セラミックの激うま恐竜レシピ


 アレクセイは、松上らの視線が自分越しになっている状況に、ようやく気付いた。
 3人に向けたショットガンの狙いは逸らさず、慎重に後ろを振り返った瞬間……アレクセイは心臓と胃の間隙を氷で撫でられたように全身、鳥肌が総立ちになったのだ。

 人間の背丈をゆうに超える二足歩行のトンビが、左右から無音で迫ってきていた。
 茶色の羽毛は猛禽類にそっくりだったが、頭部の先にはクチバシがなく代わりに鋭い歯がビッシリと並んだ巨大な顎が開いている。おまけに手羽先と足先には鋼鉄の刃物でできたような鉤爪を備えており、特に足の第二指に当たる爪の鋭さたるや、極太の釣り針のようでピーターパンに出てくる海賊フック船長の義手を思わせた。
 
「ディ、ディノニクスだ!!」

 複数の肉食恐竜の接近を許したアレクセイは一瞬でパニック状態に陥った。恐竜ハンターの経験が浅い彼は対処の仕方を誤ったようで、緊急通信の鉄則を破ったばかりでなく単独で戦い始める。
 よく映画で恐竜が怪鳥音を発しながら襲いかかってくるシーンがあるが、実際には無音だ。鷲や鷹や梟は獲物に悟られないように音もなく滑空し、気付いた頃には鋭い爪の餌食となっている。ディノニクスも待ち伏せが得意なのか、忍者のような静けさと佇まいだ。

「アレクセイ! 皆に銃を渡せ!」

 冷徹な松上の言葉はアレクセイの耳に届かなかった。生餌の物色を数10メートル先から始めたディノニクスに向かって、彼はショットガンをぶっ放す。だが間合いを詰めつつ高速旋回する恐竜には散弾の1発も命中しない。虚しく付近の地面を漆黒に掘り返しただけだった。

「ウージャス! 10番ゲージが効かない!?」

「当たってねーよ!」

 背中合わせに縛られた吉田真美とセラミックは息を合わせて器用に立ち上がり、そう叫んだ。
 幸いな事に派手な羽毛の1頭は大きな銃声に驚いて森の方に逃げ出した。だが大きな片方は、怯みもせず硬直するアレクセイに向かって飛びかかってきたのだ。
 次の瞬間、アレクセイは頭頂部と右肩に尖った爪が食い込む痛みを自覚した。しかも左腕が大顎に万力のように挟まれている。深々と突き刺さった鋭い牙が肉を引き裂き、骨にまで達していた。

「……!」

 噛まれた男はあまりの事態に声も出せない。そのまま大腿部に足の鉤爪を打ち込まれ、ディノニクスに地面に引き倒された。
 松上は拳大の石を拾うと2、3個恐竜の頭部にぶつけたが効果はない。苦痛に顔を歪めるアレクセイは、かろうじてショットガンを握り締めていたが、左腕に食い付かれているので当然リロードなどできない状態だ。

「馬鹿野郎! 俺のライフルを返せ!」

 力任せにライフルを奪い取った松上は、銃床でディノニクスの鼻先を殴りつけた。しかしながら人肉の血と味を覚えたディノニクスは容易に引き剥がせそうにない。ズルズルとアレクセイを森の方まで引き摺り始める。

「こん畜生! 哺乳類を舐めんじゃねーぜ!!」

 追いすがってきた松上にディノニクスは全身の羽毛を逆立てると、大口を開けて威嚇してきた。血に染まる鋭角三角形の牙がノコギリのようで、狂った光を反射するのだ。ライフルの安全装置を外す松上に向かってノコギリ歯が迫る。

「松上さん! いやああぁ!」

 セラミックは何もできず、松上の名を連呼するだけだった。


 乾いた銃声がジュラ紀の森にこだまし、嘘のような静寂が訪れた。
 ライフルの肉厚な銃身に噛み付いたディノニクスは前歯が折れ、そのまま口腔内にゼロ距離で銃弾を発射されたのだ。
 喉元から後頭部にかけてライフル弾が貫通した直後、凶暴な肉食恐竜は全身の力を失って、アレクセイの上にドサッと倒れた。

