめた弟が、文句をたれるのは無理もない。店内に充満する芳醇なスープの香りが、どうしようもなく空腹中枢を刺激するのだ。
「ハイハイ! 今、麺を茹でてるとこ~!」
大量の熱湯に泳ぐ2名分の麺をザルですくい湯切りした。均等に茹でるために、こだわった平ザル湯切りはアミよりテクニックが必要だ。上手に湯切りできるのは練習の成果でもある。ここからプロ並の手際で、合わせたタレとスープに麺をほぐし入れ、具も乗せた。そしてセラミックは、αチームのリーダーと世志乃さんペアに丼を熱々のまま差し出したのだ。
「へい、お待ち! セラミック特製の恐竜ラーメンをどうぞ! 未体験の一杯にウェルカム!」
入魂のメニュー……松野下はまず、眼前のラーメンが放つ何とも言えない芳香に虜となった。
「これは今までに出会ったことのない香りだ。いやな臭みも全くない」
青いネギが映える、白くとろけるように輝くスープから、ただならぬ凝縮感が漂う。厨房のセラミックは上気してニッコリ笑った。
「醤油・塩・味噌・豚骨・鶏白湯に続く第6のラーメン……名付けてディノラーメンです。竜骨味と呼んでもいいかな?」
松野下は完成されたビジュアルに瞬きも忘れつつ、セラミックの説明を聞いていたが、いてもたってもいられず、おもむろにレンゲをスープの中へと沈めた。トロミある白濁スープは上品な脂と共に全てを包み込み、夢のように浮かんだボリューミーなチャーシューとオレンジ色の半熟味玉を悩ましく揺らせる。そして錬金術のごとく醸成された一口を、心なしか緊張に震える手で一気に喉の奥へと流し込む。今、まさに味覚が花開く瞬間。
「……何だ? これは! 恐ろしく美味いじゃないか!」
森岡世志乃に至っては一口目に味わったインパクトに、しばし絶句している状態だ。隣のリーダーとほぼ同時でスープの海にたゆたう麺を箸でたぐり寄せると、勢いよく啜り始めた。スープとからんだ麺を奥歯で噛み締めると、小麦の食感に応じた旨味とコクの洪水が、脂の滑らかさを纏いつつ口中をじんわりと支配する。
「むほ~! すごい。今までに食った事ないような新鮮味溢れるラーメンだぜ」
彼は夢中で照りのあるチャーシューにかぶりつくと、深みのある肉汁が溢れ出してきた。これだけでも料理の一品として十分納得できる完成度だ。
大きな黒目を白黒させながらスープばかり味わっているのは、森岡世志乃。
「こってりしているようで、実はあっさりしている不思議なラーメン……女性受けしそう。ひょっとして、この大きな味付け玉子は恐竜?」
ニンマリと笑うセラミックは麺をザルの上に踊らせながら答えた。
「オマケとしてプシッタコサウルスの新鮮な卵を貰ったの。鶏より巨大で味の方も心配だったけど、試してみて正解だったかな?」
ここまでくるとおあずけされて、空腹感にピークを迎えた松上佳音が暴れ始めた。
「美久! こっちにも早くラーメンをちょうだい!」
セラミックは思わず身構えた。今回は松上晴人に『美味い!』と唸らせてみせる。幸いにも前評価は上々で鉄板だ。これは大いに期待してもよさそう。
完璧な手順で松上兄妹の前に丼が運ばれる。今日こそは言わせたい。いや、わざと空腹にさせるように佳音に事前工作したから言うだろう。
数秒間、容器の中の小宇宙に見入った松上晴人は、己の感覚に根差した思考を巡らせたようにも見えた。……アンタ、一体何者だ? 不可視な湯気の中に鼻をくぐらせた後、麺の一房をたぐり寄せて上品に啜った。
セラミックは息を飲み、飛び出す感想を今か今かと静かに待つ。――握った拳に力が込められる。
「この細麺は、おそらく豚骨ラーメン用の極細麺だろうが、いかんせん茹ですぎたのか若干のびている。最初に茹で加減を訊いておくべきだったね」
「――! か、替え玉でバリカタかハリガネにします」
「いや、こいつは豚骨ではなくて竜骨ラーメンなんだろ? 替え玉のシステムなんて要らないよ。それよりも同じストレート麺でも、もっと太麺にした方がこってりトロミのある素晴らしいスープと相性が良かったのでは?」
店内が一瞬、水を打ったように静まり返る。
隣でラーメンを賞味している妹は、兄の背中を思い切り叩いてむせさせた。鼻から2、3本麺が飛び出してきそう。
「なぁ~に言ってんのよぅ、十分すぎるほど美味しいじゃない。そんな文句を言ってるから麺がのびちゃうのよ!」
竹を割ったような性格である妹のフォローに感謝すると、セラミックは両目を拭い、溢れる涙を無理矢理に忘れたのだ。親友はメールのやりとりで知っている。セラミックが水面下で、どれほどの努力と我慢をしてきたのかを。佳音はセラミックの見上げた根性にエールを送ったのだ。
様子が気になったのか、2階で待機していた両親も降りてきて、カウンター横にある年季の入ったテーブルに一緒に座ろうとした。
αチームとβチームは満を持して登場した父母に、かしこまってしまう。松上晴人は席を立ち、両親に深々と頭を下げて挨拶をした。父も母も客である彼らに「リラックスして下さい」などと改めて促すのだ。
「皆さん、うちの娘を……馬鹿で、どうしようもない頑固者ですが、どうか宜しくお願いいたします」
ふたりはリーダー達の眼差しを見やった後、一緒に頭を下げた。4人はすでにラーメンを平らげており、ご馳走になったお礼を口々にしたのである。
松野下リーダーが言う。
「美久さんのラーメンは素晴らしい。恐竜の持ち味を最大限に引き出しています。暑い季節でも平気でスルスルといけるし、心まで温かくしてくれるようです」
セラミックは照れくさそうにクスッと笑い、コメントした。
「ただし、竜骨ラーメンは商売にはならないわね。材料費が高すぎて庶民的な食べ物じゃなくなってるし」
弟の公則が少々くたびれたエプロンを脱ぎながら喋った。
「じゃあ、今日限りの一杯になる可能性があるのか。姉ちゃん、俺達にも食べさせてくれよ」
「モチロン! 言われなくても家族の分は用意してあるよ」
父親、母親、弟の前に丼が置かれた。父は盛り付けの迫力にしばし圧倒された後、すぐに麺を口に運んだ。骨髄由来のとろザラ系の舌触りに、ツルリとした麺の喉越しが心地よい。
「……! 風味は豚と鶏の中間のようで不思議だな、恐竜ってのは。塩分と脂のバランスが絶妙で、体に染み渡るような旨さがある」
「よく頑張ったわねえ、美久」
「うん、姉ちゃん、確かに美味いよ。店で出したら、お客の行列ができるくらい!」