「ぐえっ!」

 自分より重いディノニクスの下敷きになったアレクセイは、身動きが取れず息も絶え絶えだ。松上はライフル銃のボルトをオープンさせて空薬莢を捨てると同時に回収した。『アチチッ!』……そして怪物が即死した事を確認すると、大きく深呼吸した後に胸をゆっくりと撫で下ろしたのだ。

「どうだ、これが道具と武器を使いこなすホモ・サピエンスの力だ」

「きゃあ――! 松上さん!」

 セラミックと吉田真美は縛られたまま松上の元へと駆け寄った。

「あ~、ゴメンゴメン。ほったらかしにしたままだったね。すぐに縄を解いてあげるよ」

 自由になったメンバーは、銃と通信機をアレクセイから取り戻すと皆、憤怒の表情で腕組みし足元に睨み付けた。

「アレクセイ! 君が保護を訴える恐竜にマジで食い殺されかけたね。やっぱり奴らは恩知らず……いや、人間様の手前勝手な主義主張なぞ、ジュラ紀の世界に君臨し地球を支配する最強生物には全く関係がないって事なのさ」

「アンタ、まだ腕が胴体に繋がっていて良かったじゃない。松上さんに感謝しな! まあ、腕が食い千切られるシーンなんて私は見たくもないけどね!」

「アレクセイさん、確かに恐竜を無闇に殺すのは良くないと思います。だから、私は命に感謝して美味しく食べてあげるのです……」

 最後のセラミックの言葉に、下敷きのアレクセイはハッとした。

「大人顔負けの恐竜料理を作る女学生がいると聞いたが、君の事ダッタのか。セラミック……」

 SOSを受診したαチームの救援隊が駆け付けてきた。助け出されて応急処置されたアレクセイは少し悲しそうに呟いたのだ。

「確かに命懸けで仲間を助けてくれるのは人間ダケか……」

「そうだよ! 当たり前の事じゃない」

 松上はニッコリした後、早速ディノニクスの解体に取り掛かった。連行されるアレクセイの事など最早、興味もないようだ。
 自分の目的だった研究用の脳神経はズタズタになってしまい彼を落胆させたが、他の肉は仲間の分け前となる。今回、恐竜の体内から未成熟の卵がゴロゴロと出てきてメンバーを驚かせた。

「くそっ……つがいの雌だったのか。産卵前でママは空腹に耐えられなかったんだな。道理で必死だった訳だ。う~ん、コイツは撃つ必要がなかったのに! アレクセイの奴、馬鹿なマネをしたもんだ」

 回収隊が到着する頃、すでにディノニクスは血抜きされ、胸肉・モモ肉・手羽先・ササミ・レバーなどに素早くバラされていた。臭いが他の肉食恐竜を誘き寄せるので、今回のようにαチームの援軍がなければ、危険な解体冷蔵処理はしないのだが。
 セラミックは今回の報酬としてクーラーボックス一杯の手羽先を貰った。むしるのが勿体ないほどの綺麗な羽毛付きである。
 
「ディノニクスは不味そうだから業界に安く卸されるかもしれないわね。それに危険手当も欲しいわ」

 真美さんは中生代エレベーター基地への帰還途中で松上に愚痴を漏らした。それでも高額報酬に変わりはないだろう。恐竜肉はジビエ・ヌーボー用食材としての需要が鰻登りで、その希少価値から世界中で純金並の価格で取引されているのだから。

 昼間の騒動が、遠い過去に起こった出来事のように思える。住宅街にある自宅兼店舗は夜の帳が降りる頃、人通りもまばらとなり静寂に満たされていた。
 ディノニクスの巨大な手羽先を前に、セラミックは自宅のキッチンで考え込んでいる。
 営業終了後のカレー専門店の厨房は熱湯をかけてむしられたディノニクスの羽毛だらけになったが、集めて毛ばたきにしたり、友人に装飾品としてプレゼントする予定だ。
 肉の臭みを取るため下茹でを開始したが、鶏の数倍もある手羽先は煮込みにするのが一番だろう。アクを取りながら茹でこぼし、骨を外したら美味しそうなチキンにしか見えなかった。幸いにも家業がカレー屋だけに、恐竜煮込みカレーを作ってみようと思い立った訳だ。数々のスパイスが肉の野性味を消してくれるはずである。

「美久、こんな時間に何やってんのよ」

 深夜に鍋でぐつぐつやっていると、母親が心配そうに顔を出した。無口な父親も自分の仕事場が荒らされる状況を黙ってはいない。

「お前、作り置きのカレーを分けて欲しいと言っていたが……恐竜肉のカレーなど認めんぞ! まだ調理師免許も持っていないくせに、客に出せるわけがないだろ」

 セラミックは少し焦って寸胴の前で首と手を横にぶんぶん振った。

「も、もちろん店に来たお客様には提供しないわ。これはお世話になった人達に食べて貰うためよ」

 頑固親父そのものの風貌をした父親は、軽く溜め息をついた後、腕組みをして言った。

「肉をオリーブオイルを引いたフライパンの上で少し焼いて、焦げ目を付けてみな。仕上がりが香ばしくなるから。俺が言うんだから間違いない」

 セラミックは不器用な父親の助言に笑顔で答えたのだ。

「うん、ありがとう。パパもママも是非、試してみてよ」

 まな板の上にあるボイルされたディノニクス肉の切れ端をつまんだ瞬間、父親は目を丸くした。

「……! 嘘だろ! 今まで食った事もなかったが、これが恐竜の味なのか」

「ふふふ! 知ってると思うけど、すごく高いのよ。希少価値もあるけど、本当に美味しいと思う」

 カレー屋といえど、父親の料理人としての血が騒いだ。少し薄くなった頭の中でアレンジされた料理が次々と浮かんできているのが手に取るように分かる。だが、恐竜料理のアイデアを生み出す力はセラミックの方が一枚上手だ。すでに料理を紹介する動画サイトでトップクラスのアクセス数を稼ぎ出している。それもこれも築き上げてきたコネクションを目一杯に広げ、様々な恐竜肉をタダ同然で手に入れるルートを確立させた努力の賜なのである。

「明日、佳音のお兄さんがいる研究室に鍋ごと持っていく予定なの。パパ、煮込みカレーの味見をさせてあげるから協力してくれるよね? ちょっとだけ車を出せるかな」

「くそ! 味見せずにはいられない。まんまと乗せられちまったよ」

 両親は半ば呆れたように顔を見合わせると、お互いに苦笑いしたのだ。

 

 街路樹の緑が絵の具をパレットに絞り出したような色を誇っている。鹿命館大学の大学院は、ちょっとした緑に覆われた山中にある。街中でない分スペース的に余裕があり、雑多というより図書館的に整然とした印象だ。歩いている学生達も、男女共に派手な印象もなく理知的だとセラミックは感じた。松上晴人は自然科学研究科の研究室が存在する棟の1階にいる。
 ロビーというかラウンジスペースには、この度のジュラアナ長野へのダイブに協力してくれたメンバーが勢揃いしていた。あのような事件が起こったので、ちょっとした事情聴取が行われたようだ。
 
「……アレクセイは国外退去処分になったよ」

「そうですか」

 白衣姿の松上は、まるで別人のように物静かな振る舞いだ。その優しげな口元から発する言葉にセラミックは複雑な表情を浮かべた。

「別にあなたには何の責任もないのよ。むしろ謝るべきは、巻き込んじゃった私達の方ね」

 吉田真美は普段のラフな格好から一転して、銀行員のようなスーツを着こなしており、いつにも増してクールだ。着痩せするタイプなのか、自慢のお胸は目立つ事もなくスマートな姿である。
 松上は中生代にダイブしている時以外は、あくまでも紳士的で思慮深い研究員。ダイブ中に見られる芸人チックな、お調子者の印象は微塵もない。わざとそういった振る舞いで皆をビックリさせたいのか、内心何か企んでいるのかなと思わず身構えてしまう。こちらの方が本来のメンタルなのだろうか? そうあって欲しいとセラミックは切に願うのだ。

「松上さん、吉田さん! 今日はセラミックが何か持ってきてくれたみたいですよ! まあ、この匂いで鍋の中身が何なのかはバレバレですが……さっきから腹が鳴って仕方ないです。ちょうど昼飯時なんで」

 救援に駆け付けてくれたαチームのリーダー、松野下佳宏が涎を垂らしながら犬のように興奮している。彼は学者然とした松上とは正反対で、日焼けした筋肉質のスポーツマンタイプ。しかも任務遂行中は無口で冷徹な職人風、仕事を離れた現代世界でのOFF中は、陽気でおしゃべりな先輩風になる。名前といい、笑ってしまうほど松上とは好対照な人物だと思われた。
 セラミックはキャンプに持っていくような鍋を火にかけて温め直す。表面が溶岩のように沸き立つ頃には、スパイスの香りに釣られて学者達が次々と足を止めて集まってくる。タイミングよく、炊飯器にかけた白米も炊き上がった。
 店から持ち出した皿にご飯を盛り、鍋底からすくったソースをかけると湯気の中からゴロゴロとした魅惑の肉塊が躍り出てきた。何時間もコトコト煮込んだにも関わらず野菜のように煮崩れることもなく、しっかりとその存在感を主張してくるのだ。

「さあ、“カレー屋セラ”特製の恐竜煮込みカレーを召し上がれ!」

 松上研究員と吉田真美、それに松野下佳宏の前にボリュームのあるディノニクス・カレーがエプロン姿のセラミックによって供された。1階スペースは香辛料の放つ心地よい刺激と新鮮な驚きに満たされ、響めきが歓声のように湧き起こる。

「恐竜カレーだって! なんて贅沢かつ庶民的で親しみやすく、それでいて色めき立つ料理なんだ!」

 松野下がスプーンをくの字に曲げんばかりに握り締め、小刻みに震えながら大袈裟に言い放った。
 一方で松上は白衣の袖をたくし上げると、無言でカレーソースの香りをクンクン嗅いだ。そして肉をスプーンに乗せたと同時に一口噛み締めたのだ。傍で見守っていたセラミックが、お盆を胸の前でギュッと抱いて今か今かと気をもみながら次に出てくる言葉を待っている……。


「セラミック君。このカレーは君のお父様が経営するカレー専門店のルーなんだね。恐竜カレーといっても店の味そのもので、自らの創意工夫が足りないというか、ディノニクスの肉に合わせたスパイスの調合や調理法を試行錯誤でアプローチしていないのでは……」

 松上の感想にセラミックは目をつぶって、おでこを手で押さえた。

「美味いっ!! セラミックちゃん! こんな美味いカレー、今まで食った事ないぜ!」

 あちゃー! という彼女の声に被るように、松野下佳宏の大声がロビーに響き渡った。
 その声に触発され、もう我慢できないといった様子で、わらわらと集まってきた研究員や教授風情のおじ様達がセラミックにどうか一口だけでもカレーを食わせてくれと懇願し始めたのだ。

「松上研究員、あなた料理評論家でもないのに何、偉そうな事を言ってるのよ。セラミックが一晩寝ずに一生懸命作ってきたんじゃないの、素直に美味しいと言ってあげたらどうなのよ」

 あっと言う間に完食した吉田真美がスプーンを咥えたまま、松上に大人げのあるコメントをした。

「う~ん、彼女はプロを目指しているんだよ。恐竜狩猟調理師の国家資格も簡単に取得できる物じゃないし、料理人の卵をここで甘やかしてどうする」

 松上の言葉に反応せず、松野下は眉をへの字にして言った。

「恐竜肉ってスパイス煮込みにするとこんなに美味しいんだ! 筋まで柔らかくなっているし、肉汁ジュワーッと上品で角煮っぽいのかな? 僕はすごく気に入ったよ~」

 突如開催されたカレー試食会に、いい大人の研究員達が子供のように盛り上がり、満面の笑みを浮かべながら米粒と香ばしい肉を頬張っている。

「こりゃあ! 店で出せるわ!」

「どこで営業しているのかね? タクシーに乗ってでも食べに行くよ」

 真面目そうな中堅研究員や、お偉いさんと思しき白髪混じりの教授らがセラミックのカレーを絶賛する。結局、自分の分として用意した皿まで振る舞い、大きな鍋一杯に用意した恐竜カレーは瞬く間に底を着いた。上機嫌の吉田真美はセラミックにウインクして言った。

「ははっ! 皆さんディノニクスのカレーって分かっていらっしゃるのかしら? 材料の原価を聞いたら腰を抜かすわね。そりゃあ美味いわよ、自腹で恐竜なんて食べた事もないはずだわ」

 松上は眼鏡の曇りを拭き取りながら小声で言う。

「僕はセラミックが作ったカレーは不味いなんて一言も言ってないんだがね。まあ、今回の料理の出来は、食べた人達の満足げな笑顔が物語っているかな」 

 夢中で食べているオッサン連中は、とても嬉しそうだ。可愛いらしい女の子お手製の超絶に美味いカレーを口にして、感動しない訳がない。
 セラミックは皆の顔をニコニコしながら眺めつつ、少し寂しげに独り言を呟いた。

「今日のカレーの隠し味として、ダイブ中に松上さんから貰った板チョコを使ったんだけどな……」

 そんな彼女が織りなす心の機微を気にする事もなく、松上晴人は古びたソファーで吉田真美や松野下佳宏と恐竜談義に花を咲かせている。恐竜の話をしている時が一番、松上の目が輝いている瞬間だなと思わされた。

 瀬良美久は心に決めた。当面の目標ができた。あの朴念仁野郎にいつか絶対、心から言わせてやりたい。

『セラミック、君の恐竜料理は本当に美味いな!』

 窓の外には静謐な初夏の風景が広がり、爽やかな風は人々に雅びな季節が到来する兆しを感じさせるのだ。



「ジュラ紀に行くことは許さん! 今後一切、ジュラアナ長野へは出入り禁止だ!」

 セラミックの父親は頑固親父の本領を発揮して、ジュラ紀へのダイブを全面禁止したのだ。

「大きく中生代と言った方がいいかも。実際はジュラ紀と白亜紀のちょうど中間らしいから」

「どっちでも一緒だ! おんなじこっちゃ! 未成年の世間知らずな娘のくせに、大人に混じって危険なマネをするのはやめろ!」

 ますます顔を真っ赤にして憤慨する父親を前にして、セラミックは話し合う交渉の余地がないことを悟った。

「そんな~! 酷すぎるよ! 私がどんなに苦労して恐竜ハントまで漕ぎ着けたのか、パパは知っていると言うの?!」

「そんなの知るか! 大事な娘の身の安全を願っての事じゃないか。お前こそ、どうして両親の思いが分からないんだ?」

「わぁああん!」

 セラミックは階段を駆け登って自分の部屋に閉じ籠もった。自分のベッドに俯せになると、頭からブランケットを被って枕を涙で濡らしたのだ。

「本当に酷い。……今までの努力を、私の気持ちを、それに将来、恐竜狩猟調理師になりたいという夢を全く理解してくれないなんて!」

 先日のジュラアナ長野へのダイブ中に起こった事件。……不測の事態に遭遇した事が、落ち着いた時分になってから親バレしてしまった。
 仲間の裏切りで拘束された挙げ句、太古の世界へ置き去りにされかけた事。更にもっと言うと凶暴な肉食恐竜にチームが襲われてしまった事実が、赤裸々に裏表なく保護者に報告されたのだ。
 その時に父親が見せた怒りの表情をセラミックは忘れられない。失態の説明と責任者としてのお詫びに来た松上に、殴りかからんばかりの勢いだった。これにはさすがの松上も平身低頭――いわゆる平謝りで、いつもの飄々とした態度ではいられなかったようだ。
 セラミックの親友の兄でなかったら、どうなっていたのか分からない。一緒に来ていた吉田真美は終始冷静だったが、母親は泣き出してしまった程である。呑気にディノニクス・カレーなど作っている場合ではなかったのだ。

「姉ちゃん! どうしたんや、大丈夫か?」

 ただならぬ雰囲気を察知したのか、弟の公則が心配して部屋の外から声をかけてきた。

 たった一人の弟である公則は、姉思いの中学2年生で現在、思春期真っ只中。バレーボール部に所属し、キャプテンを努めるしっかり者である。坊主刈りの頭で、姉に似た草食系の瞳を持っている。

「姉ちゃん……父ちゃんが呼んでるぜ」

 弟とは喧嘩をした記憶もない。姉を慕う彼は幼い頃から口答えもせず、常にリスペクトされてきた経緯がある。少し平常心を取り戻したセラミックは、被っていたブランケットを勢いよく取り払い、スローモーションのように空気を孕ませたのだ。

「よし! 大丈夫、大丈夫……」

 セラミックは部屋のドアを開けて、弟に元気な表情を見せつけた。弟は少し周章狼狽したような態度だったが、伏し目がちな目配せにより、階下にいる父親の存在を語ったと思われる。
 そんな公則の所在なげな身を包む上下は、シンプルな白シャツにトランクス。
 唐突な告白となるが瀬良ファミリーはいわゆるパンツ一家なのだ。世間一般の認識から、パンツ一家と言われても何の事か皆目見当が付かないだろうが、要するに夏場は室内において下着のみで生活する裸族なのである。 
 他人の目が届かないのをいい事に、家庭内において父親や弟はTシャツにトランクスという部屋着で通している。さすがに母親とセラミックは下着のみと言う訳にはいかないが、それでもキャミソールに短パンといった薄着で暮らしているのだ。
 瀬良ファミリーにおいて、これはごく日常的な光景なので誰一人として疑問に思っておらず、素肌丸出しのセラミックは母親を始めとして誰からも一切咎められない。彼女自身、子供の頃からずっとこの生活スタイルだったので瀬良ファミリーがかなり特殊な部類とも別段思わず、これが日本では当たり前の風景だとつい最近まで思っていたほどである。
 
 英字プリントされた黄色のタンクトップに水着の上に穿くような、ゆるふわショートパンツの出で立ちで階段を降りていくと、リビングに新聞を読む父親の姿が目に入った。
 当然のごとく薄いシャツに縞々トランクスの格好でソファにふんぞり返っている。まるでビーチリゾートでくつろぐ中年オヤジのようである。よくよく考えてみるとパンツ一丁で偉そうにしている姿は、冷静な目で見なくとも極めて間抜けそのものであった。


「美久……さっきは悪かった。頭ごなしに叱りつけたりして。お前の将来について皆で一度ゆっくり話そうじゃないか」

 パンツパパは新聞の経済面からセラミックの方に視線を移動させた。遠近両用眼鏡のレンズが鈍く光を放つ。ショートスウェットパンツママもキッチンから手を拭きながら、いそいそとリビングの方へやってきた。

「お父さんと話し合ったの。美久は美久なりに、社会人になった時の就職先について真剣に考えているって。でもね……」

 セラミックは自分が目指している仕事について両親が懸念している事は、よく分かっているつもりである。当然だろう、むしろ心配してくれない方が不自然だ。恐竜狩猟調理師の危険度は、あらゆる職業の中でもトップクラスなのだから。ましてや先日のディノニクスの件で実際にピンチに陥った直後である。言うまでもなく、家族の間に走った衝撃と動揺は計り知れない。
 弟の公則もばつが悪そうに茶の間に現れ、4人分の珈琲が淹れられたテーブルを見遣った。家族会議は白熱したかに思えたが、カップに飲み残された珈琲が冷め切ってしまう前に呆気ない結末を迎えたのだ。

 父の言葉――。

「……お前の信念はよく分かった。高校卒業後の進路について、応援してやりたい気持ちも正直ある。だが、やはり覚悟が必要だ。お前にも俺も、いや母さんや公則にだって……参ったな、どうしたものか」

「覚悟……」

 セラミックはその言葉を心の中で反芻した。どうすれば覚悟を示せるか、未成年で学生の自分が置かれている立場では、何を言っても青臭い我儘にしか聞こえないのではないか。説得できるだけの理論も根拠もぶっちゃけ持ち合わせてはいない。

「そうだな、美久。今度の試験で学年トップの成績を叩き出せば……いや、何の条件がいいかね、母さん」

「何か絶対にできそうもない事ねぇ~」

 両親の言葉を遮るようにセラミックはすっくと立ち上がり宣言した。

「そんなの無理! 言うほど頭は良くないもん。それより言ったよね『覚悟』と。私の覚悟を分かりやすく見せたげるわ!」

 おもむろに黄色いタンクトップを脱ぎ、短パンを足元にストンと落とすと、足の親指で横にポイ捨てした。

「――美久!」

 家族の目の前でセラミックはピンクのブラとショーツを丸出しにして堂々と腕を組んだ。父親や弟以上の薄着になって「ふんっ」と鼻息を荒げた。

「お前、一体何を考えて! 急に風呂なのか?」

「はしたないわ、いくら家の中でも」

 弟の公則も目を丸くしたまま、姉の大胆な奇行に注視している。

「今日から3日間、家の中ではお父さんと一緒の姿で通すわ! 言っとくけど花も恥じらう乙女が、3日も裸で過ごす事にどれほどの覚悟と勇気が必要なのか、お分かりいただけるかしら! 不器用な私は、こうやってアピールするのよ!」

 次の日の午後、学校から何事もなく帰宅したセラミックは、自分の部屋でセーラー服をハンガーに掛けると、そのまま何も身に付けなかった。約束通り早速、下着姿のまま生活するつもりだ。
 
 昨日は感情の昂ぶりに任せて堂々と脱いで『裸宣言』を家族の前で告知したが、一日経過して冷静になってみると、かなり恥ずかしく、みっともない事態だと改めて思った。
 とにかく落ち着かず、スースーとする。夏場でよかった……いや、暑い季節でなければ、思い至らなかった宣言なのかもしれない。
 
 そうだ……水着なんだと、ビキニで生活すると思えばよいのだ。無意識の内に防衛本能が働いたのか、今日の下着は原色の分厚い生地の物を選んでいた。上はオレンジ色のスポーツブラ、下は同色の陸上選手が穿くようなローライズのブルマっぽいデザインの物だ。
 
 勢いよく部屋のドアを開けると廊下で弟の公則とすれ違った。彼は見ても触れてもいけない物のようにセラミックから視線を逸らし、気まずそうに下を向いたのだった。生意気にも思春期の奴は、姉が本気でブラとパンツのままで歩き回るのかどうか、わざわざ確認しに来たようにも思えた。でも一目見るなり失笑されなくてよかったと、ほっとしたのも事実。
 だめだ、だめだ! 恥ずかしそうに振る舞うと、逆に収拾が付かなくなりそうな予感がする。セラミックは自分の髪を掴んで左右にかぶりを振った。
 そのまま度胸を試すように半裸で勇ましく下の階まで降りていくと、洗濯物を取り込み中の母親は、頬に手を添えて呆れたように言ったのだ。

「あら、まあ~。本気でパンツ一丁で過ごすつもりなの? その頑固な性格は正に父親譲りね。いいわ、私はもう何も言わない。美久が言った覚悟に対する本気度を、この目で見届けさせてもらうわ」

 セラミックの心が、爪楊枝でツンツンされたように、ほんのちょっぴり疼いた。母親の良識で、この珍妙な状況を止めさせて欲しいと内心期待していたのかもしれない。だが、初日から逃げたりすれば自分の信条を否定し、家族の前で意思の弱さを露呈してしまう事になるのでは?

「いや~、この開放感……最高! 涼しくて身軽で気分が清々とするわ。ママも私と一緒に裸になってみたら?」

 スポーツブラに包まれた豊かな胸を覗かせながらセラミックが言うと「裸にエプロンなんて父さんが卒倒するわ」などと、ビジネスライクな口調で手短に答えたのだった。

 その後、ブラパンツにも慣れてリビングルームで欠伸しながらテレビを見ていると、自宅兼店舗のカレー屋を切り盛りする父親が休憩に入ってきたようだ。セラミックは、わざとらしくソファーで俯せになって両足を交互に曲げたり伸ばしたりしながら、お尻をフルフルさせてみた。
 父親が一瞬、うな垂れて溜め息をついたのが何となしにキャッチできたのだ。

「風邪ひくんじゃねえぞ、馬鹿娘」

 テレビの音に混じって雲散霧消してしまうような小声だったが、セラミックには確かにそう聞こえた。